第二話-5

 熊田のねぎチャーハンを食べるのが苦痛になったのは、あれからだ。舌にのせた瞬間は美味しいのに、脳味噌は意地悪く佐山に尋ねるのだ。不味いだろう? お前にはこの世で一番不味いはずだぞと嘲笑する。

 熊田と別れるまで完食し続けたのは、心のどこかでそうすることが罪の償いになるとでも思っていたからだろう。

 佐山の視線はテーブルに落ちたままだ。熊田がどんな表情をしているのかわからない。彼の皿は、いつの間にかすっかり空になっていた。


「懐かしがってくれてるお前には悪いが、俺はもともとそういう男なんだよ。自分より可愛がられてるお前が羨ましくて、陰でコソコソ嫌がらせをするような……。今もそうだよ」


 喧嘩が強いだけでは守りきれない自分のプライドを守るため、嘘をつく。ごまかす。騙す。そんなセコくて肝の小さい自分を変えたい気持ちも、佐山がアウトローの世界に飛び込むきっかけになったのだ。しかし、結局……。

 佐山のついたため息が教えてくれる。二十年あまりもの間、忘れたいのに忘れられず、忘れたつもりになっていたのは、熊田とチャーハンの一件ではなかった。何をしても、やくざになってまで結局は変わることのできなかった情けない自分だった。


「今も、ですか?」

「自分より恵まれてる奴らを妬んで恨んで生きてるだけだ。変わってない。今もクズのままってことだ。だから……」


 佐山の唇に上ってきたのは、諦めの笑いだった。


「お前は料理の腕をものにして店を持ったが、俺には何もない。あるのは借金ぐらいなもんだ」


 もう認めるしかなかった。佐山は熊田の成功を目の当たりにして、叩きのめされた気分なのだ。

 年代物のエアコンの送り出す風の音が、やけに耳についた。

 汗はすっかり引き、チャーハンも冷えてしまった。


「俺は何も気にしちゃいませんよ」


 ややあって返ってきた声は、穏やかだった。言葉通り、怒りは感じられない。驚いているふうですらない。


「ねぇ、兄貴。俺にとって家族の思い出と言えば、ひとつだけです。親父の作ってくれたチャーハンなんです。俺んとこは母親が俺を産んですぐに亡くなったんで、二人きりの家族でした。ほんと、何を話すんでもないんですけどね。親父とでテーブル囲んでチャーハンを食うのが、楽しかった」


 時々、父親は熊田に聞いた。「美味いか?」と。熊田にはそれが、日頃は無口な父に「大丈夫か?」と心配されている気持ちになったという。


「俺は大丈夫の意味を込めて、美味いと答えてましたよ」


 佐山はそろりと目を上げた。熊田が何を言いたいのか訝る視線の先で、当の本人はチャーハンを食べている時のようにどこか楽しげだ。


「家族の思い出なんてもんは、無ければ無いで済むんです。でもねぇ。一回手にしちまうと、失くしたくなくなる。失くしちまったら、何とか取り戻したいと執着するんです。自分でも怖いぐらいにね」

「だからなんだ?」

「あの頃、兄貴は俺にとって新しい家族みたいなもんでした」

「俺が……? 家族?」

「勝手にね。そう思ってたんですよ。一緒にメシ食いながら、今だけは弟分から本物の弟に出世した気分を味わってました」

「そうか……」


 佐山は少なからず驚いていた。上の者たち以上に熊田を手足のごとくコキ使いながらも、毎日たわいもないおしゃべりもしたし、よく一緒に遊んだりもした。だが、おしゃべりと言っても嘘で水増しした自分の武勇伝を一方的に聞かせることが大半だったし、酒が入ればその時の気分で彼を殴ることもあった。

 兄貴風を吹かせるなんてカッコいいものではなかった。組の者たちがペットのように可愛がっていた熊田を、自分は心のなかでは妬み疎んで、半分苛めていたのだ。それなのに、兄のように慕われていたとは……。


「悪い。ちょっとトイレ行ってくるわ」


 佐山は席を立っていた。熊田の打ち明け話に感動するどころか、自分が情けなくなる一方だった。

 レジ脇の細い廊下を、突き当たりの扉の前までやってきた。お手洗いと手書きされた黄ばんだ紙が貼り付けてある。どんどん崖っぷちに追いつめられていく気分でどうにもじっとしていられず、つい席を立ってしまったが、


 ──このまま逃げちまおうか?


 佐山は回れ右をする。そろりと廊下を半分まで戻ってきたところで、ふと人の気配を感じて視線を向けた。そこには扉のない入り口があって、厨房が覗けた。


 ──?


 シンクと調理台の間に丸椅子を置き、ランニングシャツに半ズボン、サンダル履きという出で立ちの男がどっかり腰を下ろしていた。天井の電灯を弾いてテカッっているのは、見事なスキンヘッド。五十は超えているだろう。信楽焼のたぬきを思わせる、布袋のような愛嬌のある体型の太っちょだ。


 ──従業員か?


 とてもそうは見えないが。

 肩から豆絞りの手拭いをかけた男は、あろうことか勤務中だというのにビールをラッパ飲みしていた。


 ──さっきのじいさんといい、たいして使い物になるとは思えねぇな。よほど儲かってないんだろ。


 この頃はしょっちゅう人手不足のニュースを耳にする。安い時給しか出せないところは、来てくれる相手を選べないに違いない。だが、いくら儲かっていなくても、レジに金は入っているはずだ。

 佐山は視線をレジ台のあるあたりに戻した。


「ずいぶん古いの使ってたな」


 佐山の脳裏を、ふと、とんでもない考えが過った。


 ──あれだけチャチけりゃ、機械ごと持ってけるんじゃないか?


 レジを奪えなくてもいいのだ。金を盗るふりをするだけで警察が飛んでくる。捕まれば、刑務所に入れる。

 廊下を戻る佐山は、いつの間にかそろりとした忍び足になっていた。


 ──どうせ俺みたいのは、何したって変わらない。これからも今までとおんなじだ。だったら捕まったっていい。借金から逃げられるだけでも、もうけもんだ。


 佐山の喉仏がごくんと上下した。


 ──どうする?


 佐山の目には、今やレジしか映っていなかった。

 ドクンドクン。

 鼓動が耳を打つ。

 佐山の身体がふらりと揺れた。

 知らずにまた一歩、足が出ていた。


 ──俺が何をしようと、気にするやつはいないんだ。


 厭な汗で湿った手をレジの方へと伸ばしかけた、その時だった。誰かが佐山の腕をつかんで引いた。


「兄貴」


 熊田はまるで佐山の心のなかを見透かしたように、レジに背を向けさせた。そうして佐山の左右の手を取ると、それぞれ大きく広げさせた。不意をつかれてぎょっとした佐山は、されるがままだ。


「兄貴は変わった。ほら、こんなに良い手になった」

「あ?」


 熊田は佐山の両手を、手のひらを上に向けたり、ひっくり返してまた甲を上に向けたりしている。


「一生懸命働いてきた手だ」

「え?」

「借金だって立派に返していける手ですよ」


 佐山は熊田につられて自分の手を見た。

 手のひらがやたらと白く見えるのは、長年陽差しに晒されてきたせいだ。よく焼けている表側は、茶褐色の分厚い皮膚をもう一枚、被っているような感覚があった。


 ──働いてきた手……?


 考えてみれば、佐山は自分の手をこんなふうにまじまじと眺めたことなど、一度としてなかった。


 ──指、けっこう太いな。


 やくざ時代より頑丈になった気がした。あたかもそこに力を溜めてでもいるように、節の部分がゴツゴツと盛り上がっている。拳を作ると、人を殴っていた頃より強そうに見えた。


「俺とは違う、まっとうに生きてきた男の手だ。これからも変わらずに生きていける手だ」


 佐山は顔を上げた。


「佐山さん。俺はあんたが羨ましい」


 熊田は相変わらず口元に笑みを湛えていたが、垂れた眉毛のあたりに泣き笑いの色が滲んでいる。


「お前と違うって? どういう意味だ?」


 佐山が首を傾げたのと、店に客が入ってきたのが同時だった。

 二人はそろってそちらを向いた。

 四十がらみのその男が普通でないのは、すぐにわかった。浮きだした青筋が震えて見えるような恐ろしい顔つきをしていた。


「熊田ああああっ!」


 男が飛びかかってきた。熊田に向かって大きく振り上げた手には、金属バットが握られていた。

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