襲い来る〈鬼〉



 必死に走る俺と瑞樹。やはり性別による身体能力からか、俺の方が足が速い。

「私に構わず先に行って!」

 遅れだした瑞樹の声が背後から聞こえる。彼女のその言葉に無言で応え、俺は走る速度を更に上げた。

 自慢じゃないが、走る速さにはちょっと自信がある。そりゃあ、本格的に陸上に打ち込んでいる連中には敵わないが、それでも高校時代はクラスの中でも速い方だった。

 背後に感じられる瑞樹の気配が、どんどん離れていく。それに構わず、俺は前に向かってひた走る。

 そして、すぐに目的とするものが見えてきた。駅へと抜ける細い路地。ここ、人通りは少ないけど、駅へと抜ける近道なんだよな。その細い路地の中程で、地面に踞るようにしている香住ちゃんがいた。

 彼女は踞りながら必死に手で鼻と口元を押さえているようだ。

 そしてその彼女の周囲を、ふわふわと旋回するように漂う煙のようなモノ……それは間違いなく〈鬼〉だ。

 もしかして、あの〈鬼〉が香住ちゃんに取り憑こうとしているのか? ってことは、香住ちゃんは刃物を持っていないってこと?

「香住ちゃんっ!!」

 俺の声に、香住ちゃんが涙に塗れた顔を上げた。相変わらず、鼻と口元を両手で押さえたままだけど。

 これは後で瑞樹に聞いたのだが、〈鬼〉が人に取り憑く時、鼻や口から人間の体内に入り込むのだそうだ。

 「取り憑く」という言葉から、憑依するようなイメージだったのだが、実際には「寄生」と言った方が正しいらしい。

 体内の臓器に居座り、時に血管を通して体内を移動しながら、宿主の生命力や体力を吸い上げる。

 とはいえ、外科手術で〈鬼〉の居座った臓器を摘出するのもほぼ不可能。

 〈鬼〉はレントゲンに写らないので、どの臓器に居座っているか調べる方法がない。胃や腸ならば内視鏡で確認できる場合もあるが、仮に見つけてもすぐに別の臓器へ移動してしまうそうだ。そもそも見つけたとしても、実体を持たないので排除する方法もない。

 よって、取り憑いた〈鬼〉を体内から追い出すことは、ほぼ不可能と言われているわけだ。まさか、体内の臓器を全て取り除くわけにもいかないし。

 って、今は〈鬼〉の習性を考えるよりも、香住ちゃんを助けることを考えるべきだ。

 俺は更に足を速め、香住ちゃんへと近づいていく。

 聖剣を持つ俺が彼女の傍にいけば、〈鬼〉だって香住ちゃんから離れるだろう。単純にそう考えて、香住ちゃんへと駆け寄る俺──の、走る速度が一気に増した。

「はえ?」

 思わず自分の口から間抜けな声が出る。確かに走ることには少し自信がある俺だが、こんな速度が出せるわけがない。おおよその体感でしかないけど、今の俺って自転車が全力で走るぐらいの速度が出ているんじゃね?

 瞬く間に接近する香住ちゃん。彼女の目が驚きに見開かれたのはよく見えた。

 次いで、俺の身体が跳躍する。うん、この感覚にも慣れたよ。これ、いつものように聖剣が俺の身体を操っているんだな。

 刀身と鞘が擦れる僅かな音を奏でながら、聖剣が引き抜かれる。そして、引き抜いた聖剣を両腕で高々と頭上に掲げながら、まだ踞っている香住ちゃんへと落下していく。

 落下しつつ、俺の両腕が振り下ろされる。もちろん、振り下ろされる聖剣が狙うのは、香住ちゃんの周囲を漂っている〈鬼〉だ。

 聖剣の銀の刀身が、〈鬼〉をあっさりと両断する。相手は煙のような霊体のような存在なので、ドラゴンやデスグリズリーを斬り裂いた時のような手応えはない。だが、確かに聖剣は〈鬼〉を斬っていた。

 まるで苦しむように身悶えしながら、〈鬼〉の体が小さくなり、やがて空気に溶け込むようにして消えていった。

 着地した俺は、そのまま流れるような動作で聖剣を鞘へと叩き込む。もちろん、聖剣がやっているんだ。

 そして、香住ちゃんの方へと目を向ける。怪我とかしていないといいけど。

 って、あれ? 香住ちゃんの様子、何かおかしくない? 先程以上に目を見開いて俺をガン見しているんですけど?

 わけも分からず、そのまましばらく無言で見つめ合う俺と香住ちゃん。

 この状況どうしたものか、と首を傾げようとした時、背後から瑞樹の声が聞こえてきた。

「……う、うっそぉ………………」

 振り返れば、瑞樹まで驚きの表情で俺を見つめている。うーん、俺、何か変なこと、したっけ?

「……み、瑞樹さん……み、瑞樹さんの従兄妹さん……お、〈鬼〉を斬っちゃいましたよ……?」

「う、うん……わ、私も確かに見たわ……茂樹が〈鬼〉を斬るところ……」

 わなわなと震える声で、そんなことを言い合う瑞樹と香住ちゃん。

 そういや、〈鬼〉って退治できないんだっけ? まあ、今更だよなぁ。この聖剣なら何でもありだし。実際、ドラゴンが吐いた炎だって斬り裂いたしな。

「そ、それより香住、刃物持っていないの?」

「そ、それが……今日は友達と出かけるので、新しいバッグを持ってきたんですけど……刃物はいつものバッグに入れたままで……」

 どうやら香住ちゃん、いつも持ち歩いている刃物を入れ替え忘れたようだ。

 そりゃあ中には刃物を腰に下げず、バッグなどに入れている人だっているよな。別に素早く刃物を抜くことが目的じゃないんだし。

 だけど運悪く……というかちょっと抜けていたというか、新しいバッグを持ち出したことで、いつもの刃物を入れ忘れたらしい。

 こういう人はやはり時々いるそうで、そういう人が〈鬼〉に憑かれてしまうのだとか。人通りが多い所なら、他の人が刃物を持ち歩いているからそれほど危険ではないけど、こういう人通りの少ない路地だと危ないってわけだな。

 香住ちゃん自身も、〈鬼〉に襲われるまで刃物のことはすっかり忘れていたみたいだし。

「とりあえず、私の剣を貸してあげるから……今見たことは内緒にしておいてね?」

「わ、分かりました。〈鬼〉を倒せる人がいるなんて、絶対大騒ぎになりますからね……」

 瑞樹と香住ちゃんが、どこか呆れたように俺を見ながらそんなことを言った。



 香住ちゃんと別れた俺と瑞樹は、俺の部屋……じゃなくて瑞樹の部屋へと戻ってきた。

 別れる時に香住ちゃんに剣を貸した瑞樹だが、俺と一緒だったので特に危険はない。それに、予備の刃物ぐらいは部屋にあるだろうし。

 そして部屋に辿り着いた途端、瑞樹が厳しい目で俺を見つめてきた。

「ねえ、茂樹。あれは一体どういうこと? どうして、倒せないはずの〈鬼〉を斬ることができるのよ?」

「そんなこと俺に言われてもな……この聖剣が特別だってことじゃないのか?」

 鞘から引き出した聖剣の、銀色に輝く刀身を見つめながらそう答える。

 まあ、聖剣っていうぐらいだから、邪悪とか悪霊を退ける力があるってことじゃないかな?

 でも、考えてみればこいつはおおごとかもしれない。

 こっちの世界では、これまで〈鬼〉を倒した前例はないのだ。少なくとも、公にはそうなっている。

 それなのに、その〈鬼〉を易々と斬り捨てた俺。ちょっと考えれば、大騒ぎになるのは間違いないだろう。

「香住は約束したことを破るようなじゃないし、あの時は周囲に他の人もいなかったから良かったけど……今後は絶対、他人の目がある場所で〈鬼〉を斬ったら駄目だからね?」

「う、うん、分かったよ」

 びしっと俺に指を突きつけながら念を押す瑞樹。彼女の言い分ももっともなので、俺も素直に頷いておく。

 そんな俺を見て、瑞樹は呆れたように溜め息を吐き出した。

「はぁ……もう、何だか朝から疲れちゃったわ。それより、折角買ってきた朝御飯、食べちゃいましょうか」

 その提案には俺も全面的に賛成である。さっきからかなり腹ペコだったんだ。



 改めて、朝食を摂る俺たち。

 ちなみに、この朝食の代金は俺持ちだ。夕べ、この部屋に突然転移し、偶然とはいえ瑞樹の半裸姿を見てしまったお詫びである。

 その程度で許してもらえたのだから、安いものだと思う。本当に。

 しかし、一人だけとはいえ、諭吉さんを連れて来て良かったよ。

 紙幣も硬貨も、俺のものがこっちでも使えた。あれこれと違いはあっても、ここが日本であることには違いないんだな。

「……そういや、あなたが使ったあのお札……向こうの世界から持ってきたものよね?」

 食後に瑞樹が入れてくれたコーヒーを飲みながら、彼女がふと思いついたように尋ねてきた。

 料理は全く駄目な瑞樹だが、さすがにインスタントコーヒーぐらいは常備してあったらしい。

「もちろんそうだけど……それがどうかしたのか?」

「だってあれ、向こうの世界のお札でしょ? だったら、こっちにもあのお札と同じ番号のお札があるんじゃないかと思って……」

 なるほど。確かに言われてみればそうだよな。

 俺が使った諭吉さんと同じ番号の諭吉さんが、こっちの世界に存在していても不思議じゃないもんな。

「確かにその通りだけど、気にすることもないだろ? 普通、いちいち札の番号なんて確認しないだろうし」

 何かの事件ならともかく、コンビニでいちいち札の番号をチェックするとは思えない。別に俺が使った札が偽札ってわけでもないし、気にするまでもないだろう。

「ま、それもそうよね。ところで……」

 瑞樹は柱にかけてある時計を見ていた。この時計、俺の部屋にある時計と一緒だな。

「あなたって、いつまでこっちの世界にいるの? 確か、こっちにいられる時間は限られているって言っていなかったっけ?」

 そう言われて、俺は改めて時間を確認した。

 今の時間が午前九時四十分ってところか。前回と同じ時間こっちにいられるとしたら、そろそろ向こうに戻る時間だよな。

「あと三十分もいられないと思う。正確な時間までは分からないけどな」

「ふーん……」

 何やら考え込んでいる様子の瑞樹。彼女と俺は同じ存在とはいえ、思考まで同じってわけじゃない。当然ながら、彼女が今何を思っているのかまでは分からない。

「ちょっと聞きたいけど、いい?」

 俺が頷くのを確認してから、瑞樹は不思議そうな顔で質問を続けた。

「どうして茂樹は夜に転移してきたの? 転移していられる時間が限られているのなら、朝一番に転移した方がいいんじゃない? 夜に転移したら、異世界にいられる時間の半分ぐらいを寝ていることになるでしょ?」

 あ……。

 言われてみればそうじゃん! どうして俺、そこに思い至らなかったんだ!?

 異世界に行くのが楽しみ過ぎて、バイトが終わり次第転移していたけど……朝に転移した方が異世界を長い時間楽しめるじゃないか!

「……今度から、朝になってから転移しよう……」

 そう呟いた俺を、瑞樹がにっこりと微笑みながら見ていた。



 そろそろ俺がこっちの世界にいられるのもタイムリミットか。

 柱の時計を見ながら、俺は元の世界に帰る準備を整えていた。

 俺がこっちに来た時に持ってきた物は、全て身に着けている。忘れ物はないはずだ。

「世話になったな、瑞樹」

 瑞樹に別れの挨拶を告げる。そういや、こうしてちゃんと別れを言ってから元の世界に帰るって、初めてだな。

「また来られるの?」

「どうかなぁ? どんな世界へ転移するのかは、全てこいつ次第だし」

 俺は腰に佩いた聖剣へと視線を落とす。どんな世界に行けるのかは、全て聖剣任せだ。異世界がいくつあるのかさえ分からないけど、一度行った世界に二度と行けないってわけでもないだろう。

 だったら、俺がもう一度この世界……瑞樹がいるこの世界に来られる可能性はある。

 俺がそう言うと、瑞樹は微笑んだ。

「また来ることができたら、歓迎してあげるわ。でも……お風呂に入っている時に来るのだけは絶対にやめてね?」

 ちょっとだけきつい目をして、瑞樹は釘を刺してきた。

「ああ、今度来る時は朝に来るよ」

 瑞樹の部屋の床に座りながら、俺たちはそんな軽口を言い合った。

 彼女と出会ったのは昨夜が初めてだけど、やっぱり自分自身だからなのか、妙に気が合うんだよな。まるで、長い間一緒に暮らしていた双子の兄妹のように。

 中にはどうしても仲良くできない兄妹もいるかもしれないが、俺たちはそうではない。

 もっとも、だからと言って瑞樹に対して恋愛感情はこれっぽっちも湧かない。きっと、瑞樹も俺に恋愛感情なんて全くないだろう。それもやっぱり、瑞樹が「俺自身」だからだと思う。

 そんなことを考えていると、ふと軽い眩暈に似た感覚を覚えた。思わず目を閉じ、再び目を開けた時。目の前にいたはずの瑞樹の姿は消えていた。

 そして、ゆっくりと周囲を見回せば、今俺がいるのは瑞樹の部屋ではなく、間違いなく俺の部屋だった。

「…………帰って来たのか……」

 そう。

 俺は自分の世界に戻って来たのだった。


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