第二話-4

 あの頃、佐山には熊田を妬む気持ちがあった。熊田は確かに組の者たちにいいようにこき使われていた。だが、その分、可愛がられてもいたからだ。

 熊田は誰に何を命じられても本心から嬉しそうに、楽しそうにしていた。上の人間の機嫌を損ねないよう必死になって服従しているふうには、見えなかった。彼らの目に熊田は、適当にあしらっても尻尾を振ってなついてくるペットの犬か何かに映っていたのかもしれない。

 道を大きく踏み外した者には、家庭や家族と縁の薄い人間が多い。親兄弟はすでに亡く、天涯孤独な熊田の身の上に同情する幹部もいた。

 今ならあれは組織の一員として生き抜くための、熊田なりの処世術だったのだろうと思える。しかし、当時の佐山にとって熊田は、媚びを売って周囲の歓心を買おうとするゴマすり野郎だった。喧嘩の強い俺の方がやくざに向いているという絶対的なプライドもあって、なぜ彼が自分以上に可愛がられているのか、面白くなかったのだ。

 熊田にネズミとあだ名をつけた石倉もまた、歯抜けの情けない顔を馬鹿にしつつも可愛がっていた組員の一人だった。小突いていじめて遊んでいたかと思えば、食事をおごってやったり飲みに連れ歩いたりもしていたのだ。

 それだけに、余計に熊田の裏切りが許せなかったのだろう。


 ──あの後、もっと酷いことになった。それで……。


 佐山のスプーンは、二杯目のチャーハンをすくったきり動かなくなった。




 あの後──。

 殴るだけでは足りなくなった石倉は、熊田を蹴りはじめた。それこそ腹と言わず背中と言わずめちゃくちゃに。


 ──いくら何でもやばいんじゃねぇか。


 石倉の右足が尖ったナイフに、転がった熊田の身体が死体に見えてきた時だった。石倉が、合いの手でも入れるようにテーブルを力まかせに蹴り上げた。皿と一緒に二人分のチャーハンが宙を舞い、飯粒がバラバラと佐山の上にも降り注いだ。


 ──えっ?


 思いもかけないことが起こった。

 すでに息もしていないように見えていた熊田が、いきなり飛び起きたのだ。


「チャーハンが……チャーハンが……っ」


 熊田は床に這いつくばり、散らばった飯粒を拾いはじめた。片方の手のひらの上に、大事そうに集めている。


「おい?」


 佐山は続く声を呑み込んだ。

 熊田の口からポロリと何かが落ちるのが見えた。

 欠けた歯だった。

 熊田はそれを摘んだ。瞼が腫れ上がり糸のように細くなった目を近づけ、飯粒でないとわかると、ゴミでも捨てる手つきで放り出した。


「お前……」


 尻餅をついていた佐山は、我知らず後退り、熊田から離れていた。何かに憑かれでもしたかのようにチャーハンに執着しているその姿は、異様だった。

 たぶん、石倉も同じことを感じたのだろう。我に返った様子で暴力をふるうのをやめた。




 ──床を這い回るこいつを見て、俺は初めてとんでもないことをしてしまったって気持ちになったんだ。あいつを血だらけになるまで痛めつけたのは、自分だって気になった。


「覚えてるんだろ?」と、佐山はスプーンを置いた。


「あの頃、石倉さんの女は、お前のこと、ミッキーって呼んでたな。ネズミって呼ぶ代わりに」

「そうでしたかねぇ」

「お前を可愛がってたんだ。でも、それだけだった。男として見てたわけじゃない。長い間会ってない同じ年頃の弟がいるって言ってたから、お前を代わりみたいに思ってたのかもしれない」

「ええ……」

「それなのに、お前たちが男と女の関係だと石倉さんに嘘をチクッた野郎がいた。だからお前は一カ月以上も寝床からろくに起き上がれねぇほどボコられたんだ」


 佐山はビールをひと思いに呷った。

 気の抜けた温い液体が、舌の上に残ったチャーハンの美味い味を洗い流してしまう。

 二人以外誰もいない店のなか、ジョッキをテーブルに叩きつけるように置く音が響き渡った。


「そのクソ野郎は誰だと思う?」


 佐山はひと呼吸置いて、はっきりと言った。


「俺だよ」

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