伝説のオークと湧き上がる不安



 地面に輝く光の輪。それが「妖精の輪」だった。

 その輪の中に、俺は躊躇いなく足を踏み入れる。途端、目の前の光景が一瞬で切り替わった。おお、本当に瞬間移動したようだ。

「あ、ああ……な、なんてこと……も、森が……」

 俺に続いて同じように妖精の輪で転移したフィーンさんが、目の前の光景を見て両手で口元を覆いながら悲しげな声を出した。

 そりゃそうだ。彼女にしてみれば、今俺たちの目の前に広がるこの光景はかなりショックなものだろう。

 緑豊かだったはずの森が、無惨に食い荒らされていた。そう。間違いなく、食い荒らされていたんだ。

 樹木と言わず下生えと言わず、手当たり次第に食い荒らされていた。中には森に暮らす動物らしきものの肉片も落ちていて、小さな血溜まりもあちこちに見受けられる。

 たくさんの木々が生い茂る森の中で、ぽっかりと空いた樹木のない……いや、何もない空間。そんな空間が、俺たちの前に広がっていたのだ。

「あああああああああああああっ!!」

 呆然と目の前の光景に見入っていた俺の耳に、小さな悲鳴が聞こえた。

 反射的にそちらを振り向けば、今まさに一体のアルラウネが、その怪物に食われている真っ最中だった。

 レタスやキャベツなどを食べる時に発する、しゃきしゃきという音。その音はある意味で俺にも馴染みのある音で、それほど嫌悪感を抱くことはなかった。

 だが、人の形をしたものが食べられる瞬間というものは、やはり衝撃が大きかった。

 もちろん、食べられているアルラウネ──大きなバラのような花弁の中心に、小さな少女の姿がある種族──は、植物だ。そのため、周囲に血や臓物が飛び散るようなことはなく、ただただ食われるアルラウネの悲鳴が聞こえてくるだけ。だけど、俺は込み上げてくる吐き気を抑えることができなかった。

 思わず地面に跪き、胃の中身をぶちまける。もっとも、朝食を食べてから時間が経っていたため、ほとんど胃液ばかりだったけど。

 苦しげにえずく俺の横で、フィーンさんは破壊され続ける……いや、食い荒らされ続ける森を悲しげに見つめていた。

 そして、そんな彼女の視線の先に、それは……伝説の生き物は確かにいたのだ。



 その生き物が、どうしてこの森に現れたのか、俺には分からない。どのような理由で、そして、どのような経路でこの森に入ってきたのかも、俺は知らない。

 だけど、それは確かにそこにいた。

 牛ほどの大きさのぶよぶよした白い肉の塊。一言でその生き物を表すならば、そうなるだろうか。

 目や鼻に該当する器官は見当たらない。もちろん、見えないだけで体のどこかにあるのかも知れないが、それ以上にその生き物が持つ大きな口が、俺の目には焼き付いていた。

 手足もなく、イモムシのようにずりずりと這うように移動するその生物には、巨大な口だけが存在したのだ。

 そう。

 まさに、そいつはイモムシだった。

 白くてぶよぶよした体。ぱっと見では頭部と胴体しかないように見える。そして、その頭部の半分近くにまで及ぶ大きな亀裂。亀裂には細かな牙がびっしりと生え、まるでヤスリのように、その亀裂──口で咥えたものをがりがりと削り取り、次々に嚥下していく。

「こ、こいつがオーク……? 伝説の生き物……?」

「お、おそらく……そ、そうだと思います……」

 吐き出すものがなくなった俺は、地面に膝を突いたまま掠れた声で呟いた。そしてそんな俺の呟きに、フィーンさんもまた同意のようだった。

 トレント族の長老さんは、伝説のオークのことを「悪鬼」と言ったが、確かに目の前のこの生物を表現するのには、「悪鬼」という言葉は実に的を射ているのではないだろうか。

 昨今の日本で「オーク」といえば、直立歩行する豚人間、というのが定番のイメージだが、こいつは直立歩行どころか四つ足歩行さえしていなかった。

 まさに、巨大なイモムシ……イメージとしては、寸詰まりになったカイコ蛾の幼虫と言えば理解してもらえるだろうか。

 とにかく、俺がイメージしていたものとはまるで違う姿。それが、この世界の伝説の生き物であるオークだった。

 そういえば、日本の妖怪の中に「づち」という巨大なイモムシのような妖怪が存在するが、このオークはもしかすると、その野槌に類するような怪物なのかも知れない。

 俺がそんなことを考えている間も、オークは「食事」を続けていた。

 一齧りで樹の幹を八割方齧り取り、めきめきと音を立てて樹が倒れる。そして、その倒れた樹をオークはべきべきと食べていくのだ。

 同時に、その樹に棲んでいたらしい小動物も、逃げ遅れたのか一緒に奴に食われていた。

 破壊音と咀嚼音、そして嚥下音だけが、陽光が燦々と降り注ぐ森の中に響く。

 余りにも予想外すぎて、見つめることしかできない俺と、恐怖からかがたがたと細かく震えるばかりのフィーンさん。

 そんな俺たちの耳に、アルラウネの新たな悲鳴が届く。

 反射的に動いた俺の瞳に、悲鳴を上げつつオークから逃げようとする一体のアルラウネが映り込む。

 オークが這う速度は意外に速く、必死に逃げるものの足の遅いアルラウネは、見る見る内に距離を詰められてしまう。

 更にオークはその首をびろーんと伸ばし、逃げるアルラウネに食いつこうとする。

 そうはさせるか!

 心の中でそう叫びつつ、俺は駆け出した。

 なあ、あいぼう。こんな場面、黙って見ていていいわけがないよな。おまえが一緒なら、俺は恐いものなしだ。また、いつものように力を貸してくれ。

 次の瞬間、俺は鞘から引き抜いた聖剣を構えつつ、オークとアルラウネの間に飛び込んだ。



 不気味に伸びるオークの首。その首を、俺は掬い上げるような剣撃で上へと弾き飛ばした。

「早く! 今の内に逃げてください!」

 背後を振り返ることなく、俺はアルラウネに逃げるように指示する。

 俺の指示に従ったのかどうか分からないが、襲われていたアルラウネはあたふたと逃げていく。

「シゲキ……っ!!」

 やや遠くから、心配そうなフィーンさんの声。

 大丈夫、俺には聖剣がある。これまで、俺とあいぼうは邪竜王や毒グッタングなどの強敵を相手にしてきたんだ。こんなカイコ蛾の幼虫モドキなんざ、あっと言う間に倒してしまえるさ。

 そんな思いから、心配そうに俺を見つめるフィーンさんに、不敵な笑みを浮かべて見せた。

 心配ないですよ。こんな奴、ぱぱっと片づけちゃいますから。

 余裕たっぷりに、心の中でそんなことを呟く俺が改めてオークへと視線を移した時。

 目の前に、大きく開かれた奴の口があった。

「う……うわあああああああああああっ!?」

 反射的に目を閉じ、頭部を庇うように両手で構えた聖剣を翳す。途端、両手に痺れるような衝撃が走り、俺はその衝撃を受け止めることができずにそのまま数歩後ずさり、無様に尻餅をついてしまう。

 見れば、オークが伸ばした首をゆっくりと引き戻すところだった。

 あ、あれ? おかしいな? 今までだったらオークの攻撃を華麗に避けて、返す刀でずんばらりん、ってところじゃね?

 更には、俺の身体はいつまでも尻餅をついたままだ。あれ? これ、本格的におかしくないか?

 じわじわと湧き上がる恐怖心。ゆっくりと、俺の視線が手の中の聖剣へと移動する。

 お、おい、聖剣? どうしちゃったんだよ? これまでのように、俺の身体を操って華麗にあのオークを退治してくれよ。

 心の中で必死に語りかけるも、聖剣は黙したままだ。いや、聖剣はこれまで何も喋ったことはないけど。

 ま、まさか……まさか、だよな? 俺の心の中を、恐怖という名の塗料が塗りつぶした。

 地面に座り込み、呆然と聖剣を見つめる。当然、そんな隙だらけの俺をオークが黙って見ているわけがない。

 再び伸びるオークの首。座り込んだままの俺にその首を回避できるはずもなく、俺はオークの首に噛みつかれた。

 噛みつかれた場所は、左腕の上腕。座ったままでも反射的に動いて、身体を半身にしたためだ。

 だが、さすがは未来装備。《銀の弾丸》の青銀のジャケットは、オークの牙を防いでくれた。

 防弾防刃繊維と裏側に仕込まれたチタンプレートが、オークの牙から俺をしっかりと守ってくれたのだ。その代償として、ジャケットの表面はまるでヤスリでもかけたかのように、派手にささくれ立っていた。

 それだけオークの牙が鋭いということなのだろう。

 しかし、牙そのものは防げても、噛みつかれた衝撃そのものまでは防げない。まるで金属バットか鉄パイプで殴られたような衝撃──そんな物で殴られた経験なんてないけど──が、俺の左腕を駆け抜けた。

 同時に、ごきりという鈍い音。も、もしかして、骨が折れたのか?

 思わず左腕を動かした途端、その左腕に激痛が走る。どうやら本当に骨折したみたいだ。

 ずぞぞぞぞと、背筋を恐怖が這い登る。

 ど、どうなっているんだよ、これっ!? どうして……どうして聖剣は俺の身体を操ってくれないんだっ!?

「お、おい、あいぼう……どうしちゃったんだ……? も、もしかして、お、俺を見限ったのか……?」

 恐怖の正体。それは、俺が聖剣から何らかの理由で愛想を尽かされること。それは、異世界では死に直結することを意味する。

 自分の背後に死神が立っている気配を確かに感じた俺は、いまだに立ち上がることなく呆然と聖剣を見つめるばかりだった。



「シゲキっ!!」

 切羽詰まったフィーンさんの声。その声に思わず顔を上げた俺は、オークの大きな口が眼前まで迫っていることに初めて気づいた。

 あ、これ、終わったんじゃね?

 そんな諦観が、俺の心の中に湧き上がってくる。

 オークの巨大な口と鋭い牙は、俺の頭なんて一口で齧り取るだろう。このまま、俺はオークの腹の中に収まるってわけだ。

 だけど。

「……だけど、このまま黙って死なないからな!」

 俺は動く右手だけで聖剣を構える。オークの口は間近まで迫っているので、立ち上がっている余裕さえない。

 しかし、迫るオークの大きな口の中に、聖剣を突き立てることぐらいはできるはずだ。

 きっと、俺の右腕はそのままオークに食われるだろう。そして、その次は頭だろうか? それとも、胴体だろうか?

 どこでもいい。でも、死ぬ前にせめて、聖剣を奴の体に突き立ててやる。

 そんな決意を双眸に宿し、俺はオークの頭を睨み付けた。そして、いよいよ聖剣の間合いにオークの頭が迫った時、俺は目を閉じたまま全身全霊の力と気迫を込めて、右手の聖剣を真っ直ぐに突き出した。

 その時、右手の聖剣が僅かに震えたような気がしたのは、死が間近に迫った俺の錯覚だろうか。



「あ……あれ?」

 いつまで経っても感じられない痛みに俺は思わず首を傾げ、恐る恐る目を開けた。

 その俺の視界に飛び込んできたのは、少し離れた所から威嚇するように低く唸るオークの姿。

 更によく見れば、オークの頭部に深い裂傷が刻まれており、そこからどろりとした紫色の液体が流れ落ちていた。

「い、一体……何が……?」

 呆然と呟く俺。その呟きに応えたというわけでもないだろうけど、オークが激しい咆哮を上げた。

 ぐわんぐわんと頭の中を揺さぶるような咆哮。もしかすると、これも奴の特殊能力なのかもしれない。ほら、咆哮で敵の動きを一時的に止めるって、ゲームなんかでよくあるじゃないか。

 ちらりと横目で見れば、離れた所でフィーンさんが両手で耳を押さえながらしゃがみ込んでいる。

 左腕は折れ、右手に聖剣を構えている俺は、耳を塞ぐことさえできない。オークの咆哮は容赦なく俺の鼓膜と脳を揺さぶり、平衡感覚を奪っていく。

 普通なら、満足に歩くことさえできないぐらい、俺の平衡感覚はダメージを受けていた。だけど、俺の身体は何の問題もないかのように、真っ直ぐに走り出した。もちろん、目標は白いイモムシ──オークだ。

 走る衝撃で左腕が激しく痛むが、その激痛を歯を食いしばって押し殺す。今は泣き言なんて言っていられる場合じゃないもんな。

 右手一本で聖剣を構えた俺は、放たれた矢のような速度と勢いでオークの懐へと飛び込み、そのまま真一文字に右手の聖剣を振り抜いた。



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