14.桔梗

 夕刻になり、陽は西へと大きく傾いている。

 比叡山のふもと付近から京へ戻ってきた文殊丸たちは、そこからある場所に向かって歩いていた。そこは、京の西である右京の中にある屋敷群の一角で、今はまばらながら日中は人の往来が盛んな箇所であった。


「よく考えれば、順番的には先にこっちへこればよかったかもね。良門や皐月と分かれたのも右京だったし」

「そうだな。まぁ、今となっては時すでに遅しだけどな」


 光の指摘に、文殊丸は苦笑する。良門たちと分かれたのが同じ右京だったので、そこから京の北東へ外れた夜摩丸の許へ行ってからこっちに戻って来るよりも、先にこちらでの用を済ませてからそちらに向かった方が、今思えば効率的だっただろう。

 そう考えて会話しているうちに、二人は目的の場所へ着く。着いた先であるとある屋敷の中へ、二人は門戸を叩いて入っていった。

 家人によって中へ案内された二人は、そこからこの屋敷の中で用のある人物の部屋へと通される。そこへ辿りついて入ると、ちょうど目的の人物は、別の誰かと応対中であるようだった。

 通された部屋には、二人の女性がいる。単衣を幾重にも重ねた女性と、巫女のような装束に身を包んだやや男装気味の女性の二人で、彼女たちは文殊丸と光の来訪に気づくとそちらへ目を向けた。前者はどこか深窓の令嬢然としたたおやかな印象のある柔らかく美しい風貌であるのに対し、後者はこちらも美しく、しかしそれ以上に溌剌とした明るい印象を覚える女性であった。

 そのうちで、男装気味の女性の方が、二人の姿に首を傾げる。


「おや? 随分と小さいお客のようだな」

「ふふっ。私の子供たちですよ」


 胡乱がる女性の方へ、たおやかな側の女性が説明する。薄ら双眸を細めた彼女は、陽に照らされて輝く月のような淡い美しさを感じさせた。

 彼女の言葉を聞き、文殊丸が軽く顎を引く中で、光が室内へと進み出る。


「こんにちは、母上! 遊びに来たよ!」

「こら光。お客様へ挨拶が先だろう」


 微苦笑混じりに、文殊丸は光を注意する。そう言ってから、文殊丸は顔をそちらへ向ける。男装気味の女性は、初めて会う相手だ。この時代の中では少し奇抜ともいえるその恰好と、しかしそれによく調合した明るい表情に、彼は髪下の双眸を細めた。

 一方、たおやかな女性は文殊丸たちにとって馴染み深い人物だ。馴染み深い、と言うのは少し言葉が軽いか。彼女がそう口にした通り、彼女は文殊丸たちの母親である。名は桔梗ききょうといい、文殊丸たちが十二・三であるのに対し、この女性はまだ三十にもなっていない、うら若い母親であった。

 そんな母親の客である様子の見知らぬ女性へ、文殊丸は会釈する。


「はじめまして。自分は文殊丸、こちらは妹の光といいます。見たところ、母上のお知り合いのようですね?」

「あぁ、そうだ。随分と礼儀正しい御子息のようだ。満仲の息子とは思えないぐらいにな」


 文殊丸の挨拶に、相手はにんまりと笑う。その言葉から、文殊丸は相手が父親の知り合いでもあるようだ、ということを悟った。

 光も頭を下げる中、桔梗が笑う。


「文殊丸、光。こちらは私や父上の知り合いで、鈴鹿殿といいます。本人はおおらかでいらっしゃるけど、あまり粗相のないようにね」

「はい。勿論です」

「よろしい。じゃあ、何か入れるわね」


 しっかりと文殊丸が頷くのを感じ取ると、桔梗は立ち上がろうとする。その所作に、他の三人は少しだけ目の色を変える。


「母上、お気遣いはありがたいですが――」

「母上、そんなことしなくていいよ。私がやるから!」

「あまり無理するでない。ほれ、子息たちも言っておるだろう?」


 言葉通りの行動を起こそうとしたのだろう、動き出そうとした桔梗を、何故か三人が一斉に止める。文殊丸や光はともかく、鈴鹿までもが少しだけ慌てた、あるいは焦った様子であった。

 そんな彼らの声掛けに、桔梗は少しきょとんとするが、やがて彼らの危惧に気づいたのか、無言の苦笑を浮かべてその場に座り直す。


「ふふっ。三人とも心配性ですね。では、御言葉に甘えましょうか」

「うん。母上はゆっくりしていて。兄上の分の茶も私が入れるから」

「そう。どれだけ淹れるのが上手くなったか、見物させてもらうわね」


 光の言葉に、桔梗は悪戯っぽく笑う。そこには、少し試すような響きと色があった。その言葉に、光は少しぎこちなく笑ってから、部屋の奥の急須へ向かった。

 そんな妹の背を、文殊丸は見送る。その顔には、桔梗の言葉に対する切ない笑みが浮かんでいた。桔梗は、光の動く様を見物するといったが、それは絶対に不可能な話だ。何故ならば、彼女は目が視(み)えていないのだから。

 生まれつき、視えていなかったわけではない。昔は視えていたらしく、その頃はたおやかな容姿とは相反して積極的に動き回る闊達かったつとした少女であったという。だが、それが失明してからは影を潜め、今のような雰囲気相応な大人しい女性になったということだった。

 彼女が視力を失ったことに文殊丸たち、特に文殊丸は強い罪悪感と慙愧ざんきの念を感じずにはいられない。何故ならば、彼女が目から光を失ったのは、自分たちを産んだ時だと聞いているからだ。

 そして正確には、文殊丸はそれを、自分を産んだためだと認識していた。というのも、産褥で失明した彼女は、文殊丸を産む際に非常に苦労したと聞いているからだ。なかなか生まれなかった自分のせいで苦しい思いをした上で、瞳の自由さえ失ったと家人たちから伝え聞かされていた文殊丸は、一抹のみならない大きな苦さを噛みしめざるをえなかった。

 母親の盲目の原因が自分にある――その事に後ろめたさを感じながら、文殊丸は光を見る母を見る。その横顔は慈愛に満ちており、目が視えていない中で、それ以外の感覚器を使って光の所作を観察しようとする母親の健気さが映り込んでいた。

 目の見えない中でも母親として自然に振舞う桔梗に、文殊丸は唇を引き結んだ後、気を切り替えて話題を探した。

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