第九話 小さな約束

「えっと、問題集のコサイン三十度の答えは……」

 彼女の表情はだんだんと暗くなっていく。

「二分の、二分の……」

 その先が読めないらしい。

「ルート三」

「そうそう、ルート三よ。分かってるわよ。ちょっと忘れてただけよ。ってそれ、何だったっけ?」

 せっかく助け舟を出してあげたのに、ズッコケそうになる。

 だからちょっと意地悪してみることにした。


「人並みに奢れや」


「なっ!?」

「だから、人並みに奢れや!」

 一瞬言葉を失った彼女だが、すぐに顔を真っ赤にして反論する。

「ちょ、ちょっと、いきなり何言い出すの? そりゃ、サインやコサインを教えてくれて感謝してるわよ。奢ってあげたい気持ちにもなったわよ。でも盗撮やコラ写真の件はどうなるの? 差引すると、どうみても私の方が奢ってもらう方だと思うんだけど。試しにこの周辺の女の子に聞いてみてもいいわ。きっと同じ答えをすると思うから」

 この人に口では敵わないなと思いながら、やれやれと僕は種を明かす。

「悪かった。ちょっと落ち着いて。『人並みに奢れや』ってのは、ルート三の覚え方だよ。一・七三二〇五〇八だから」

「えっ……」

 彼女は、恥ずかしさで表情をさらに赤くした。

「君に奢ってあげてもいいけど、代わりに他の数学裏ワザってのはどう?」

 もっと君と話してみたいから。

 受験を共に戦う仲間も欲しかった。このフードコートを愛する彼女なら、共感する部分も多いだろう。

「ほ、ホント!?」

 ぱっと輝く彼女の瞳を見て、僕はこの選択肢で良かったと実感した。


 それから夕方まで、僕は彼女に数学を教えてあげ、裏ワザをまとめた冊子を作ってあげることで話が盛り上がる。

「じゃあね! 裏ワザ冊子、よろしくね」

「ああ、期待しててよ」

 嬉しそうに曲尺を抱いて去っていく彼女の後姿を、僕はいつまでも見送っていた。

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