わけありご飯、お届けします。

美鶏あお

第一話 誕生日のたまごかけご飯

第一話-1(1話完結)

 宅配便だというので扉を開けたが、そこにはどう見ても業者とは思えないスキンヘッドのおっさんがスーパーの袋を手に立っていた。

「川島良太だな」

 日曜日の平和は破られ、俺は焦ってコクコクコクと三度も続けて頷いていた。だってそうだろう? その肩から覗いている桜の花は、刺青だろう? 二月の寒空にランニング一枚、下はくたびれた半ズボン&サンダル履きのおっさんは小太りで、一見、近所の居酒屋の前に飾ってあるタヌキの置物にそっくりだというのに、

 ──ヤクザだなんて反則だ!

 玄関に潰れたサンダルを脱いだおっさんは、俺を押し退け、

「もうすぐ昼メシ時だな」

 そう言うなり、真っ直ぐ冷蔵庫に向かった。乱暴に扉を開いてなかを覗き込む。

 と……、尻ポケットで何かがピョコンと揺れた。手拭いでグルグル巻きにされているあの長いものは? まさか……?

「なんだ? 卵がねぇじゃねーか?」

「す、すみません。卵も自炊も苦手なもんで」

 俺はソッコー、兄貴に尻尾を振るしか能がないチンピラに成り果てていた。おっさんは野菜室のなかまでひと通りチェックした後、俺を振り返った。

「メモしろ」

「は?」

「今から言うもん、買ってこい」

「いや……でも……、あんた誰ですか? なんで俺が……」

「なんで?」

 我に返ってようやく勇気を奮い起こした俺は、はっと息を呑んだ。おっさんが尻ポケットからあの長いものを抜き取ったからだ。巻き付けてあった手拭いが落ち、中身が剥き出しになった。

 ──やっぱり!

 戦慄する俺を無視して、おっさんは狭い部屋のなかをぐるりと見渡した。カラーボックスの上に犬のぬいぐるみを見つけるや、俺に向かってニヤリと凄味のある笑みを浮かべた。

「このブサイクがどうなってもいいのか?」

 おっさんは手垢で汚れたそれを胸に抱えて、手にしたドスを──いや万能包丁を、くたびれた毛糸の首輪の巻かれた喉元に突き付けた。

「バラバラにして縫い直して、イケメン犬に変えちまうぞ!」

「行きます! 行ってきますっ!」

 俺は慌ててメモ用紙代わりのチラシを引ったくっていた。ブサイクでも何でも自分の分身を人質にとられては、言うことをきくしかなかったからだ。




 俺は売り場を回って、長ねぎを一本。次に白だしを一瓶、手早く買い物カゴに放り込んだ後、最後に卵のコーナーにやってきた。客寄せ用の安売りパックの山は、休日ともあってすでに半分ほど無くなっていた。

 ──母ちゃん。

 唐突に胸の奥から、どうしようもなく懐かしいものが込み上げてきた。

 だし巻き卵に炒り卵、煮卵に温泉卵、オムレツ、カニ玉、茶碗蒸し。特別洒落たものじゃない、どこの家庭でも出てくるメニューだけれど、去年病気で亡くなった母ちゃんはよく卵料理を作ってくれた。

「卵は栄養満点。食材の優等生だよ」

「食べ過ぎもよくないんじゃないの?」

「少しぐらい身体に悪くたって、私は美味しいものを食べたいなあ」

「そういうこと言ってるから、メタボ予備軍なんだろ。ちょっとはダイエットしたら」

 大学進学で上京、帰郷せずに就職した俺は、めったにかけない実家への電話で心配したこともあったが、まさか母ちゃんが五十二歳の若さで逝ってしまうとは夢にも思っていなかった。

 舌の上に一番好きだったメニューの、あのふわりとした口当たりが蘇ってきた。エプロンを着けてキッチンに立つ母ちゃんの後ろ姿も一緒に……。

 俺は袋を下げた手に、本当に久しぶりの卵の重みを感じながらスーパーを出た。アパートの近くまで帰ってきたものの、途中で寄り道をしてしまったのは、少し気持ちを落ち着けないと両目が生暖かいもので濡れてしまいそうだったからだ。

 ──そうなんだよなあ。食べると泣いてしまいそうだから、ずっと避けてきたんだよなあ。

 俺は児童公園のベンチに力なく腰を落とした。楽しそうに砂場遊びをする親子に、つい目が引き寄せられる。

 俺が小学校にあがってすぐ、母ちゃんは父ちゃんと別れた。後で知ったのだが、職場の若い子との浮気が本気になって、彼女のところに走ったらしい。

 卵は父ちゃんの大好物だった。だから、毎日のように卵を使った料理が食卓にのった。テーブルを囲む家族が母と息子、二人だけになっても、それは変わらなかった。ただ、俺の一番好きなあのメニューだけは、出てこなかった。父ちゃんがいなくなってから一度も。


 ひと口掻き込むと、しょうゆの香りがふわんと広がる卵かけご飯。


 母ちゃんにとっては、大切な思い出のつまったメニューなんだろう。たぶん、父ちゃんと結婚したばかりの、あまり裕福ではなかったけれど仲良く暮らしていた頃の。一人残されても父ちゃんを愛していた母ちゃんが、いつまでも胸のなかに大切にしまっておきたかったメニュー。

 母親の心には、息子の俺では埋められない隙間がある。母ちゃんとの間の卵かけご飯一杯分の距離は、俺が成長するに従ってよりはっきりしたものに変わっていった。俺たちの間に頑固に居座るようになった。

 仲が悪いのとは違う。互いに遠慮して、言いたいこともうまく言えない。その距離感が息苦しくてたまらなくて、俺は進学とともに家を出た。それからは気が向けばたまにメールを送る程度、声を聞くのもまれで、年に一度、盆暮れどちらかしか帰省しなくなった。周りの男友達のほとんどは似たようなものだったから、親不孝とも思わなかった。そのうち茶碗に卵を割り入れる時、いなくなった父ちゃんを思い出すこともほとんどなくなった。

 親はいつまでも元気でいるものだと思っていた。体調が悪いと聞いた時も、「私は大丈夫だからしっかり仕事を頑張りなさい」という電話口の言葉をあっさり信じてしまった。入院したと知らされて慌てて駆けつけた時には、遅かった。ろくに話しもできないまま、母ちゃんはたった三日で天に召されてしまった。

 ──卵は嫌いじゃない。嫌いじゃないんだ。

 でも、見るたびに切なくなる。母ちゃんとの距離を埋められないまま逝かせてしまった後悔が込み上げてくる。葬式の後、思い切って卵かけご飯を作って頬張ってはみたけれど、何だかやたらしょっぱくてぼそぼそしていて、覚えている味とはまるで違っていた。

 病室の母ちゃんの枕元には、見覚えのあるぬいぐるみが置いてあった。昔々、まだ幼稚園にあがる前の俺が弟代わりに可愛がりすぎていつの間にかブサイクになってしまった、犬のぬいぐるみ。気づいた時には片目がボタンに代わり、耳にはツギが当てられて……。俺が見向きもしなくなった後も、母ちゃんは大事に飾っていた。

 母ちゃんが亡くなった時、看護師さんが教えてくれた。

「お母さん、この子と一緒に入院したんですよ」

 様態が急変する予感でもあったのだろうか。俺の代わりにぬいぐるみを連れていったのだと思うと、苦しいぐらいに胸がつまった。霊安室に運ばれていく母ちゃんを見送ることもできず、俯いて鼻をすすっている俺の姿は、よほど哀れを誘ったらしい。

「しっかり泣いてやんな」

 見ず知らずの誰かが肩を叩いてくれた。大きな手のゴツイ感触だけがはっきりと残っているその人は、涙でぼやけた俺の視界のなか、悠々とした足どりで遠ざかって行った。窓から差し込む西日が、彼の後ろ姿をやけにキラキラと輝かせて……?

「キラキラと? あっ!」

 俺は跳び上がるようにして立ち上がっていた。思い出したのだ。あの時、オレンジ色の光を弾いてキラキラ輝いて見えたのは、その人の立派に禿げあがった頭のせいだってことを。




 アパートの扉を開いたとたん、甘く香ばしい匂いがした。焦げ目のついた餅を思い出させる美味しそうなこの匂いは、炊きたての白いご飯の匂い?

 ──それもコシヒカリだとかゆめぴりかだとか、あのへんの高くて美味い米の匂いだ。

 見れば、めったに稼働しない安物の炊飯器からゆらゆらと湯気があがっている。

「どこで油売ってやがった? ああっ?」

 俺に何を言う間も与えずスーパーの袋をひったくったおっさんの、それからの動きはなめらかだった。

 まず、まな板をトコトコと鳴らしてネギを刻み、水にさらした。

 次に、並べた茶碗二つに炊きたての白いご飯をよそう。米粒を潰さないようあくまでふんわりと。

「八分目よりちょっぴり多めがいいんだよな。もう一杯おかわりがほしい、もっともっと食いたいって気持ちが美味さを膨らませるんだ」

 おっさんは解説も怠らない。

「このくぼみが大切なんだよ。卵がからみやすくなる」

 おっさんはおっさんらしからぬ繊細な手つきで、ご飯の山のてっぺんにスプーンの腹の部分を使ってささやかなくぼみを作った。新鮮な卵は少し高い位置から割って落としても、小気味よく弾んでちゃっかり自分の居場所に収まった。

「あの……、母が亡くなった時、病院で会いましたよね?」

「おう、思い出したのか。良太の母ちゃんに頼まれて、誕生日のプレゼントを作りにきてやったぞ」

「母ちゃんに? プレゼント……? 卵かけご飯が? ……って、どうしてあなたが?」

「アレだな。ライフワークっちゅうやつだな。俺はわけありの奴らにメシの出前をすんのを趣味にしてるんでね。安心しろ。金は実費のみの明朗会計だぞ」

 母ちゃんが通っていたあの病院には、おっさんの客も入院していた。塀のなかで知り合ったその男に、故郷の味を何度もこっそり運んでやっていたそうだ。母ちゃんとは待合室で顔見知りになって、おしゃべりついでに依頼を受けたという話だった。だから、俺が二十七歳の誕生日を迎えた今日、彼は米袋を提げ、マイ包丁持参で現れた。

「でも? なんで卵かけご飯?」

「いいから! ごちゃごちゃ言ってないで食え! 食えばわかる!」

 おっさんは俺をセッティングの終わったテーブルの前に引き据えた。

 ぎゅるっ。刻みネギの青い香りに胃袋が動いた。俺は今が昼メシ時だったことを思い出した。

 黄味の冠を頂にのっけたご飯は、ほどよく冷めている。

「万能ネギは彩りはいいが、香りと味ではやはり青ネギの方が格段に美味い」

 おっさんはそう断言すると、俺と自分の茶碗に小さなネギの山を作った。

「隠し味に白だしをひと垂らし。それがお前の母ちゃん流」

「隠し味?」

 知らなかった! と驚いている俺の前で、黄金色の滴が瓶から直接投入される。そうして、最後は醤油を回しかける。

「まぜろ。ただし、優しくな」

 俺の箸はおっさんの合図でネギの山を分け、黄味を潰した。おっさんのアドバイスを守って優しく箸を回す。たちまち米の一粒一粒が橙色に近い黄色に染められた。刻んだネギの白いところとほんのり緑に色づいたところが、ほど良いバランスで混じっている。また胃袋がぎゅるっと動いた。

「母ちゃん、具合が悪くなって救急車を呼ぶ前に、俺んとこに電話してきたんだよ。このまま死んじまうかもしれないけど、よろしくお願いしますってな。そんぐらいこれを、良太に食わせてやりたかったんだな」

 俺が病院でおっさんに声をかけられた日、彼はどうにも気になって母ちゃんを見舞いにきたところだった。残念ながら間に合わなかったけれど。

「母ちゃん……」

 俺は箸ですくった卵かけご飯をじっと見つめた。俺自身も忘れている誕生日を覚えてくれていたのは、この世に母ちゃんだけだった。そのたった一人の家族はいなくなってしまった。俺はふと、母ちゃんが卵かけご飯を贈ろうとしてくれた気持ちがわかる気がした。

 ようやく父ちゃんとの別れを克服できた母ちゃんは、卵かけご飯を俺たち二人の思い出にしようという気になったんじゃないだろうか。母と息子の間に開いたままのほんの少しの距離が寂しくて、二人で分かち合うことのできる懐かしい記憶で埋めようとした。

「お前の母ちゃんが俺のこと、似てる似てるって嬉しそうに言うもんだからな。てっきり息子に似てるもんだと思ってたら、なんと卵に似てるって話でさ」

 つるんと頭を撫でてみせたおっさんは、うめぇうめぇと早くも二杯目を掻っ込みはじめた。

 俺は、母ちゃんからの贈り物をひと口、口に入れた。いっぱいに広がる、どこかミルクっぽくもある白米の豊かな味。

 醤油は染みてはいないが、卵と一緒にしっかり絡んでくるのがいい。

 鰹だしの旨味を、舌ではなく鼻に抜ける香りで味わう。

 噛みしめるとネギのピリリとした辛さが弾けて、ご飯の甘みが増した。

 するすると落ちていくのど越しは、うどんやラーメンとも違う。プリンやゼリーとも。なめらかなのに不思議としっかり存在感があった。

 昔々、父ちゃんと母ちゃんと三人でテーブルを囲んで食べたあの懐かしい味が蘇る。遠くから寄せ来る潮のようにゆっくりと、俺のなかに満ちてくる。

 ──母ちゃん、プレゼント、受け取ったよ。卵かけご飯、俺たち家族の良い思い出になったよ。

 父ちゃんは出て行き、母ちゃんは亡くなってしまったけれど、自分たちは不幸せな家族なんかじゃなかった。それを教えてくれる味だ。

「どうだ、うめぇか?」

「うぅ」

 卵かけご飯で口のなかがいっぱい、胸いっぱいの俺は、返事がうまくできなかった。かわりに大きく頷いた拍子に、舌の上でまた思い出が甘く転がった。ふわん。ほろろん。

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