第二話 拳とチャーハン

第二話-1

「兄貴! 佐山の兄貴じゃないですか!」


 いまだ陽差しがぎらぎらと音をたてそうに降り注いでいる黄昏時だった。小さな飲食店がデコボコと軒を並べた裏路地で振り返った佐山の目に、前歯が一本欠けた間抜けな口元が飛び込んできた。おかげで突然呼び止めた相手が誰か、閃くように思い出した。


「お前……? ネズミか?」


 ネズミというのはもちろんあだ名だが、最初にそう呼んだのは二人の兄貴分にあたる男だった。熊田という勇ましい本名に似つかわしくない貧相な容貌を馬鹿にして、つけたのだ。ハの字に垂れた薄い眉といい、落ち窪んだ小さな目といい、見るからに金にも運にも縁が無さそうだった。

 もう二十年近くも昔に解散した小さな組の下っ端だった熊田は、実際、ほかの組員たちにしょっちゅう顎で使われ、チョロチョロ使い走りばかりさせられていた。同じ二十三歳の佐山が幾分かましな荷物持ちをやらせてもらえたのは、熊田より二年早く事務所の扉を叩いたから──ではなかった。躊躇なく人を殴れる質を買われたのだった。


「懐かしいですねぇ。兄貴は今は何を?」


 小柄な身体を尚も縮こまらせ、こちらの顔色を窺いながら上目遣いにしゃべる、そのいかにも気弱そうな仕種も、お互い立派に中年と呼ばれる歳になった今も少しも変わっていなかった。


「ああ……、建設屋ってやつですか?」


 熊田は佐山の汚れたグレーの作業着を、一歩下がってやけに感心したふうに眺めた。


「冷房の効いた部屋でパソコン叩くような仕事は、俺みたいなのには向かないからな」


 佐山は、赤黒く日焼けした首の後ろに手をやる。今日はこんなところまで汗がぐっしょり浮いていた。


「今の現場は駅前だ。お前も知ってるだろ? でっかいマンション建ててる最中なんだよ」

「兄貴はねぇ。俺と違って力がありますから似合ってますよ」

「褒めてもらっても嬉しかねぇよ」


 幸運にも警察の厄介になることなくやくざを卒業した佐山は、その後、何年かは冷房の効いた部屋でするような仕事に就くことを目指した。柄にもなく設備関係の資格を取ろうと奮闘もした。しかし、やる気はいつも空回り。採用試験に応募した会社にはことごとくふられ、流れ流れて結局はこの業界にしか居場所を探せなかっただけの話だ。


「ガタイもいいでしょ。そういう男臭いファッションもきまってます」

「嬉しくねぇって言ってるだろ」


 佐山は無精髭の浮いた口元を歪めた。

 本当に嬉しくない。

 ニッカポッカに地下足袋姿というわけではないが、確かにスーツのサラリーマンにはないワイルドな匂いを漂わせてはいるだろう。しかし、佐山の場合、目つきの悪さや組時代、喧嘩で作った頰の大きな傷と相まって、周囲にはわけありの怖い男の印象を持たれることが多かった。

 断ち切ったはずの過去を否応なく引きずり続けている気持ちになる。

 そのせいか人間関係に苦労し、つい半年前にも職場を変えたばかりだった。幸い二年後に迫ったオリンピックのおかげで業界の景気は良く、新しい現場はすぐに見つかったが。


「これからメシですか?」

「最近はいっつもこのあたりで食ってるな」


 まだ周囲は明るいが、狭い道の両側を埋める店にはちらほら明かりが灯りはじめていた。


「昔は主食が酒で、メシはつまみだなんて言ってましたよね。相変わらずいける口なんでしょう?」

「まあな」

 ──飲まないでやってられるか!


 佐山の荒んだ気持ちの真ん中で、いつも考えていた。

 どうして俺だけが? と。

 せっかく足を洗ったのに、やることなすことうまくいかなかった。結婚を考えていた女には過去を打ち明けたとたん逃げられ、友達と呼べる相手もいない。親にはとっくの昔に縁を切られている。組を出てから得たものと言えば、ギャンブルで作った三百万円あまりの借金だけだ。


 どうして俺だけが!


 欲しいものが手から零れ落ちていくたび、呪文のように呟いてきた。

 自分はいったい何をしてきたのか。これから先も何もないまま年老いていくのかと思うと、生きていくのが馬鹿らしくなってくる。働くのも面倒になってくる。そんな無気力感も、脳味噌がアルコールに浸っている間だけは忘れていられた。


「よかったら俺の店でどうです?」

「お前の?」


 今度は佐山が熊田をまじまじと眺める番だった。


「どうせ雇われだろ?」

「俺の店ですよ」


 熊田も汚れた服を着ていた。油や調味料らしき飛沫の散った白衣だ。再会してすぐ飲食店で働いているとわかったが、


「まさかお前が店を持つとは思わなかったな」

「どうもすみません。料理人になるのは、実はガキの頃からの夢だったんです」


 熊田はかしこまって下げた頭に、ポケットから引っ張りだした帽子を被った。洋食のコック帽の丈をうんと短くしたような、あれだ。


「てっきりチャーハンしか作れねぇと思ってた」

「それが唯一の売りでしてね、ねぎチャーハン。ご馳走しますよ」


 こっちですと背を向けた熊田を、佐山の迷う視線が追いかける。やがて見えない糸にでも引っ張られる足どりで歩きはじめた。


 ねぎチャーハン


 十数年ぶりに熊田の顔を見ても気持ちはたいして動かなかったのに、その単語が耳に飛び込んできたとたん、胸が苦しくなるような懐かしさが込み上げていた。

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