10.鈴鹿御前
正午過ぎ。
一仕事を終えた満仲は、縁側に座り茶を飲んでいた。この時代は日用品というより健康品にも近い飲み物を、満仲はずずっと音を立てて
そんな姿を発見し、近づく青年の姿があった。年の瀬は二十代ぐらいの、なかなか端正な顔立ちをした青年で、柔らかそうな容貌に好印象な感じを受ける人物だ。
彼は誰か、というと、その正体は満仲の郎党の一人ということになる。名は、
そんな彼の接近に、満仲は敏く気づく。
茶を啜りながら目を向けた彼は、唇を椀から離すと、手を挙げる。
「よう仲光、御苦労さま。書簡の発送は終えたか?」
「えぇ。つつがなく終了しました」
訊ねられると、仲光は足を止めて、容貌の印象とよく合致した柔らかい物腰で頷いた。
それを見ると、満仲は満足そうに頷き、視線を前へ戻す。彼としては、仲光への用はそれまでだ。たまたま近くを通りかかったようだから、彼に挨拶がてら案件を訊ね、それが確認できたのだから話はここまで、そんなつもりであった。
ただ、仲光は違う。彼は、満仲へ別件があった。
「殿、来客です。
仲光の言葉に、満仲は顔をそっと向ける。そして表情には、徐々に苦い色が浮かび上がった。
「鈴鹿が?」
「はい。どうやら、帰って来たようです。お会いになられますね?」
確認する様に仲光が問うと、嫌そうな顔をしていた満仲は、それを消して前を向く。そして、溜息交じりに言う。
「少し、待たせておけ。会うには会うが、今は少し疲れている。会うのは後々でいい」
「……よろしいのですか?」
少し躊躇ってから、仲光は首を傾げる。それは、確認というより疑念といった様子だ。
「待たせたところで、何も解決いたしませんよ? 彼女は、殿が来るまで帰らないはず。そして、殿がお会いするのが遅れれば遅れるほど不機嫌になるでしょうし、話も長くなると思いますが」
「……分かっている」
仲光が意見を述べると、満仲は何故か
「会えばいいんだろう、会えば。まったく、あいつと会うのは気が重いんだよ」
「御心中、
「いい。気にするな」
謝る仲光に、満仲は微苦笑を返す。早めに会った方がいいと意見を述べた仲光本人には何の責任もない。彼は満仲を
郎党の気遣いにむしろ感謝しながら、満仲は歩き出す。
向かった先は、鈴鹿という人物の待つ客間であった。
その女性への第一印象は、美しくも快活そうな感じを漂わせる
肩より先まで伸ばした黒髪に、本来は男物である
そんな人物の対面に、挨拶もそこそこに満仲が座る。女性――男装の
「待たせようとしておったな? そんなに私と会うのが不平か?」
開口一番、鈴鹿は笑顔でそう問うた。怒ってはいない。ただ単に問うただけだ。
そんな彼女の詰問に、満仲は不審そうな顔をする。
「はて、なんのことかな?」
「隠さずともよい。お前が私と会うのを嫌がっていたことは、すでに想定済みだし知っておることだよ」
袖から
「さっきから言っていることが分からんな。
「ほう。あくまでごまかし通すつもりか。まぁいい。お前が私を避けるのは、昔からだものな」
にっこりと、
現に、満仲はげんなりとした様子で息をつくと、視線を逸らして話題を変える。
「で、何で今日はここに来たんだ? 旅の身だろ、お前は」
「おや? たまには京に顔を見せに来てはまずいか?」
「別に、まずくはないが」
「じゃあいいだろう。寄ってみたくなって、また色々と人に会いに来たくなった。理由があるならそれだ」
溌剌とした笑みを浮かべながら鈴鹿が言うと、それを聞いた満仲は目を細める。一瞬、
見ての通り、満仲は昔から彼女が苦手である。彼女の性格のこういうところや、過去に色々なこともあったために、彼にしては珍しく、苦手意識を持つ相手であるのだ。
「そうそう。京では内裏が燃えたらしいな」
不意に、鈴鹿が話題を変えて訊いてくる。
「大変な事件だ。帝のいる御座所が燃えるなどとは。原因は分かっておるのか?」
「失火、ということらしい。誰かがつけたものではないそうだ」
半ば面倒くさげであるが、腕を組みながら満仲は答える。その言葉や態度からは、保憲たちから実際には失火でなく放火の可能性もあると伝えられたことに関すること、また調査依頼を受けたことに関しては、おくびにも出さないし匂わせない。元来豪放だが、口は固い人物である。
そんな満仲の腹の内など当然見抜けず、鈴鹿は口元に扇子を立てる。
「そうか。失火、か。ならば
「? 何が杞憂なんだ?」
すぅっと、満仲は目を細める。鈴鹿が
彼の反応に、鈴鹿は微笑混じりに言う。
「いやな。気になることが、一つあってな」
「なんだ?」
「
びくん、と満仲は眉を震わせる。
話の展開が、まったくもって不意で意味不明だ。何故京の御所の失火の話で、二十年ほど前に遥か
だが、そんな指摘を満仲がするよりも早く、鈴鹿は続ける。
「名前は知らんが、息子二人に娘が二人ほど、な。どうも
「……それがどうした? 何故急にそんな話を?」
「その息子が、風の噂によると、京の近くにやってきているらしい」
扇子をゆっくりと広げつつ、口元を隠しながら鈴鹿は告げる。相変わらず柔和な顔つきの彼女に対し、満仲の表情は真顔になっていた。
「根拠は?」
「ない。あくまで噂だ。ここからは、私の勝手な独り言だが――」
視線を外し、どこかふざけるような視線をしながら、鈴鹿は軽い口調で語り始める。
「もしかしたら、大内裏の失火はその将門の息子の指示によるものではないかと思ってな。狙いは勿論、父を討った朝廷への復讐。闇の勢力と結びついて、犯行に及んだのではないかと、そう推測したのだ」
その、
無反応な彼に視線を戻して、鈴鹿はくすりと笑う。
「まぁ、これはあくまで個人の勝手な妄想だ。それに、将門の息子が京の近くに来ていることぐらいで、そう騒ぎ立てるほどのことではあるまい」
「いや……どう見ても問題だろう。確かに、俺たちからすれば大したことではないが、朝廷の貴族たち、そして京の人々からすれば、身の毛もよだつような事態だ」
噂とやらを軽く見る鈴鹿に、満仲はそう反論した。
鈴鹿や、あるいは満仲のように胆の太い人物ならまだしも、京の多くの人間にとって、『平将門』というのは特別な名前である。それは二十年ほど前、京の都を東から攻め上ぼり滅ぼすのではないかという風説と恐怖で、西方の『
その名を決して甘くは見ていない満仲は、同時にふと、あることに気づいて鈴鹿を凝視する。
「まさか、それをわざわざ伝えに来てくれたのか?」
「ん? まぁな。知っておいた方が、対処も早く出来るだろう?」
「……その配慮については、感謝するしかないな」
あっけらかんと認める相手に、満仲は苦笑する。なんだかんだで、世話焼きのように情報を提供しに京へ戻ってきたのであるとすれば、それについては感謝すべきなのだろう。
満仲の反応に、鈴鹿は満足そうに笑う。
「そいつは
「よいな……と言いたいところだが、
やや冷然となりながら、満仲は言う。それは決して、今この場から逃れるための嘘ではない。実際にこの後、彼は大内裏の
ただ、その内容・理由について知るべき由もない鈴鹿は、不審がりながらも残念がる
「そうか。ならば仕方があるまい。仕事の邪魔をしてまでお前に相手してもらうほど、私も
薄ら笑いながら、鈴鹿は立ち上がる。その言葉を聞いて、満仲は少しばかり苦い顔になる。
「あいつのところで、俺のことを愚痴る気か?」
「いいや。そんなことはせんよ。しかし、手持ちのものもなしに向かうのは気が引けるな……」
何やら困った様子を装い、鈴鹿は満仲にちらりと視線を送る。その視線の意図を、満仲は敏く察すると、苦笑する。
「はいはい分かったよ。何か持たせてやる。代わりに、アイツには謝っておいてくれ。しばらく出向いておらずにすまないと」
「相分かった。感謝する」
満仲からの依頼に、鈴鹿は笑って頷く。
それを見て、満仲もまた苦笑を深めるのだった。
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