今日は何ラーメン?
とき
第1話
「ラーメン、堅め、多め、濃いめで」
仕事に疲れた日はラーメンと決まっている。
油ぎっとりのこってりラーメンを、エンプティ状態の体と心が欲するのだ。
朝早くからパソコンとにらめっこして、解放されるのが日付が少し変わる前。終電まで残り30分というタイミングで、かすむ目をしてラーメン屋に入るのが日課になっていた。
「ラメン、堅め、多め、濃いめネ」
麺の堅さ、油の量、味の濃さを注文時に、自由に選べるようになっている。
ちょっと外れた発音でリピートされる。
店主はおそらく中国出身。けれど、ラーメンのおいしさに国籍や言語なんて関係あるはずがない。
店主は狭い厨房で手際よく麺を茹で始める。
ラーメンのお椀に醤油たれを入れ、大きな寸胴鍋で煮込まれた濃厚豚骨スープを流し込む。
数分ほどして、鍋から上がった太麺を、豪快に湯切りしてお椀へと投下する。
最後にチャーシュー、ほうれん草、海苔、玉子をトッピングして完成。
「ハイ、お待たせ」
カウンターにラーメンが置かれる。
横浜ではもっともポピュラーな豚骨醤油ラーメンだ。
茶色いスープに、油がいっぱい浮いている。
誰がどう見ても、健康には良くないと称するだろうラーメンだ。1000キロカロリーはあるのだろう。夜中に食べたら太るのは間違いない。
しかし、この背徳さがやめられないのだ。
これはお仕事を一日頑張った自分へのご褒美。会社に忠誠を尽くし任務を全うした自分を、支配者の存在しない無秩序な世界へと解き放つための儀式。
濃厚な味が食欲をかき立て、どろりとした油が脳を活性化させる。スープをすべて飲み干す瞬間まで、現実では味わうことのできない快楽に浸ることができる。
正義の時間は終わりだ。
これから、自分にひたすら甘い悪へと落ちる。
甘やかした結果は言うまでもない。
太った。
一日中デスクワークで、体はほとんど動かさない。その上、夜中にこってりラーメンを食べて寝るのだから、太らないわけがない。
この際だから白状してしまうと、このラーメン屋には、お昼や夕方の休憩時間にもよく通っていた。
自分に甘すぎたと思う。
でも、仕方がなかったのだと弁明しておきたい。
お昼から仕事もしたくないし、残業もしたくないし、次の日会社にも行きたくない……。でも、ラーメンがあれば堪えることができる。
ラーメンこそ活力だ。
エネルギー回復、気持ちをリセット、そして非現実な世界へ、それが私の背徳的ラーメンなのだ。
「今日は何ラメン?」
毎日のように通っていれば、顔も覚えられる。
店主の独特のイントネーションも小気味よく、くせになる。
ラーメン以外メニューはない店で、ラーメンのスープも1種類しかなかった。
だから、バリエーションを出すのはトッピングに何を足すか、である。
のりを足せばのりラーメン、チャーシューを足せばチャーシューメン。
今日はいつもより頑張ったからフンパツしちゃおうという、細やかなご褒美を追加する。
「ネギラーメン、普通で」
「ネギラメン、普通ネ」
ネギのどっさり乗ったラーメンだ。
ラーメンが緑に染まり、気分を変えるのにはいいトッピングだと思っている。
心なしか、ヘルシーにも思える。
「麺の量ネ、多くしたよ」
普段は話しかけてこないのだが、今日は店主がニコニコと笑みを浮かべて話しかけてきた。
仲良くなれた気がしてちょっと嬉しい。
しかも、自分だけ麺の量を多くしてくれたのだろうか。
「普通のお店、150グラムネ。でも、ここのお店、180グラムしたヨ」
なるほど……他のお店に負けないように麺を増量したらしい。
この近くには、高校や大学があって学生が多い。量が多いのはとても喜ばれるだろう。
でも、自分だけのサービスでなくてちょっと哀しい。
ある日、ラーメン屋の看板に「半額」という紙が貼ってあった。
ラーメン屋で半額とは思い切ったことをするなと思い、店主に聞いてみた。
「他のお店、ラメン280円やてるネ。だから、ここは300円するヨ」
600円のお店が300円。
ラーメン好きにとってこんなに嬉しいことはない。
1日1食のはずが1日2食、ラーメンにできてしまうのだ。
肥満が加速する。
なんて罪作りな店主なのだろう。
しかし一方では、そんなに安くしてしまっていいのだろうかと不安になる。
麺の量を増やして、料金を安くするのは、競合ラーメン店に勝つためにはいいことかもしれない。
とはいえ、そんな大胆な改革をしては経営に響くのではないだろうか。
1杯280円のお店といえば、他の街にも展開しているチェーン店のことだろう。看板に大きく「280円」と書いてあるのが特徴的だ。地域によって380円のこともあるが、シンプルイズベストを体現したようなリーズナブルなラーメン屋で、いろんな世代の人に人気がある。味はまあ……値段相応といったところだと思う。
そんな格安店と直接対決するのが得策とは思えなかった。
こう言っては悪いが、この中国からやってきた店主、経済やら経営には詳しくないのかもしれない。
自分もそういうのに詳しくないのであまり言えないが、他のお店に勝つために、多さや安さで勝負しようとするのは安直すぎるように感じた。
味は絶対勝ってるのだから、無理することないと思う。
昼、夕、夜、いろんな時間にラーメン屋にいくけど、そういえば営業時間はどうなってるんだろうと思ったことがある。
看板や店内の張り紙には書いてなかった。
この辺りのラーメン屋は、飲みの二次会、三次会として活用されることが多いので遅くまでやっているが、もしかしたらこの店も夜遅くまでやっているのだろうか。
「お店はいつ休み?」
「寝てるときネ。それと……あー、えー、あーと……」
日本語が出てこないようだった。
このときほど、中国語を話せればよかったのにと思ったことはない。
店主は頭の上で、手をわしゃわしゃと動かしてみせる。
何かのジェスチャーのようだ。
「頭が痛いとき?」
「そう。それ! 寝てるとき、頭が痛いとき。それ以外やてるヨ」
つまり、どうしても休まないといけないとき以外は営業しているようだ。
年中無休。
営業時間はおそらく、お昼から始発電車まで。
ブラック過ぎて涙が出そうな勤務形態である。
他に店員を見たことがないから、本当に無休なのかもしれない。
ラーメン屋の店主にかかわらず、頬骨がわかるほどに痩せているのは激務のせいかもしれない。
働き者で実直な人だ。
以前、どこ出身か聞いたことがあった。
中国の四川出身だった。四川料理のコックになるために日本に来たが、いろいろあって今はラーメン屋になったらしい。
他にもいろいろしゃべってたのかもしれないが、言語の壁もあって、わかったのはそれくらいだった。
大変苦労しながらも、素朴な笑顔をしてラーメンを作る店主に、赤の他人ではあるのだけど、幸せになって欲しいなと思ってしまった。
今日も仕事疲れた、ラーメンを食べよう。
そう思ってラーメン屋に行ったのだけど、シャッターが閉められていた。
特に張り紙はない。
休業日だろうか。頭が痛い日だったのかもしれない。
頑張りすぎはよくない。たまにはゆっくり休んでほしいと思い、ラーメン屋をあとにし、自分もまた頑張らないために帰路へとついた。
次の日、シャッターは上がり、通常通り営業していた。
どうしたのかと店主に尋ねると、
「掃除、アルバイトにさせたヨ。そしたら、鍋も捨てちゃって」
どうやら豚骨スープの入った鍋を、掃除のために雇ったアルバイトに捨てられたらしい。
アルバイトはお店の掃除や、食器などを洗ったのだろう。そして、鍋も綺麗にしないといけないと思い、鍋をひっくり返し、スープを捨ててしまったと。
しかし、スープはラーメン屋の命と言っても過言ではないものだ。
豚骨、鶏ガラ、野菜など、素人では想像もつかないものを数日かけて煮込み、味を調整しながら、そのお店ならではのオリジナルスープを作り上げる。お金も時間も手間もかかる非常に大切なもので、ラーメンの料金はほとんどがスープ代と言われるほどだ。
だから、毎日の掃除でスープを捨てたりしない。減った分を継ぎ足しながら使うのだ。
昨日はやむを得ずお店を休んで、スープを作り直していたらしい。
ここのラーメンは濃厚な豚骨スープが売りなのだが、確かに今日はちょっと薄い気がした。
しばらくして、またシャッターが閉められていた。
トラブルがあったんだろうか、それとも体調が悪いんだろうかと心配しつつ、お店の前を通り過ぎる日が数日続いた。
しかし、久しぶりにラーメン屋にやってくると、なんと看板が外されていた。
そこでようやく気づく。
ラーメン屋はつぶれてしまったのだ。
麺を増やしたり値段を安くしたり工夫をしていた。利益が減った分を営業時間をできる限り長くして頑張っていたのだけど、やはり経営に無理があったのかもしれない。
おいしいラーメンを作る料理人の技能はあっても、経営の才能が必要である店主は向いていなかったのだ。
店主はどうしたのだろうと心配する気持ちもあったが、あのラーメンをもう食べられないのかと思うとそっちほうがショックだった。
毎日のように食べていたラーメンが食べられない。生きる楽しみを奪われたみたいだ。
つらい仕事に耐えられたのはあのラーメンがあったからなのに。これからどうやって生きていけばいいのか……。
僕は現実世界から解放される術を失ってしまった。
一週間後、同じ場所に違う名前のラーメン屋ができていた。
もしかしたらリニューアルのために休業していたのかもしれない、同じ店主がやっているのかもしれない、と期待してしたお店に入った。
だが、そこのあの店主はいなかった。
店員数名が明るく迎え入れてくれたし、ラーメンも同じ豚骨醤油系だし、ラーメン屋として不満のない出来であった。
でも、なんか違う。
おいしいのだけど……おいしくなかった。
そこには背徳感がなかった。
それからしばらくの間、ラーメン屋にはいかなかった。
あのラーメンのように、現実世界から切り離してくれるものを探していたのだけど見つからなかった。
毎日朝早く会社にいって、夜遅くまで残業をして、の繰り返し。
上司の顔色をうかがって、顧客の無理な要求に従って……従順で真面目な振りをして、正義の社会人を全うするのにも疲れた。
とはいえ、仕事をやめられるわけがない。
お金がないと生きていけないのだ。
ああ、自分をひたすら甘やかしてくれる悪の世界にいきたい。
あるはずもないのに、あのラーメンの背徳的な残滓を求め、あるラーメン屋に入ってしまう。
メニューを見る限り、魚介豚骨が売りのようだ。
名前は似ていても、あのお店の豚骨醤油とは全く違うもの。
まあいいや。久しぶりのラーメンだ、フンパツしてしまおう。トッピング全部載せのお得なラーメンにしよう。
メニューから顔を上げ、店員を探す。
頭にタオルを巻いたガタイのいい男が厨房で店員に指示を出している。おそらく店長であろう。
「あのーすみませんー」
繁盛しているお店とあって、なかなかこちらの存在に気づいてくれない。
奥で麺を茹でている店員と目が合った。
「今日は何ラメン?」
あっ!!
今日は何ラーメン? とき @tokito
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