警告
オークの首が伸び、鋭い牙がびっしりと生えた大きな口が俺へと迫る。
俺自身の身体能力では、到底避けきれないほどの速度だ。だが、俺の身体は迫るオークの首をひらりと躱した。
うん、動く。俺の身体が勝手に動く。いつものように、
目の前を高速で通過するオークの首。その首筋に向かって、俺は右手の聖剣を下から上へと斬撃を繰り出す。
聖剣の刃がオークのぶよぶよした皮膚を斬り裂き、空中に紫の花を咲かせた。とはいえ、首を切断するには至らない。
同時に、俺の左腕に激痛が走る。さすがの聖剣も骨折の痛みまでは消せないらしい。おそらくだけど、聖剣が俺の怪我を気遣っているのだろう。いつもみたいな人間離れした動きをすることもなく、斬撃も普段の鋭さと威力がないみたいだ。
そんな聖剣の気遣いには感謝だが、それでもやっぱり痛いものは痛い。あまりの激痛に叫びそうになる。い、いかん、いかん。フィーンさんが見ている前で、無様に泣き叫ぶわけにはいかないじゃないか。
この痛みもまた、聖剣からの警告だと思い、俺は喉元までせり上がった悲鳴をぐっと飲み込んだ。
そう、警告だ。
先程俺の身体が動かなかったのは……いや、聖剣が沈黙していたのは、俺に対する警告だったのだろう。
聖剣さえあれば敵なしだと思い込み、のぼせ上がった俺に対する、慢心するなという相棒からの警告だ。
異世界は危険な場所である。俺が普段暮らしている現代日本と違って、少し油断するとあっさりと命を落としてしまいかねない。
そんなこと分かり切っていたはずなのに、俺はいつのまにか危険に対する警戒心が薄らいでいた。相棒である聖剣の力を過信し、聖剣さえあればどんな危険でも乗り越えられると思って。
俺は完全に思い上がっていたんだ。だけど、聖剣に一時的に見放されたことで、俺はそのことを改めて自覚した。いや、聖剣が自覚させてくれたんだ。
ごめんな、相棒。俺が馬鹿だった。これからは決して己惚れないようにするよ。今、オークと互角に戦えているのも、全部相棒のおかげだもんな。
右手一本で聖剣を構え、少し離れた所にいる巨大な白いイモムシのような怪物を睨み付ける。
……でも、あえてちょっとだけ言わせてもらえるなら、骨折は警告としては重すぎると思うんだ。
あ、骨折のこと思い出したら、また左腕が激しく痛み出しちゃったよ。
確か骨折って、完治するのに一ヶ月以上かかるんだっけ? だとすると、バイトにも支障が出そうだ。
店長やバイト仲間たちに迷惑かけちゃうなぁ。あ、でも、もしかして香住ちゃんは心配してくれるかな? 片手だと日常生活にも困るだろうからって、俺の下宿先に来て掃除とか料理とかしてくれたりなんかして。
いやー、本当にそうなら、骨折も悪くないね!
なんて、自分勝手な妄想をしていたら、再び左腕が激しく痛んだ。俺が勝手な妄想をしている間も、オークとの戦いは続いていたのだから当然だ。
いかん、いかん。今は目の前のことに集中しないと。今度こそ聖剣に見限られるかもしれない。
改めて、オークへと目を向ける。奴は小刻みに身体を震わせて、再び大きな咆哮を上げた。
この咆哮、本当に音響兵器と言ってもいいぐらいの威力だ。咆哮を浴びた俺の身体が、しばらく動きを止めてしまう。先程は聖剣が俺を勝手に動かしてくれたが、今度はそうではないようだ。
大きな咆哮に顔を顰めつつ、それでも俺はオークから目を離さない。いや、離せなかった、と言った方が正しい。
なぜなら、オークの体に異変が生じたからだ。奴の背中に罅割れのような筋が二条走り、その筋がぱっくりと開く。
罅割れの中から飛び出してきたのは、一対の翼。蝙蝠の羽のような、皮膜の翼だ。
どうやらオークが人知れずこの森に現れたのは、人目の少ない夜間にでもこの翼を使って移動したからではないだろうか。
ほら、この森の住民たちってみんな植物だし、俺の勝手なイメージかもしれないけど、夜は活発に動かないような気がするんだよね。
体内に隠していた翼を大きく振り、オークの巨体が宙に浮く。そして、奴は急降下するような勢いで俺へと突進してきた。
咆哮の影響はとっくに消え去り、俺の身体は奴の突進を問題なく躱す。その際、やっぱり左腕が痛かったことは俺だけの秘密だ。
そして、痛みは左腕だけじゃなかった。オークの身体がすれ違った瞬間、頬にぴりっとした痛みが走っていた。どうやら完全に回避できずに、奴の翼の先が頬を掠めたらしい。
頬を伝い落ちる何かを右手の甲で擦り取る。大丈夫、こっちの痛みは左腕ほどじゃない。
なあ、
そろそろ、いつものようにあいつを倒そうぜ? 大丈夫、左腕の痛みなら我慢してみせるから。それに、放っておくとこの森が更に破壊されかねないし。
実際、オークが食っただけではなく、俺とオークとの戦いで少なくない樹々がへし折れている。樹々だけじゃなく、巻き込まれた小さな動物だっているだろう。俺はこれ以上、森の被害を大きくしたくないんだ。
「さあ! いこうぜ、相棒!」
最後の一言だけを口に出し、俺は自分で地を蹴った。俺自身の意思による走りは、徐々にその速度を増して正に疾走と呼ぶに相応しい状態へと至る。
もちろん、足が地を蹴って身体が揺れる度に左腕に痛みが走るが、そこは歯を食いしばって我慢だ。ここで泣き言なんて言っていられないよな。
見る間に迫るオークの白い体。よく見れば、奴の体は最初の時より一回りは大きくなっている。うん、見間違いじゃない。確実にオークの体は大きくなっている。
その成長は暴食の結果か、それとも俺と戦うための戦闘態勢か。
どちらにしろ、奴もやる気みたいだ。
だん、と一際力強く踏み込み、右手の聖剣が空中に銀色の弧を描く。
その銀線に、途中で紫が混じる。聖剣がオークの胸元……ってか首の付け根辺りを切り裂き、奴の体液を噴き出させたのだ。
再びオークが咆哮する。だが今度の咆哮には、今までみたいに身体を麻痺させるような効果はなかった。どうやら、今のは単なる苦しみの咆哮らしい。
いや、違う。今度の咆哮もまた、単なる苦し紛れのものではなかった。咆哮に合わせてばちりという音が響き、オークの体表が帯電する。
え、こんな能力もあるのっ!?
驚く俺を余所に、身体の方は勝手に大きくバックジャンプをしていた。同時に、オークの全身から激しい放電がおこる。ふう、何とか放電に巻き込まれずにすんだみたいだ。
しっかし、オークが翼を出した時から思っていたけど……これで放電能力まであるなんて、まるっきり某有名ハンティングゲームに登場する白い飛竜みたいだな。もっとも、ゲームの飛竜にはしっかりと脚があったけど。
ん? ってことは、口からも放電するかもしれないぞ。よし、注意しておこう。
俺のそんな考えを読んだのか、俺の身体はゆっくりとオークの側面へと回り込む。そして、奴の放電が止まった瞬間、再び大地を蹴って奴へと接近する。
一瞬で彼我の距離を零にして、再び空中に銀線が描かれる。今度もまた、聖剣はオークの体を斬り裂くも、致命傷には至っていない。
聖剣が俺の怪我を気遣っているから攻撃の威力が落ちているとばかり思っていたけど、もしかすると奴の防御力が高いからかもしれない。
あのぶよぶよとしたゴムみたいな皮膚が、斬撃の威力を減らしているとか十分ありそうだ。
なあ、聖剣。おまえはどう思う?
その後、俺と聖剣はオークの放電と噛みつきに注意しながら、何度も接近と離脱を繰り返し、奴の体表に傷を入れていった。
どうやらオークの皮膚が、斬撃に対して高い防御力を持っているのは確実みたいだ。きっと奴の皮膚がカッティングマットのような効果を持っているんじゃないかな。俺の勝手な想像だけど。
だとしても、全く無効ってわけでもない。今のオークは全身から紫の血を流し、苦しげに身悶えている。
それでもオークから戦意は失われていない。再び奴は首を伸ばし、俺を一飲みにしようとその大きな口を開く。
俺は最小限の動きでその噛みつきを躱した。耳元でがちんという顎が閉じる音が聞こえ、肝が冷えた思いをする。
同時に、俺の身体は大きく宙へと跳躍する。どうやら、相棒もここで勝負を決めるつもりのようだ。
血を流しすぎたのか、オークの動きは明らかに鈍くなっている。オークだって生き物である以上、疲労だってするだろう。
いつの間にか、俺は両手で聖剣を構え、頭上へと翳していた。脳内麻薬でも出ているのか、不思議と骨折の痛みは感じない。それとも、聖剣が一時的に痛みを忘れさせてくれているのかも。
跳躍によって最高点へと到達した俺は、見えない足場を蹴って急降下する。いつも思うけど、この見えない足場って何だろう? いつか、その正体を知りたいな。
落下速度に見えない足場を蹴った勢いを乗せ、上空から急襲をしかける。狙いは伸ばされたまままだ戻りきっていないオークの首。その首にある聖剣が与えたいくつもの傷が、俺の目にはっきりと映る。
その傷の一つを上からなぞるように、両手で構えた聖剣がより深く斬り裂いていく。
今まで以上に奴の体から紫の血が噴き出し、俺の身体を染めていく。後でどこかで水浴びしたいな。一緒に服も洗わないと。
これまで以上の手応えが、聖剣を持つ両手に伝わってくる。ごつりと刃が硬い物に当るが、聖剣はそれさえ斬り裂いていく。
そして遂に、俺は聖剣を完全に振り抜いた。何かを斬り裂く手応えが消え、同時に何かがどさりと地に落ちた。
いや、何かじゃない。見なくても分かるが、落ちたのはオークの首だろう。もちろん、気持ち悪そうだからそっちは極力見ないようにするけど。
首を失い、同時に命も失ったオークの体の方も、力なく翼を大地へと垂らしていた。どうやら、これで戦いは終わりらしい。
「シゲキっ!!」
声の方へと振り向けば、フィーンさんが心配そうな顔で俺へと駆け寄ってくるところだった。
それほど大きくはないけど、陽光の下に惜し気もなく晒されている彼女の胸が、ふるるんと揺れていて実に眼福である。
この世界のエルフって植物だけど、やっぱり胸は揺れるんだなぁ。
なんて馬鹿なことを考えつつ、どんどん近づいてくるフィーンさん──の揺れる胸──を見ていた俺を、最接近した彼女が力一杯抱き締めてくれた。
「ああ、良かったわ! シゲキがオークと戦っている間中、わ、私、あなたが心配で心配で……」
涙さえ浮かべたフィーンさんが、嬉しそうな笑顔で俺を見上げている。
植物だからひょっとすると固いかも、なんて思っていたけど、俺に抱き着いているフィーンさんの身体、予想に反してとっても柔らかかった。至福、至福。
だけど。
だけど俺には、フィーンさんの柔らかな身体を堪能している余裕はなかった。戦いが終わったことでぶり返した左腕の痛みが、俺の全身を駆け抜けていたからだ。
しかも、俺に抱き着いたフィーンさんの両腕が、運悪く骨折箇所をストライクでぎりぎりと締め上げているのだ。
「ひぎ────っ!!」
思わず喉から零れる小さな悲鳴。
フィーンさんって、結構力があるんですね。俺、気を失いそうになるぐらい左腕が痛いっす。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます