④
家事のほとんどは晶子の仕事である。父親は工場で、義母は有名な化粧品会社で働いている。所謂共働きだ。そして愛華は一切家事をしない為に、いつの日からか料理や洗濯、掃除など家のことはほとんど晶子が行うようになっていた。
夕食を終えて、後片付けを済ませると晶子は財布を持って家を出た。学校の帰りに買うつもりだった醤油を忘れてしまったのだ。
近くのスーパーマーケットまで、歩いて五分程。閉店間際の人が少なくなる時間帯な為に、油断していた。
「あっれー? 木之下さんじゃーん」
ぎくりと、肩が跳ねる。店の出入り口辺りで、聞き覚えのある声に呼び止められた。清水だ。
「やっほー、どうしたの?」
「え、えっと……ちょっと買い物に」
日中と同じ制服姿。しかし、周りに居る友人らしき数人の少女達には見覚えが無かった。
清水を含めた五人の少女達は皆学生服を着ていたが、それぞれ学校が違うのかバラバラだ。それでも、彼女達は化粧をしているしピアスやネックレスを付けている子まで居る。
名前も知らない女の子達が、怪訝そうな視線を向けてくる。
「……ユイー? だれ、コイツ」
コンクリートの地べたに直接座っていた子が、清水の名前を呼びながら怪訝そうに晶子を見る。気が弱く、派手な女の子が苦手な晶子はそれだけで身体が強張ってしまった。
「んー? 学校で同じクラスの子。新しい制服も買えないくらいビンボーなんだって」
「あっは、マジ?」
「ねえねえ、何買いに来たの? ビンボーなのにお金持ってるの?」
一体何が面白いのか、彼女達は晶子に興味を持ってしまったらしい。口角を吊り上げた肉食獣のような笑顔を顔面に貼り付けて、晶子が逃げられないように周りを取り囲む。
「アタシ達さ、今かなり金欠なんだよねー。夕飯もまだ食ってないしー」
「ユイのトモダチなら、アタシ達ともトモダチだよねぇ? ねーねー、ちょっとハンバーガーでも食べに行かない?」
「で、でもわたし……」
「良いじゃん、木之下さん。行こうよ、ねえ……」
清水がカツカツと詰め寄って来る。背が高い彼女に見下されれ、晶子は更に萎縮してしまう。心臓が痛いくらいに跳ねて、指先が氷のように冷たい。
――断ったら、どうなるかわかってるの?
「だいじょーぶ、皆アタシのトモダチだから怖くないよ?」
表情は笑っているが、その目は正に獲物を狙う肉食獣のそれだった。このまま一緒に連れて行かれたら何をされるか、想像もつかないし出来なかった。
嫌だ、行きたくない。そう言えば言いだけなのに、唇が震えて声が出ない。言葉にならなくても良い、大声を出すだけで良いのにそれも出来なかった。
怖い、誰か助けて!
「じゃあ木之下さん、行こっか? あの角のトコで良いよね――」
「……きみ達、こんな時間に何をしているんだ?」
突如、清水を遮る全く別の声。男性特有の低く、しかし羽毛のように優しい声。背後から聞こえたそれに、清水がこれ見よがしに舌打ちをした。
「家に帰らなくても良いのか? 親御さん達も心配しているだろうに」
「何だよ、オッサン。ジャマしないで……よ」
晶子に向けていた表情とは全く違う、嫌悪感を剥き出しにして背後に立つ男を睨む。だが、すぐにその表情が一変した。
罵声でも浴びせようとしたのか、ぽかんと口を開けたまま。間の抜けた表情で、瞬きをゆっくりと繰り返すだけ。
「オッサンって……きみ達くらいの女の子から見れば、アラサーの男などオッサンなのかもしれないが。ううむ……実際に面と向かって言われると中々にショックだな」
「あ、ああ……そ、その」
気の強い彼女達なら、例え男の人を相手にしたとしてもそう簡単に押し黙るとは思えなかった。しかし、清水は餌を待つ金魚のように口をパクパクさせるだけ。見れば、清水の友人達も同じような表情で男を見上げていた。否、その顔は見る見る内に林檎のように赤くなっていく。晶子も勇気を出して、そちらを見やった。
そして、彼女達が何も言い返せなかった理由を晶子もすぐに思い知ることになった。
「まあ、良い。話を戻そう、女の子がこんな夜中に出歩いていたら危ないぞ。この国は海外に比べれば平和な方だが、それでも年頃のお嬢さん達が無防備に歩いていれば、変な気を起こす男も居るだろう」
男が晶子達を見回す。晶子はもちろんだったが、周りの子も彼と目が合うだけで息を飲んだ。男の人の容姿を表すのに不適切だとは思うが、彼は夢のように『美しい』のだ。
夜風に靡く黒髪はさらさらと癖がなく、白い肌は透き通るよう。すらりと伸びる手足はしなやかで、背は見上げる程に高い。黒いロングコートにズボン、ブーツまで黒一色だが、それが嫌味ったらしく無く恐ろしい程に似合っている。それでも、彼の数ある魅力の中でも一番目を引くものが、その瞳だ。
切れ長の涼し気な目元を彩る、不思議な淡褐色の瞳。
「……聞いているのか?」
モデル? それとも映画俳優? 何にせよ、ここまで完璧な容姿を持つ人間がこの世に存在するのだろうか。今、この瞬間が現実であるかどうかを疑い始めた頃に、男が訝しむように言った。
「は、はい!?」
「だが、見ず知らずという時点で俺も不審者と変わらないか。遊びたい盛りなのはわかるが、早い内に帰りなさい」
もしも彼が、人並みの容姿をしていたのなら清水達も黙っていなかっただろう。むしろ、説教じみたことを言われたのだ、反発していても不思議ではない。
それでも、彼女達は何も言い返せなかった。ただ顔を真っ赤にさせて、こくこくと玩具のように頷くだけ。
「は、はい……わかりました」
「すみませんでしたー!」
それだけ言って、清水達は蜘蛛の子を散らすようにあっという間に逃げ出してしまった。後に残されたのは、晶子と男の二人だけ。
「……きみは帰らないのか?」
その声にハッとして振り返る。男が呆れたように、晶子を見下す。彼の視線を自分一人が独占してしまっている、そう考えると凄まじく愚か者だと思えてしまう。
「あまり遅くならない内に帰るように、良いね」
そう言って、男がコートを翻してその場を去ろうとする。スーパーから出て来た筈だが、その手には何も持っていないようだ。そもそも、彼がこんな庶民的な店で何かを買うのか。全く似合ってない。
「……あ、そうだ。きみは、この辺の子なんだよな?」
「え、あ……はい」
「少し聞きたいことがあるんだが、良いか?」
不意に足を止め、男がこちらを振り返る。再びあの不思議な色合いの瞳に見つめられれば、言いようのない緊張感が晶子を包む。
「何、でしょう……」
「この近くに『グランストア』というコンビニはあるか?」
「え……こ、コンビニですか?」
想定外だった。このスーパー程ではないにせよ、コンビニだって十分庶民的な店だ。それに、どうして『グランストア』という特定の店舗を探しているのだろうか。
「えっと、グランストアなら現の駅前にありますけど」
「ふむ、そうか。駅前なら近い方か……わかった。ありがとう」
ふっ、と微笑む男。その綺麗な笑みが自分だけに向けられたものだなんて、顔面が火を噴くのではないのかと思われる程に熱くなった。晶子が醤油の買い物を思い出したのは、男の姿が見えなくなってから暫く経ってからであった。
――それが、晶子と『魔法使い』の最初の出会いであった。
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