13.夜摩丸
京の都の北東部の郊外に、小さな庵がある。
京を出て、
そこへ、文殊丸と光は足を運んだ。
彼らがそこを訪れた時、ちょうどその庵の前では、若い僧侶が箒で清掃を行なっているところだった。文殊丸たちは、彼に軽く挨拶をした後、そこを通り過ぎて中へと入った。
質素ながら清潔に保たれた庵の中では、子供が一人、本を読んでいるところだった。まだ年の瀬は六歳から十歳ぐらいの幼い子供で、とてもおとなしそうな雰囲気を醸し出している。
ただ、普通の子供では、否、人間でないのは一目で分かるだろう。何故ならばその子供の側頭部からは、角のような突起が二つ生えていて、八重歯と呼ぶには少し凶悪な犬歯が、口の端から飛び出ているからだ。
その姿は異形、一言で言い換えるならば、鬼の子供のようであった。
そんな子供は、書物に集中しているのか、文殊丸たちが庵に入ってもすぐにはその気配に気づかなかった。それを見て、文殊丸が声を掛ける。
「
子供の名を、文殊丸は呼ぶ、すると、子供はパッと顔を上げ、文殊丸たちを視認し、それから輝くような様子で喜色を浮かべる。彼は本を畳むと、すぐに立ち上がって、どたどたと文殊丸たちへ駆け寄ってくる。
「兄上。姉上。来てくれたんだ!」
「あぁ。元気にしていたか?」
「うん。あ、今何か出すねー」
優しく微笑む文殊丸に、子供・夜摩丸は踵を返して庵の奥へと向かう。そして、あどけないながらも、文殊丸たちと言う来客への応対の準備を開始した。
その反応、行動は、齢の割に非常にしっかりしているといえるだろう。齢の割にませているのは文殊丸も同様だが、この子供も相当なものである。
この子供は、前述の通り名を夜摩丸という。文殊丸たちからして四・五歳年下の弟でもあった。
文殊丸たちが庵に上がると、夜摩丸は客用に白湯を出してくる。それを受け取り、文殊丸たちが飲む中で、夜摩丸は嬉しそうに首を傾げた。
「今日は何か用? 父上にお願いされてきたの?」
「いや。遊びに来ただけよ。はいこれ、お
そう言って、土産物を出したのは光であった。彼女が出したのは、
菓子を出されたことに気づくと、夜摩丸は更にパッと顔を輝かせる。その反応は齢相応で、大人びているとはいえ、まだまだ子供であることを証明していた。
「うわーありがとう! ねぇ、一緒に食べようよ!」
「ほう、いいのか? 俺たちが食べると、お前の取り分が減るぞ?」
楽しげに提案する夜摩丸に、文殊丸が少し意地悪く尋ねる。
するとその言葉に、夜摩丸は唸った。
「うーん……いいや! 兄上たちと一緒に食べた方が、美味しいから!」
「そうか。そう言ってもらえると嬉しいな」
少し迷った後で夜摩丸がそう言うと、その言葉が嬉しかったのだろう、文殊丸たちは微笑む。
こうして三人は、庵の中にある
甘い味覚の嗜好品を口にし、夜摩丸と光は幸せそうな顔をした。
「うーん、甘い。美味しい!」
「本当。屋敷ではあんまり食べられないから、こういう場所で食べられるのは得よね」
「そうなの? 父上は食べさせてはくれないの?」
「うーん。父上は食べてもいいって言うけど、季国がね。勉強も終わらぬうちから食べてはあげさせませんぞーって言って妨害してくるの」
「それ、勉強すれば食べれるんじゃないの?」
「いや。結局食べさせてはくれない。季国、卑怯だから」
夜摩丸からの問いに、光は唇を尖らせながら手を振って答える。その仕草に夜摩丸は笑った。
「そうなんだー。季国って、意外と卑怯なんだー」
「そうそう。私が課題を兄上から勝手に写させてもらうと、またサボりましたなーとか言って課題増やしてくるの。酷いと思わない?」
「あぁ。勝手に課題を写すお前が悪い。この前それで、俺までとばっちり受けたからな」
同意を求める光に、呆れた様子で文殊丸が口を挟む。
するとそれに対して、光はむっと口元を歪めた。
「い、いいじゃない。たまには写してもらっても。私だって、分からないことがあるんだから」
「正直に言えば写させてやるけど、お前の場合勝手に移すじゃないか。そういうところを、季国は怒っているんだよ」
苦笑しながら文殊丸が言うと、それを聞き、少し説教された気分になった光は、不満そうな顔をしながら菓子に手を伸ばす。
そんな様子であるが、それを見て夜摩丸は楽しそうに笑っていた。一見他愛ない会話だが、彼にとっては、家族と一緒に話すのは貴重な時間であるがゆえに、その時間は楽しんでいる様子であった。
――さて、多くの人は疑問を覚えているかもしれない。何故夜摩丸という文殊丸たちの弟が、京の外れの庵に一人でいるのか、と。これには、彼の忌まわしいとも悲しいともいえる出自が関係していた。
彼は、端的に言えば文殊丸と同じ鬼子である。しかも少し厄介な鬼子であった。文殊丸がその瞳に人ならざる光を宿しているのと同様に、夜摩丸はその頭に、異形とも呼べる角と牙を生やしていた。これは、この兄弟にとって生まれつきである。二人はともに、出産の時からこのような姿を持って生まれ、そして現在に至るまで、その容姿を保ったまま成長をしてきた。
ただ、文殊丸の瞳が髪で隠せるのに対し、夜摩丸のそれは、どうあっても隠しようがない。そのため、彼の異形は衆目の目に明らかであり、文殊丸以上に迫害を受ける危険性がある。鬼子に対して人々が辛辣なのは、ここまで読み進めてくれた方々にも伝わっていることだと思う。
そんな人々からの攻撃を避けるために、夜摩丸は一人、このような場所に暮らしているのである。勿論、理由はそれだけではなく、満仲を中心とした大人の事情もあるのだが、一番の理由はやはり夜摩丸を守るための措置であった。彼が一般からの迫害の目や手を伸ばされないよう守るために、こうして山の中に暮らしているのだ。
ただ、そんな生活が恵まれたものであろうはずもない。まだ幼い夜摩丸にとって、それは悲しくも苦しい処遇であり、身の上であった。
そんな彼を、いつかこの生活から抜け出させるのが、文殊丸や光の、今一番ともいえる目標である。ただ、今すぐはそれを実現することは困難であることから、こうして時々訪ねては、話を重ねるようにしているのだ。
「――ってなわけで、まぁ俺たちは変わりないな。夜摩丸はどうだ? 何か不便なこととかないか?」
最近の生活に着いて雑談がてら語ったところで、文殊丸は夜摩丸に問う。それに、夜摩丸は少し考えてから答える。
「ううん。特には。これまで通りだよ」
「そうか。本当に何も困ってないんだな?」
「うん。父上や兄上たちのおかげで、楽しく暮らしてる」
そう言って、夜摩丸は笑う。今よりも幼い時からここで暮らしていることもあって、彼は決して苦しそうでも悲しそうでもなかった。
その姿に、しかし文殊丸たちは痛ましさを感じる。彼は気づいているか知らぬが、ここで彼が暮らさせられているのは、文殊丸たちの世間体もあるゆえの隔離の意味もあった。彼のようなあからさまな鬼子がいれば、源家にとって不安要素になりかねないという側面があるからだ。
とはいえ、一家の頭である父・満仲は、決して夜摩丸のことを疎んじているわけではない。むしろ、彼のことを文殊丸たち以上に気にしている。彼は夜摩丸を大事に思っているからこそ、世間から彼を守るために彼をここへ住まわせ、不便のないように、比叡山の知り合いに頼んで保護をさせているのである。彼や、そして家族が、苦しまぬように俗世から離しているというのが、満仲の心配りであった、
そんな父の配慮も知っている文殊丸は、その事を理解しているか分からない様子の弟に、切なげに笑う。
「そうか。でも、この生活に満足しないでくれよ」
彼の何気ない一言に、夜摩丸と光は目を瞬かせる。
文殊丸は続けた。
「俺は、あくまでお前に俺たちと同じ生活をしてもらいたいんだ。一緒に市へ出かけたり、馬に乗って遠乗りに出たり、何より屋敷で暮らして欲しい。今はまだ、世間的にはお前が一緒に暮らすのは苦しいかもしれないけど……」
ただでさえ、源の家は文殊丸と言う鬼子を抱えている。ここに夜摩丸まで加われば、世間は余計に源家へ悪評を強めるだろう。そのことは、父である満仲本人は全く気にしないだろうが、そのことがかえって、彼の悪評にも、また家に対する更なる悪評にも繋がりかねない。何より、文殊丸たちが肩身の狭い状況になりかねないのだ。
「でも、いつか俺は、お前も胸を張って源の家の人間だって、自由になれるような環境を作ってみせるから。そのために努力する。だから夜摩丸。お前もこの生活がいいものなんだって、当たり前の日常だなんて思わないでくれよ。本当にお前にもふさわしい生活は、あくまで別にあるんだから」
真剣に、文殊丸はそう話す。
その言葉に、夜摩丸は笑みを消して真面目に耳を傾け、そして神妙な様子で頷いた。
「うん、分かった。兄上の忠告、しっかり胸に刻んでおく」
「そうか。なら、嬉しいな」
弟の素直さ、そして物わかりの良さに、文殊丸は嬉しげに、そして誇らしげに微笑む。例え姿は奇怪でも、文殊丸にとっては大切な弟であった。
「いつか本当に、三人で一緒に暮らせる日が来るといいな」
「兄上、違うでしょ。三人だけじゃ足りないよ」
何気ない兄の言葉を、光が訂正する。
「夜摩丸も、母上も合わせて、それから父上も一緒で五人一緒にでしょ? それだけ集まって、ようやく家族全員なんだから」
「……そうだな。確かにそうだ」
光の言葉に、文殊丸は微笑む。妹の言葉に納得すると共に、それがどれだけ大きな目標で魅力的なものかを再確認したゆえだ。
微笑む文殊丸に、夜摩丸も笑う。
「じゃあ、僕は待ってる。兄上たちが、僕を迎えに来てくれる日を」
「あぁ。いつか必ず」
夜摩丸の言葉に、文殊丸は頷く。頷きながら漏れる声、そしてまだ細い文殊丸の双肩には、しかしながら強い決意が感じ取れた。
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