第百二十七幕 ~逃避~ 其の参
体を揺り動かされてアシュトンが目覚めると、洞窟内に一条の光が差し込んでいた。
「起きたか? 準備ができたら出発するぞ」
「おはようございます……」
寝ぼけ眼で立ち上がると、緑色のマントが足下にはらりと落ちる。無言で拾ったステイシアは手早くマントを身に着けた。おそらく眠りについたあとにかけてくれたのだろうと、アシュトンは慌てて礼を言った。
「ありがとうございます」
「気にするな。単なる気まぐれだ」
アシュトンに視線を向けることなく、ステイシアは弦の張り具合を念入りに確認し始める。その様子を眺めながら改めて一夜を無事過ごせたことに、アシュトンは心の底から安堵した。
再び街道に向けて出発したアシュトンの足取りは軽やかだった。体の痛みが大分和らいだことも理由のひとつだが、それ以上に睡眠がとれたことが大きかった。これがひとりだったら獣の襲撃に怯えながら一晩中寝ずの番をしていたことだろう。
金が目的とはいえ、行動を共にすることを選択してくれたステイシアにアシュトンは感謝した。
「──そうそう、昨日は聞きそびれたが、お前の階級はなんだ?」
「もしかして軍の階級のことを言ってるのですか?」
「ほかになにがあるんだ」
油断なく前方を警戒しながら階級を尋ねてくるステイシアを不思議に思いながらも、とくに隠すつもりもなかったのでアシュトンは素直に答えた。
「少佐です」
「少佐だと……!?」
突然歩みを止めたステイシアの背中に、アシュトンは思わずぶつかりそうになる。振り返った彼女の顔はあからさまに驚きの表情に満ちていた。
(ステイシアがそういう反応になるのは当然だな。なにせ僕自身だって未だに少佐だなんておかしいと思っているくらいだから)
近況を知らせる手紙を両親宛に送っているが、その両親でさえ自分が多くの部下を率いる立場にあることを訝しんでいるくらいだ。
アシュトンは両親の顔を思い出しながら自嘲気味な笑みを漏らした。
「気に障ったか?」
「いえ、そういう反応は割と慣れていますので」
「だろうな。正直、精々少尉くらいだと私は思っていた。それがまさか佐官とは……」
「ステイシアさんは軍の階級に詳しいのですか?」
尋ねると、ステイシアはあからさまに渋顔を作ってみせた。
「母方の祖父がある国の軍人だった。階級は大尉で部下や私たちにまでに随分尊大な態度を取っていたからな」
「そうだったんですか……」
表情からしてもあまり良い思い出とは言えないのだろう。この話題を続けるのはお互いによろしくないと感じたアシュトンは、やや強引に話を変えた。
「ところで無事に生き延びたらの話しですけど、お金はいくらくらい払えばいいのですか?」
職業軍人としてそれなりの給金は貰っている。今のところ給金の主な利用用途はオリビアにせがまれて買うおやつ代くらいなので、法外な金額を要求されなければ問題なく払えるだろうとアシュトンは踏んでいる。
再び歩き始めたステイシアは、こちらを見ずに指を五本立てて言った。
「金貨五枚だ。なにせお前の命を救ってやった代金だからな」
「金貨五枚ですね。わかりました」
即答するアシュトンへ、再び歩みを止めて振り返ったステイシアは、先程以上に驚いた顔を向けてきた。
「まさか金貨五枚がどれほどの価値かわからないわけはないよな?」
「馬鹿にしないでください。これでも僕はれっきとした商人の息子ですよ? そうですね……金貨五枚なら働かなくても五~六年は余裕で暮らせる金額ですね」
「そ、そうだ。そういう金額だ」
何度も頷くステイシアに、アシュトンは無事に生き延びることができたら必ず支払うと告げた。ステイシアはなんともぎこちない返事をした後、歩みを再開した。
△▼△
日がそろそろ天頂に差し掛かろうという頃、二人は左右に広がる分かれ道の前に立っていた。どちらも木々が乱立して、且つ草が生い茂っている。目を凝らして道の先を見てみても、それほどの違いは感じられなかった。
「どちらのほうが街道に近いと思う?」
「……左のほうが近いような気がします」
再度左右の道を見比べたアシュトンがなんとなくの勘からそう口にすると、
「そうか、では右に進もう」
ステイシアはあっさりと右の道を選択し、早々に歩を進めて行った。アシュトンはもやもやとしながらもステイシアの後に続いていく。それからしばらく無言で歩き続けていると、ふいにゴロゴロと雷の音が聞こえてくる。
空を見上げると、黒々とした雲が広がっていた。
「一雨きそうですね」
「…………」
「ステイシアさん、聞いています?」
「ああ、聞こえている」
搾りかすのような声を漏らしたステイシアは、素早く矢を弓に番え始める。まさかと思いながら前方に目を凝らすと、黒い塊のような影が微かに見える。
それだけでアシュトンには十分だった。
「ノルフェス……やっぱり追って来たか」
今回も都合よく川があるわけではない。それにもかかわらず、ステイシアの声は落ち着いていた。今度も逃げ切れると思っているのか、それとも諦めたがゆえの反応なのかを考えている余裕はなかった。
はっきりしていることは死が間近に迫っているということだ。
(ノルフェスは知能が高い。同じ攻撃を仕掛けても今度は絶対にかわされる。そうなると選択肢はひとつしかない)
ステイシアが臨戦態勢をとる一方、アシュトンが周囲に視線を走らせていると、木々の間から小道が奥へと伸びていることに気づいた。
「あそこから逃げましょう」
先へ行くようステイシアを促してアシュトンが小道に飛び込んだ途端、ノルフェスの雄たけびが聞こえてくる。アシュトンはただひたすら前に走った。
時折小枝が頬を掠めて鋭い痛みを覚えるが、そんなものにかまけている暇はない。凸凹とした地面に足が取られそうになり、心臓が限界とばかりにうるさく鳴り響く中、視界が開くのと同時にアシュトンは走るのを止めた。正確に言うのなら止めざるをえなかった。
同じく足を止めたステイシアは息も絶え絶えに笑っていた。
「どうやらここまでのようだな」
アシュトンの目の前は崖が広がっている。どうやら全く同じ状況に追い込まれたことに皮肉を感じながらと崖下を覗き見ると、ゴツゴツとした岩が転がっている。
(都合よく川が流れているはずもないか。落ちれば今度こそ即死で間違いない。それでも雨が降ってくれればまだ助かるかもしれないけど……)
相変わらず雷の音が聞こえるものの、すぐに雨が降り出す気配は感じない。一転して顔を引き締めたステイシアは再び矢を番え、前方に向けて弓を引き絞った。
最初に襲われたときにも聞こえてきた声が近づいてくる。
「すみません。僕がここに逃げ込もうと言ったばかりに……」
「それを言うなら左の道を選んでいればあいつと再び出会うことはなかったかもしれない。たらればの話をしても仕方がないということだ」
「そうですね」
アシュトンが腰に身に着けているナイフを握りしめると、ステイシアが忍び笑いを漏らした。
「そんなものであの魔獣ノルフェスと渡り合うつもりか?」
「思っていませんよ。それでもないよりはましですから」
「お前は意外と馬鹿だったんだな」
「今頃わかったのですか?」
「ふっ。まぁそういう奴は嫌いではない──来たぞ」
姿を現したノルフェスがこちらを見て咆哮を上げると、鳥たちが一斉に木から飛び立った。ノルフェスはまるで見せつけるように鉤爪を開いて、ゆっくりと近づいてくる。ステイシアが向ける弓を警戒しているのはわかるが……。
「なにか様子がおかしいな」
「ええ」
様子を窺っていると、ノルフェスの歩みはさらに遅くなり、ついには止まってしまった。そして、しきりに鼻を鳴らし始めると、背後へと向き直り、低いうなり声を上げ始める。それとほぼ同時に、懐かしい声が聞こえてきた。
「間一髪ってところだね。やっぱりアシュトンは運がいいよ」
「オリビアッ!」
思わず名を叫ぶとオリビアは呑気に手を振ってくる。安堵したアシュトンはその場にドッカと座り込んでしまった。そんなアシュトンとオリビアを交互に目を走らせながら、ステイシアが声を潜めて言う。
「ノルフェスの前に姿を晒すなんてお前の連れはどうかしているんじゃないのか? ──こう言ってはなんだが彼女は死んだぞ」
「大丈夫ですよ、ステイシアさん。僕らは助かりました」
「助かりましたって……正気か?」
ステイシアは弓を構えたまま呆れたような声を出す。
「まぁ、見ていてください」
つがいの片割れを殺したのがオリビアであれば、アシュトンとは比べものにならない匂いが染みついているのは疑いようがない。
つまり、ノルフェスの標的は完全にオリビアへと変わっていた。
「グガアアアアアアァァッ!!」
先に動き出したのはノルフェスだった。怒りに満ちたような咆哮を上げ、オリビアに向けて突っ込んでいく。ステイシアが膝を射貫いたはずなのに、そのことを感じさせない速度は脅威そのものだが、しかしそれ以上の速度でオリビアが駆け抜けると、耳をつんざくような叫び声と同時にノルフェスの左腕が宙に舞う。
オリビアは素早く体を反転させると、今度は膝を大きく曲げて空中に跳躍する。勢いよく突き上げられたノルフェスの右鉤爪と、オリビアの漆黒の剣が重なった途端、白き輝きと同時に稲妻が巨木を貫く。
木片が派手に飛び散る中、オリビアが剣を鞘に収める背後で、ノルフェスの体は豪快に血飛沫を噴き上げながら左右へ泣き別れていく。気がつくとステイシアが呆けた顔をしてアシュトンと同じように座り込んでいた。
オリビアがこちらに近づいてくると、我に返ったらしいステイシアは一転、怯えたような表情を浮かべている。
オリビアはアシュトンの前で腰を屈め、笑顔を浮かべてこう言った。
「やっぱり私がいないとアシュトンはすぐに死んじゃうね」
「そうさ。オリビアがいないと僕って人間はすぐに死ぬんだよ」
雨が降り出す──。
おもむろに差し出された手をアシュトンはしっかりと握り立ち上がる。
濡れそぼるオリビアの姿はたとえようもない魅力に満ちている。
ノルフェスの襲撃から始まった逃避行は、終わりを告げようとしていた。
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