第二話-6
まさに猫に飛びかかられたネズミだ。
バットが振り下ろされても、熊田は突っ立ったままだった。
右腕に鋭い一撃を受け、身体が大きく傾いだ。
恐怖で身がすくんでしまい、動けないのだ。
佐山は思った。
が──そうではなかった。
「死ねぇっ!」
熊田は再び振り下ろされたバットを、今度はヒョイと避けた。勢いあまった男が椅子ごとテーブルに突っ伏すや、すぐさまその尻を蹴飛ばした。男はテーブルと一緒に床に転がった。
店内が静かになったのは、一瞬だった。男は立ち上がり、わけのわからない言葉を叫びながら両手で握ったバットをめったやたらと振り回しはじめた。
やばいぞ!
逃げろ!
佐山は叫んだつもりだったが、声にならなかった。いつの間にか店の隅に縮こまり、少しでも遠くに逃げたいと壁に背を押しつけるようにしていた。
その時だった。
男の懐に飛び込んだ者がいた。
ふわりと、豆絞りの手拭いが宙を舞う。
あらわになった肩に、桜の花。
──さっきの?
厨房で酒を食らっていたおっさんだった。おっさんはたるんで見えたあの身体をぎゅっと固めて、一発の肉弾に変えていた。
二人がぶつかった瞬間、当て身でもくらわしたのだろう。バット男はガクンと頭を落とした。見る間に膝から力が抜け、倒れかかってきた相手を、ランニングの胸が受け止めた。
「すみませんねぇ。余計な手間をかけさせちまって」
熊田がおっさんに頭を下げた。
「いやあ、いいんだよ。こっちも仕事場を荒らされたくねぇからな」
おっさんは、息ひとつ乱していなかった。
「そちらはかたぎの御方なんでね」
熊田はおっさんの胸でのびている男に顎をしゃくった。
「おとなしくお帰りいただけるように、あんたの方から話してもらえますかね? 次に俺の顔を見たら、バットより危ねぇもん、振り回しそうですから。もちろん、その分、金は払いますよ」
「割り増しはいらんよ。いいレシピを教えてもらったからな」
おっさんが男を抱えて奥へ消えると、熊田はおもむろに佐山の方を向いた。
「兄貴も。悪いね、とんでもないところを見せちまって」
佐山はまだ壁にへばりついている。
「お前、その手……?」
佐山はドキリとした。白衣の袖口から覗く熊田の右手の向きがおかしい。さっき受けた一撃のせいで、折れたかヒビが入ったかしたに違いない。
「こんなのはどうってことはありません。もうずいぶん前からろくに動かせない、役に立たない代物ですから」
「動かない?」
「世間様から怨みを買う商売をしていれば、腕の一本や二本、失くすこともあるのは、兄貴も知っているでしょう?」
熊田は厨房に向かって誰かを呼んだ。巣穴からおっかなびっくり顔を覗かせる小動物のように出てきたのは、最初にビールを運んできたじいさんだった。よく見ると、まだ震えている。だが、ぎくしゃくと近づいてくるじいさんの怯えた目に映っているのは、佐山ではなかった。
「約束の金だ。店を貸してもらった礼だよ」
熊田がズボンの尻ポケットから抜き取りじいさんに渡したのは、剥き出しの札束だった。
「この服の代金も上乗せしておこう。返すつもりだったが、さっきの騒ぎでとんだ
佐山は熊田の声を、どこか別人のもののように聞いていた。さっきまでは感じなかった、暗く荒んだ響きがあった。
──ネズミ?
佐山はかたぎという言葉を久しぶりに耳にした。やくざでは食っていけなくなって、組が解散した時以来だ。
──どういうことだ? お前……?
自分と一緒にまっとうな世界に戻ったはずの弟分を、穴があくほど見つめた。
──お前、まさか戻らなかったのか? まだあっちの世界にいるのか?
熊田を可愛がっていた元幹部の誰かが、開店資金を出してくれたのだろう。さっきまではそう思っていた。だが、その誰かに囲いこまれて、二人そろって裏の世界に舞い戻ってしまったのかもしれない。
今の熊田は、人の後ろを尻尾を振ってついて回るチンピラではなかった。じいさんみたいなかたぎの人間が、声をかけられるだけで震えが止まらなくなる存在だ。さっきのバット男が本当に一般人だとすれば、普通に生きてきた人間にあそこまでの暴力をふるわせるほど憎まれ、嫌われる存在。
「兄貴、よっぽど驚かせちまったみたいだね」
熊田は佐山が立ち上がれないと見てとるや、無事な方の手を伸ばしてきた。
熊田の印象が、さっきまでとははっきり違って佐山の目には映っていた。愛想笑いの似合う、頼りのない顔のなか、小さな目の奥に狡猾そうな光が見え隠れしている。
佐山の背筋にぞくりと冷たいものが走った。こういう表情をする男たちは知っている。何年経っても忘れられない顔だ。笑いながら酷いことのできる人間の顔だ。熊田を立ち上がれないまで殴り、蹴飛ばし続けた石倉もこんな顔をしていた。
──もう……ネズミじゃねぇ……。
誰かに襲われた時、動じる様子もなく無防備に攻撃を受け止めるなど、できるものではない。殴り返す方がまだしも恐怖が薄れる。
我に返った佐山は、一瞬、熊田の顔色を窺う表情を浮かべた。
「わ……悪いな」
慌てて熊田の手を握ると、強い力で引き起こされた。よろけながら立ち上がった佐山は、ズボンの尻を払おうとして自分の指が微かに震えていることに気がついた。
佐山はハッとした。自分はバット男の標的ではなかったにも関わらず、逃げ出した。腰が抜けたように動けなくなった。今も震えは止まっていない。
平気で他人に拳をふるっていた俺は、どこへいってしまったのか? 相手の恐怖で引き攣る顔を見るのが楽しくてしかたがなかったのに、いったいいつの間に自分は変わったのか?
佐山はネズミがネズミではなくなったことより、自分自身の変化に一番驚いていた。
「兄貴。明日からまた、頑張ってくださいよ」
熊田は佐山に小さく頭を下げた。店を出て行こうとして、佐山を振り返る。
「つき合ってくれて、ありがとうございました。おかげでずいぶんさっぱりしました」
心なしか熊田は、道端で再会した時よりも晴々とした表情をしていた。
「どうせこの先、ろくな死に方はしないでしょうが、家族と最後のメシを食えたんです。未練はありませんや」
熊田の姿が引き戸の向こうに消えた。
「熊田!」
佐山は熊田を追いかけ、外に飛び出した。弾みで扉に下がっていた本日貸切りの札が落ちた。
「熊──っ」
思わず呼び止めようとした声を呑み込む。遠ざかっていく痩せた背中が、佐山のいる世界と熊田の残った世界を隔てる大きな壁に見えた。佐山の知らないところで背負った重たいものが、分厚く積もった背中だ。
熊田が料理人の印である帽子を取るのが見えた。白衣も脱ぐと、ふたつを丸めて道端にあった青いゴミバケツのなかに放り込んだ。ためらいも未練もまるで感じられない。
「熊田……」
佐山の身体から力が抜けた。
おそらく二度と会うことはないだろうその姿が角を曲がって消えるまで見送っていた佐山は、ふと首を傾げた。
──じゃあ……? あのチャーハンは?
右手の使えない熊田に、あれほど美味しく作れるものだろうか? 昔とまったく変わらない味だった。
「あいつじゃないなら、誰が作ったんだ?」
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