5.来客
屋敷をぐるりと取り囲む
愉快な逃走劇と追走劇を繰り広げていた文殊丸と季国だが、それも終わりを迎えようとしていた。東にそびえる塀の隅にて、文殊丸は塀を背に季国と向かい合っている。
ぜーぜー言いながら汗を拭い、季国は顔の汗を拭う。老人だけに、急な運動に
「と、とうとう追い詰めましたぞ、若」
「何を。追い詰めた気でいるようだが、息切れしているじゃないか、季国」
捕まりかけている状況の中、しかし文殊丸は笑う。まだまだ逃げ切れる気でいるのか、彼はその表情で隙を
「なんの。ここまで来て、詰めを誤る儂ではございませんぞ!」
「そうか。だが、
「ふふふ。時には諦めも大事だということを教えてさしあげますぞ、若!」
「――何をしているんだ、お前たちは」
文殊丸の
横合いから掛かった呆れを多分に含んだ声に、文殊丸も季国も視線だけ向ける。聞き覚えの深い声の主は、深緑の狩衣に身を包んだ
その容姿に、季国も文殊丸も、ふざけ合っていた姿勢から背筋を正す。
「これは殿! お帰りですか!」
「父上、お帰りなさいませ」
「あぁ、ただいま。で、何をしている?」
二人からの挨拶を受け、文殊丸の父でありこの家の主である男・
そんな予想に、季国が全力で応える。
「はい。只今、儂の話から逃げ出した若を追い詰めているところです!
「……そ、そうか。頑張れ」
元気よくはきはきと宣言する老臣に、満仲はぎこちなく頬を
そんな満仲の背後で、笑い声が響く。
見るとそちらには、満仲以外に二つの人影があった。共に白基調の服を着た中年の男性だ。違いは、片方が
笑っている方の直衣の男性は、中年ではあるが爽やかという言葉が似合う笑みで、強張った表情の満仲に話を振る。
「ははは。相変わらず、面白い家臣の皆さまですね、満仲殿」
「面白いというか、すごいことで真剣になっていますね、ここの方々は」
直衣の男性に続き、狩衣の男性はかなり呆れ気味で言葉を紡ぐ。こちらも、馬鹿馬鹿しいとは思いながらも、僅かながら失笑や冷笑の気配を漂わせている。
その二人の人物に、季国は慌てる。知らない人物ではない。彼らが主と一緒にいたことに、彼は
「こ、これは
「いや。お気になさらず」
「
手を掲げて恐縮した様子の季国を宥める直衣の男性・
相手は、共に
文殊丸の丁重な態度に、保憲は微笑む。
「いいえ。お世話になっているのは私の方です。また大きくなったな、文殊丸殿」
「はい。今が成長期ですので。それもこれも父上たちのご教育の賜物だと思っております」
「なるほど。父上思いで大変よろしいことだ」
頷きながら少し変わった謙遜を口にする文殊丸に、その言葉の可笑しさからか、保憲は楽しそうに笑いながら感心した様子で言う。
微笑みながら言う相手に自らも笑ってから、文殊丸は視線をその横へ移す。立っているのは、狩衣の男性・
彼に対して、文殊丸は片手を挙げる。
「こんにちは、晴明のおじさん。いつも父が世話になってまーす」
「お前、俺には軽いな!」
近所のおっさんへ挨拶するような気軽さで言う文殊丸に、晴明は思わず突っ込みを入れる。保憲には『
思わず素を出して言う晴明に、その前で満仲が「くっくっく」と
「どうだ、よく教育が行き届いているだろう? 相手によって、呼び方や態度も変えるようにというようにさせているんだ」
「自慢げに言うな! あまりいい教育じゃないじゃないぞ、それ!」
「だが、親近感はあるだろう? 晴明おじさん?」
「やかましい!」
満仲の冗談と揶揄に、晴明は再び突っ込む。
息の合った言い争いを見せる二人に、それを見て保憲はにこにこと笑っている。その様は、とても楽しそうだ。
そんな三者三様の態度を見つつ、季国はあることに気づき、口を開く。
「殿。お二人が御来客ということは、出迎えの準備をした方がよろしいということでしょう。只今準備を――」
「あぁ、それなら大丈夫だ。
言って、満仲はこちらを向いていた季国の横手へ指を差す。
「文殊丸を捕まえろ。逃げるぞ」
そう言われ、季国がその指先へ視線を向けると、文殊丸はいつの間にか塀の際から立ち位置を変え、季国のやや背後に回っていた。
いつの間にか死角、しかも離れた位置へ移動していた彼に、季国は目を見開く。
「しまった! こら若、どさくさに紛れて!」
「甘いぞ季国。隙を見せたお前が悪い!」
そう言うと、文殊丸は再び逃げ始める。
その二人は、瞬く間に広い敷地の向こうと母屋の陰へ消えていった。
彼らが消えていったのを見て、満仲が顎に指を馳せる。
「うーむ。あのわんぱくな性格。一体誰に似たのかなぁ……」
「間違いなく貴様だ」
首を傾げる満仲に、呆れた様子で答える晴明であった。
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