第七話 裏ワザのサイン

「サインとコサインの値って、簡単に求めることができるんだ」

 そう言いながら、僕は筆入れから小さめの定規を取り出した。

「こんな風に、ノートの角に、を描くだけでいいんだよ」

 僕はノートの右下の隅に定規をあてて、角に小さな三角形ができるようにシャーペンで長さ一センチの線を引いた。


 ノートの右下隅に、寝そべったような小さな、本当に小さな直角三角形が出来上がる。


 女の子は隣の席から身を乗り出して、僕の手元を凝視する。

 彼女の肩くらいまでストレートヘアがはらりと落ちて、Tシャツから出た僕の右腕にかかってくすぐったい。


「僕が描いた線とノートの下端との角度はだいたい三十度だろ? そうすると、この小さな三角形の縦の長さがサイン三十度の値になるんだよ。ほら、これを使って測ってごらん」

 僕は女の子に定規を渡し、ノートを彼女の方に差し出す。

 彼女はノートの端に定規を当て、目を凝らしながら縦の長さを測り始めた。綺麗な黒髪からいい香りがする。

「五ミリ……かな」

 そう答えながら、彼女がいきなりこちらを振り向く。不意に目が合って、ドキッとしてしまった。

「えっ、あっ……そう、ご、五ミリで正解。ってことは、何センチ?」

「〇・五センチ?」

「正解。だから、サイン三十度は〇・五でいいんだよ」

「へぇ~」

 溜め息を漏らしながら、女の子はノートの隅の三角形を見る。

 こんな簡単なことで三角比が求まるなんて、という驚きが瞳の輝きから見て取れた。


「じゃあ、コサイン三十度は?」

「今度は横の長さを測ってごらん?」

「横ってこの部分?」

 女の子はノートに顔を近づけて、必死に長さを測り始めた。

「えっと、八ミリ……くらいかな?」

「そう。だから、コサイン三十度は〇・八くらいなんだ」

「へぇ~。じゃあ、どんな角度でも、すぐにサインとコサインの値が出るの?」

「そうだよ。サイン二十度でもコサイン八十度でも、あっという間だよ」

 僕の言葉に女の子はさらに瞳を輝かせる。


「すごいすごい。これで試験は完璧……って、こんな適当な値で大丈夫なわけ?」

 女の子は的確に指摘した。この必殺技の欠点を。

 確かにこの方法では、おおよその値しか求めることはできない。しかも、かなりアバウト。

「きっと大丈夫だよ。だって君が受けるのはセンター試験だろ?」

「ええ、そうだけど……」

「だったら解答用紙は?」

「マークシート!!」

 それならば、必ずしもピッタリな値を求める必要はない。正確な選択肢を選ぶことができればいいのだから。


「それに試験会場には定規は持ち込めないから、三角形をちゃんとは書けないし、長さも測れない。でもイメージさえ掴めていれば、正しい答えを選ぶことはできると思うんだ」

「でもね、でも……」

 一瞬輝いた女の子の瞳がにわかに曇る。

 まだ何か不満があるのだろうか?

「小っちゃい、小っちゃいよ、こんなミニミニ三角形! ちょっと待ってて、今いい物持って来るからっ!!」

 そう言って、女の子はフードコートの端っこに向かって走り出した。


 Tシャツとキュロットスカート。

 黒いストレートヘアを揺らしながら駆けていく女の子の後ろ姿を、何か大切なものが離れて行くような感覚で僕は眺めていた。

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