第二話-2

 熊田がチャーハンを作りに厨房へ引っ込んでいる間、ビールを運んできた店員が傑作だった。なぜなら、傍目にもわかるほど震えていたからだ。トレイに乗せたビール瓶を危うくひっくり返しそうになっていた。


 ──そんなにこの傷が怖いかね。


 白髪頭に猫背のじいさんが逃げるように奥に消えると、佐山は何度味わっても慣れない不快な気持ちを向こうへ押しやり、店内を見回した。


 ──儲かってそうにないな。


 昼時だというのに、客は佐山一人だ。

 カウンター席はなく、厨房は奥に独立している。四人掛けのテーブルが六卓。壁にずらりと貼りだされた短冊型のメニューは手書きで、天井同様、油煙の薄茶色に染まっていた。入り口に下がっていた暖簾も、大分年季が入っている様子だった。

 日本中どこの街でも見かける中華料理店だ。だが、寂れているとはいえ、一軒の店に違いはなかった。熊田は紛れもない一国一城の主なのだ。


 ──勝ち組じゃねぇか!


 佐山は小さく舌打ちしていた。

 ふと、開店資金はどうやって作ったのだろうと思った。組が無くなって間もなく開いた店だと聞いたが、居抜きで買ったとしても、それ相応の金が必要だったはずだ。たかだか数年で貯められるものだろうか。


 ──お?


 佐山の小鼻が蠢き、頭が考えるのをやめた。

 ほのかに漂ってくる香ばしい匂いを追いかけ、厨房へと通じる入り口の方へと顔を向ける。

 自然と目を閉じていた。

 耳を澄ませば、微かに聞こえてくる。


 ジャッ ジャッ


 あれは……? 熱した油にみじんに刻んだ大量のねぎとショウガを放り込み、一気に香り立たせる音だ。麺類の薬味に入れて食べる時のツンと鼻に抜ける感じとは違う、熱せられまろやかな甘さを帯びた匂いがたちまち鼻の奥へ、ついには舌の上にまで広がりはじめる。

 佐山が初めて熊田のねぎチャーハンを食べたのは、パチンコの負けが込んで財布の中に百円玉が三枚しかなくなった時だった。


「腹が減ったな。お前、何か作れよ。食えれば何でもいいからさ」


 要は兄貴分の立場を利用してたかったのだ。


「俺がまともに作れるの、これだけですけど。死んだ親父がイッコだけ残してくれた、遺産みたいなもんですかね」


 熊田がそう言って出してくれたのが、ねぎチャーハンだった。


「具はねぎと卵だけ。あとは鰹節が少し。がっかりチャーハンですよ。でもね、そのかわりねぎはたっぷり入れるんです。俺と兄貴でまるまる一本は使いますかね。もっと多くてもいいぐらいだ」


 おそろしく腹ぺこだったから美味いんだな。

 最初、佐山は思った。ところが味をしめて二度目にたかった時も、三度目も変わらずに美味しかったので、それからは金があっても何かと理由をこじつけては作らせた。風呂無し四畳半の熊田のアパートの部屋で、ままごとみたいな小さなテーブルを二人で囲んで食べた。


 ──おおっ?


 匂いが明らかに変化した。


 ──んん? 豚肉を投入か? ってことは、炒め油も特別ってことだな。本日はスペシャルバージョンか。


 昔、熊田が嬉しそうに教えてくれた。


「実は、親父が競馬で勝った時だけ作ってくれるスペシャルバージョンってのがありまして。豚肉を荒く刻んだのが入るんです。あ、もちろん、肉が食えるのもスペシャルなんですけど、親父に言わせると大事なのは油なんだそうです。そそ、チャーハンを炒める油のことです。豚バラ肉を塊で買ってくるでしょう? でもって、まず最初に白い部分をこそげ落として刻む。これを溶かして使うと、味がワンランクアップするんですよね。肉の焼ける風味のついた油は、こんがり美味い。その油が飯粒に染みて、やっぱり美味い。マジで美味い」


 ジャーッ!


 佐山はせっかくの冷えたビールを飲むのも忘れていた。

 閉じた瞼の裏のスクリーンに、手際よく炒める熊田の手元が大写しになる。

 豚肉が炒め上がれば、再び大量のねぎと鰹節をひとつかみ入れ、いよいよ白飯の登場だ。熊田は冷やごはんじゃないと駄目だと主張していた。


 ジャーッ! ジャッジャッ!


 飯を薄く広げる。すぐにかき回したくなるところをグッと堪えて、ヘラで鍋肌に押しつける。焼きつける要領で、ひっくり返してはまた広げてぎゅっとする。これを手早く繰り返すのだ。


 ジャーッ! ジジジジ ジャッジャッ!


 普段は誰かをぶん殴るどころか小突くこともできない熊田の手が、でかい中華鍋と中華ベラを自在に操るこの時ばかりは、やけに力強くみえたものだ。


 カッ パキッ ポト


 頭のなかで、卵を割り入れる音がした。炒めた飯を片側に寄せ、空いたスペースで軽くくずしながら火を通し、素早く飯に混ぜ込んでいく。


「最後に塩、こしょう。あとは旨味調味料ですかね。これはね、案外どの店でも使ってるって話ですよ。──え? 醤油ですか? んー。お好みかなあ。親父は入れてませんでしたが」


 チャーハン作りは強火で手早く──の、短期決戦。いついかなる時も、熊田はこの戦いにだけは勝利した。

 一匙口に入れると舌の上でほどよくバラける米の一粒一粒が、勝鬨を上げる兵士たちのように飛び跳ねる。


 ──逃がしてたまるか! どいつもこいつもしっかり噛んで味わってやるぞ! 


 我知らずごくんと唾を呑み込んだところで、佐山は目を開けた。今度こそはっきりと、あの匂いが鼻先を掠めたからだ。否応なく自分を過去の時間へと運んでいく、完成したねぎチャーハンの香りが……。


「お待たせしました」


 佐山の前に置かれた皿に、ねぎの緑と白、卵の黄色が散りばめられた飯が盛られている。丼につめてひっくり返した、ちょっと小振りな山の形をしている。頂上には、四粒のグリンピース。

 目を上げると、向かいに熊田が座っていた。


「俺も一緒に、いいですか?」


 熊田の前にも佐山の皿にあるのとそっくりの、形のいい山があった。


「いいけど、大丈夫なのか? 店をほっぽらかして」

「俺も食うのは久しぶりです」


 スプーンを握った熊田につられて、佐山の手も動いた。


「いただきます」


 熊田は自分の山を、天辺から大胆に崩しにかかった。


 ──そういや、食べる時はいつも真面目に挨拶するやつだったな。


 まるで家族みんなで食卓を囲む子供みたいに。

 佐山がスプーンを持ち上げた時には、熊田はすでに三口目を頬張っていた。

 佐山はまじまじと熊田を眺めた。

 熊田は実に美味そうに食べる。いや、楽しそうにと言うべきか。チャーハンを噛みしめるたび、口元がニコニコ笑って見えた。


「そんなに美味いか?」


 あまりに楽しそうなので、昔もつい聞いてしまったことがあった。すると熊田は答える代わりに次の一匙を、ことさら大きな動作で口に運んだものだ。たった今もそうしてみせたように。

 ひとつ、またひとつと何かを思い出すにつれ、佐山は次第にあの頃の自分にかえっていく気持ちになっていた。熊田をたった一人の子分にして引き連れ、いきがっていた頃の自分に戻っていく。


 ──ん?


 佐山は首を傾げた。


「お前、左利きだったか?」

「食わないんですか?」

「え? ああ……」


 気がつけばスプーンを持った佐山の手は、宙で止まったままだった。

 こうしている間も食べるのをやめない熊田の、スムーズにスプーンを扱う左手に、佐山は自分の記憶違いだろうと思った。


「思い出しますねぇ」

「ああ?」

「兄貴の背中ばっか見てた頃をね。思い出しますよ」


 しみじみと呟く声は、本当に昔を懐かしんでいた。


「でも、メシの時だけは違ってた。こうやって顔を突き合わせて食ってた」

「そりゃそういうもんだろ。なにつまんねぇこと言ってんだ」

「兄貴は俺の作ったチャーハンを、いつも綺麗にたいらげてくれた」


 熊田がしみじみすればするほど自分の昔を懐かしがる気持ちが萎んでいくのが、佐山には手に取るようにわかった。

 佐山はようやくスプーンを動かした。

 口のなかに入れたチャーハンは、もう大分冷めてしまっていた。それでも舌に広がる美味さは期待を裏切らない。だが……。

 佐山はひと口目をやっと呑み込んだ。舌の上では美味しいのに、喉元を過ぎたとたん不味くなる。苦くなる。チャーハンは胃袋ではなく別のどこかに落ちていくようだ。

 チャーハンは好物だ。

 でも、このチャーハンは特別なのを忘れていた。

 いや……、たぶん忘れたつもりになっていた。

 佐山は熊田の誘いに乗ってのこのこついてきたことを後悔した。


「なあ、ネズミ」

「はい?」

「俺がお前のチャーハン、一度だけ完食できなかったことあったの、覚えてるか?」


 熊田は一瞬考え込み、「そんなこともありましたかねぇ?」とのんびりスプーンを口に運んだ。

 熊田は本当に忘れてしまったのだろうか?

 あんなに酷い目にあったのに?

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