②
※
一体、どれくらいの時間が経っただろうか。最初に感じたのは、ほんの少しの息苦しさだった。うつ伏せに倒れた身体を起こして、かぐやは重い目蓋をゆっくりと開いた。
「うぅ……ここ、は」
何だか様子がおかしい。意識が途切れるまでは、病院の措置室に居た筈。次第に意識が鮮明さを取り戻し、目の前に広がる景色が白ウサギの作り出したグラフィックだと理解すると、不覚にも胸がドキドキと高鳴った。
「すごい……!」
見たことのない植物が辺り一面に広がっている。背の高い木々が生い茂るここは、森の中だろうか。カラフルに彩られた景色は瑞々しくも毒々しい華やかさ。よく見れば、地面はピンクで空は淡い黄色だ。
それだけじゃない。柔らかく吹き抜ける風はバニラのように甘ったるい。想像していたものとは比較にならなかった。デジタルのデータだとは到底思えず、匂いも景色も、全てが本物のようにしか感じられない。
立ち上がって一歩、二歩と歩いてみる。関節部分に多少の違和感はあるものの、身体はいつも通り思うように動いた。
「えっと、これからどうすれば」
事前に聞いていた話によると、本来の白ウサギならばアナウンスがあるらしいが。システムが乗っ取られてしまっている以上、期待出来ないだろう。
つまり、これからは全て自分で考えて行動しなければいけないということか。
「か、かぐやさん……かぐやさーん!」
不意に、森の中からかぐやを呼ぶ声が聞こえてきた。悲壮感に満ちた声は、聞き覚えがある。
間違いなく、凪のものだ。
「な、凪さん? どこですか?」
「こ、ここです。上、上!」
「上……」
声を頼りに、かぐやは傍に生える巨木を見上げる。最初は見間違いかと思った。そして次に、林檎のような果実だとも考えた。でも、どちらも違った。
首だ。
まるで林檎のように、枝にぶら下がった凪の首があった。風に煽られているのか
それとも自ら動いているのかふらふらと不自然な動きで揺れている。加えて、頭には何やら紫色の花のようなものが二つくっついていた。
……否、違う。それは花ではなく、猫のような紫色の獣耳だった。
「きゃっ! な、凪さん大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃ……うわわっ、ひぃい! 落ちる、落ちるぅ!」
悲鳴を上げながら、凪の首が大きく揺れるとそのまま地面へと落下する。かぐやは反射的に受け止めようと駆け寄り、両手を前に伸ばす。想像していたよりも軽い衝撃に尻もちをつきながらも、何とか凪を受け止めることに成功した。
重さも、大きさも。人の頭とは、ボーリングの球に似ていると思考の隅でしみじみ実感する。獣の耳が生えているという違和感はあるものの、腕の中の物体は間違いなく凪だ。
「うう、かぐやさぁん! 助かりました、でも何で自分がこんな目に。身体は消えるし、思うように動けないし……バグ? バグですかねこれ?」
「えっと、どうなんでしょう」
「いいや、バグなどではないぞ。喜ぶと良いナギ、お前は不思議の国のアリスで……いや、ある意味ファンタジーというジャンルで誰もが知る一番有名なキャラクターになれたんだぞ」
くすくすと、嫌みったらしい嘲笑が背後から転がってくる。反射的に二人が振り向くと、やはりそこには緋月が居た。良かった。兄の存在に安堵するも、何だか様子がおかしい。処置室での彼は、いつものように白衣を着ていた筈だが。
袖口と襟元に金と銀の刺繍が施された黒のテイルコートに、踵が高い編み込みのブーツ。ルビーの飾りが煌めくループタイを締め、胸元と頭のシルクハットには月下美人があしらわれている。右手に持っているのは、黒檀のステッキか。
紳士と呼ぶには、かなり派手な出で立ちだが。持ち前のルックスで見事に着こなしている様は、まるでファンタジー映画から飛び出してきたかのようだ。
「ぬあっ、先生!? ななな、何ですかそのド派手な格好は! コスプレですか!?」
「お前に言われたくないぞ、チェシャ猫。これでも、吹き出しそうになっているのを必死に堪えているんだからな」
「チェシャ猫……」
そういえば、それも以前麻佳が言っていた。白ウサギにログインすると、患者を含めた参加者全員の見た目が不思議の国のアリスに出てくる登場人物になるのだとか。
「それにしても、まさか凪がチェシャ猫になるとは。狙ってはいたものの、その様子を見ると外れてラッキーだとさえ思うぞ。常に笑みが絶えないキャラの筈だが、お前の場合は周りの方が笑ってしまうな。ああ、滑稽だという意味ではなく、愛らしいという意味だぞ。スクショを撮ってパソコンの壁紙にしたいくらいだ」
「うぐぐ、自分はちょっと洒落た格好になれたからって……、もうガマン出来ません! どうせ仮想現実で傷なんか残らないんですから、一発殴らせてくださいっ」
けたけたと楽しそうに笑い続ける緋月に、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう。かぐやの膝から下りた凪が、緋月に向かって勢い良く飛び掛かった次の瞬間。思わず、かぐやは口元を手で覆って驚いた。
首だけだった凪に、まるで植物が根を生やすように胴と手足が現れたのだ。
「鉄拳制裁!」
「おっと、危ないな。本当に当たったらどうするんだ」
ぶん、と拳を振るう凪から慌てて距離を取る緋月。耳と同じように、尻尾や長く鋭い爪など猫の付属物がある以外は別段変わったところは見られない。
なる程。確かに、身体を自在に消したり現したりするのはチェシャ猫の一番の特徴だ。
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