4.源邸の子弟たち

「ずるーい! 兄上も小六も!」


 不満の声は、屋敷の壁を反響して響き渡る。

 京の都の北東部、一条の一角にある源邸みなもとてい。広い敷地といくつもの母屋おもやが連なっている巨大な屋敷は、華美荘厳かびそうごんとは言わないまでも、質素剛健しっそごうけんという言葉がよく似合う、粛然とした造りと空気を醸し出している。

 その母屋の一角で、頬を膨らます水干姿すいかんすがたの少女の姿があった。水色の上着の水干に深緑ふかみどりはかまを履き、振り分け髪という額を中心に左右へ二つに髪を分けて肩の長さで髪を切り揃えた髪型をした、活発そうな顔立ちの少女である。

 不満で目の端を吊り上げ、頬を膨らましてじっと睨む先には、縁側えんがわに座る文殊丸の姿があった。書物を手に持っていた彼は、それを閉じて振り向くと、髪で隠れた顔半分でも分かる、困ったような表情を浮かべる。


「ずるいって。何だよ?」

「ずるいもんはずるい! 兄上も小六も、勝手に出て行っちゃって!」


 訊ねた文殊丸に、少女は詰め寄ると、その背中にのしかかるようにもたれかかった。体格もさほど変わらない少女に乗られ、文殊丸は一瞬苦しそうな顔をしたが、そんな彼にかまわず、少女は不満をぶちまける。


「出て行くときは私も一緒に連れていってよぉ! 兄上たちが勝手に出て行ったおかげで、皺寄しわよせは全部私に来たんだから!」

「あぁ。なんだ、そのことか」


 背中に体重が乗る中、文殊丸はそれを慣れた様子ですぐに表情を普通のものに戻してから、今度は微苦笑を浮かべた。


「悪い悪い。今度からは気をつける」

「む! 反省しているようで反省してないでしょ! ごまかそうとしたって、そうはいかないんだから!」

「……だって仕方がないじゃないか。学問の履修りしゅうが遅れていたのはひかるだし、待っていては上人の説法に遅れていた。あの時は置いていくほかなかったんだ」


 肩を掴まれて左右に振られると、文殊丸は息をついてからつい本音を口にする。謝罪から一転してそう口を開きだすと、文殊丸はそのまま続けた。


「怒る前に、普段からきちんと勉強していればよかったんだ。それならば、季国すえくにの復習の問いに詰まることはなかっただろう?」

「う、うるさいうるさい! 私は兄上と違って物覚えよくないもの!」


 正論を並べる文殊丸に、少女・文殊丸の妹で光という名の少女は、駄々をこねはじめる。齢の割りに大人びた文殊丸と違い、彼女はまだ年相応に精神面は子供なのか、文殊丸の理論に理不尽に反発して不満を口にする。

 そんな彼女へ、身体を揺さぶられ続ける文殊丸は再び息をつく。その顔は、少しずつながら不機嫌になりつつある。初めこそ穏やか、また生来あまり気を立てることは少ない文殊丸であるが、相手が身内、妹であれば話が別だ。気が許せる相手なだけに、自身の憤りもまた表に出やすい。

 徐々に口論の雰囲気が出来つつある中、しかし光は気にせず兄への文句をぎゃあぎゃあ言いつつ、甘える。


「あ、あのお二人とも。喧嘩はその辺で……」


 そんな二人の様子を、見かねた様子であいだを取り持つように口を開いたのは小六だった。彼の声に、二人は視線だけそちらへ向ける。


「若の言っていることは正しいですし、光様の言っていることも分かりますし、ここは――」

「うるさい。黙れ小六」


 穏便おんびんに話を進めようとした小六だったが、それを無下に切り捨てたのは光だった。


「兄上を止めなかったくせに今更味方面しても遅い。私はだまされない」

「俺は何も間違ったことは言っていない。ちょっと黙っていろ」


 光に続き、文殊丸も気分を害した様子で声を返す。その言葉に、小六の表情は固まる。


「で、でも……」

「うるさい小六。裏切り者の八方美人め」

「あんまりふざけたこというと泣かすぞ。泣き虫こよしの青瓢箪あおびょうたん


 畳み掛けるように言う妹と兄に、小六は耐えられなかったようだ。彼は元々いた、縁側付近の部屋の壁の隅へと退くと、そこで膝を抱えて縮こまる。そして、悲嘆にくれた様子で忍び泣き始めた。

 少なからず可哀相かわいそうであったが、そんな彼を気に掛けることなく、光がもたれかかった兄の背で再び頬を膨らます。


「――で、兄上が約束破った件について戻すけど」

「その前にまずどけ。重い。あと、何も約束はしていない」


 不平を口にする相手へ、文殊丸は命令する。その言葉に、光はまたむっとしたようだが、しかし言われた通りに背中からはどく。なんだかんだ言って、兄の指示には忠実な少女だ。それだけ兄が好きなのである。

 背中から離れた彼女は、すたすたと兄の横に移動して、縁側の端で向かい合う。

 並びあい、二人は視線を交わす。むっとした光に、文殊丸は髪の下から視線を覗かせる。


「約束した。この前。出て行くときは必ず一緒に行くって」

「それはいつだ? 何月何日、何時なんどきにどこで誰が誰に?」

「そんなの覚えてないわよ! とにかくね、したの!」

「覚えてないなら俺も覚えてない。残念でしたー」

「むむむ!」


 子供のやりとりながら、言い負かされた光は涙目加減になる。二人の喧嘩はいつもこうだ。口の争いになれば、頭の回転も覚えもいい文殊丸が圧倒的に有利なのである。また、そこから理不尽な取っ組み合いに発展したとしても、文殊丸の方が強いので、光は必然彼をにらむしかなくなる。

 これでもまだ、穏便な方だ。これがさらに言い争いから発展すると、光は大抵泣きわめきだす。そうなるともはや会話ややりとりは不可能で、家の者が駆けつけて仲裁ちゅうさいするまで叫び続けるのだ。

 ……そこまでの展開、先を読んで文殊丸は溜息をつく。どうすればその展開を防げるか、というよりも、そうなるまでの時間を引き延ばすか、などを考えながら、それは結局避けられないだろうなと思いつつ、憂鬱ゆううつさから気をしぶらせていた。


わしから言わせれば、どちらもどちらですな」


 横合いから声が割って入ってきたのはそんな時であった。

 文殊丸が目を向けると、そこからは一人の老人がやって来るところだった。濃色こきいろ直垂姿ひたたれすがた、およそこの時代の庶民の平服へいふくに身を包んだ老いた男性であり、彼はその場の様子を一望し、文殊丸と光、そして縮こまっているままの小六を見ると、納得と理解の色を浮かべた。


「ふむ。いつもの喧嘩がまた始まったといったところですな」

「ちょうどいい所に来た、季国。光の我儘わがままをどうにかしてくれ」


 顎を引いて呆れ気味の顔を浮かべる老人・季国に、文殊丸は口を開く。

 一方で、文殊丸の横にいた光は、半分泣き目の顔で、季国に歩み寄る。


「季国! 兄上が、兄上がいじめるの!」

「……儂から言わせれば、どちらもどちらと言ったはずですぞ」


 駆け寄ってきた光に、その頭をでてあやしながら、季国は言う。

 その言葉と空気に、文殊丸は髪の下で双眸を細める。そこには、理解と同時に少しばかり不機嫌の色があった。


「そうか。季国、俺と光のこれまでの話を盗み聞きしていたな」

「左様。若と小六が勝手に出て行ったと、咎められたところからですが」

「最初からじゃないか」


 季国からの返答に、文殊丸は思わずといった様子で失笑する。いかにも偶然やって来たというふうよそおって現れながら、こうやって早々と襤褸ぼろを出す辺り、この老人らしい。

 そんな文殊丸の態度に、その心境までも見抜いたわけではないだろうが、季国は少しむっとする。


「若、笑っておられますな! そもそも、儂は若に対して怒っているのですぞ!」

「へぇ。どうして?」

「どうして、じゃございません! また勝手に外へ出ましたね! 前から言っているでしょう! 外へ出る時はせめてお付きの者をつかせるようにと!」

「だから、小六を連れていったじゃないか」

「小六では不十分です! もっと大人の、しっかりとした護衛を連れていってくだされ! そもそも、儂は若の教育係としてですね――」


 光を宥めながら、季国はくどくどと喋り出す。

 その言葉を聞き流しながら、文殊丸は辟易とし始める。こうなると、この老人は面倒くさい。話は回りくどいし同じことを何度も言うしで、なかなか話が終わらずに疲れるのである。

 そんな彼への対処法をどうすべきかと少し考えてから、文殊丸は口を開く。


「季国」

「なんですか? まだ儂の話は終わっておりませんぞ!」

「そもそも、俺が光と言い争っていた、勉学の件はどちらが悪いと思う?」


 話を変える、というより戻すように言われると、季国は黙り込む。が、すぐにその顔には不審の色が浮かび上がる。


「話を逸らそうとしておいでですな、若。そうはいきませんぞ」

「まぁまぁ。仮に外へ出るのに問題がないとしたら、それ以前に本日の件はどう思う?」

「……無論、勉学が遅れていたのは、普段からの『姫君ひめぎみ』の不真面目な姿勢ゆえ――痛ぇっ!」


 渋々と答え始めたところで、季国が悲鳴を上げた。彼は足の付け根・すねの辺りを押さえ、そして軽く飛び跳ねながら悶える。

 その様に文殊丸は噴きだしそうになるのをこらえる一方、季国の眼前では光が目をぎらつかせながら彼を睨んでいた。


「季国! 私のことを『姫君』って呼ぶなって前から言っているでしょう!」


 先ほどまでの涙目とは一転、脛を蹴りつけた光は怒声を浴びせる。大人の男性、しかも老人に暴力を振るった光に、しかし罪悪感はなく、ただただ憤りだけが浮かび上がっていた。

 今の光の一言で察せられるだろうが、彼女は他人から『姫君』と呼ばれるのを嫌う。一応は貴族のはしくれにあたる源家の娘なのだから、その呼び名は適当であるのだが、彼女はそれが大の嫌いなのだ。

 理由は、彼女の口から語られる。


「そうやって、私と兄上を差別しようとして! 言っておくけど、私はこういたり和歌を読んだり、御飯事おままごとして遊ぶような真似はしないからね!」


 そう言って、光は脛を押さえて涙目である老人に対して指先を突きつけた。

 光は、生来女の子遊びがとにかく嫌いだった。女性らしい慣習や作法の習うのに忌避感が働くのか、はたまた兄や小六たちと違う勉強を学んだり学ばせられたりするのが嫌なのかは不明確だが、とにかく彼女はそれ系統の学習を拒否していた。

 そんな彼女に、涙目となったままの老人・季国は恨めしげに視線を向ける。


「べ、別にそんな話を今はしておりませんぞ……」

「いずれするつもりなんでしょ!」

「いや、だから……」

「季国。そういえば、だが――」


 光と季国は、何やら不毛ふもうな言い争いを始めようとする中、何故なぜかその話の腰を折る様に、文殊丸が口を開いた。

 彼が口を開いたことに、光と季国は注目する。


「先ほど空也上人と会って話していたら、やたら上人はお前のような俺周りの人間を褒めていたぞ。お前のような周囲の人間や環境が、俺を善きように成長させているとな。だから……」


 そう言ってから、少し躊躇ためらってのち、文殊丸は言う。


「普段はあまり言えないが、感謝している。光。あまり季国を困らせるなよ」


 急に、助け舟を出すように、また感謝されるような言葉を言われた季国は当然驚く。まさかこんな急に、少し照れ気味ではあるが、感謝されるとは思っていなかったからだ。

 一方で、急にやんわりと咎められた光も驚く。こんな風に穏やかにさとしてくる兄は珍しいからである。


「光。分かったか? 季国も、お前が姫習いを嫌いなことを慮って、今のところは出来る限り俺と同じ習い事をさせてくれているんだから。少しは労われ」

「……でも」

「返事」

「はい……。分かり、ました」


 渋々、ながら光は首肯する。兄の言葉はいつにまして真剣で、真情がこもっていた。それを、いつものように駄々をこねて反発するほど、光は鈍くないし愚かでもなかった。

 そんな兄妹のやりとりの一方で、季国はそろそろ脛の痛みの引いたはずだが、肩を振るわせ始める。その目は、先ほどとは違う意味でうるみだしている。

 彼からすれば、感動するのは当然だ。季国は、すでに分かっている者も多くいようが、文殊丸と光、そして小六の傅役もりやく・教育係である。小六とは親子でもある。季国は、源家に仕えて長年の実績を買われ、文殊丸たちの親から直々にその任を命じられているのだ。その重責と期待は並大抵のものでなく、その事に季国も深い責任と信頼を感じていた。

 そんな人物からすれば、不意にではあるが、教え子であり主の息子である文殊丸から感謝と思いやりの言葉を聞かされて、感動しないわけがない。


「わ、若。そんな風に儂のことを……」

「悪い気はしないだろう? まぁ、そんなわけだから……これからも頼む」

「若……」


 言いながら、立ち上がる文殊丸に、それを見て季国は微笑む。

 見ていて清々しい、とても美しくもある主従関係がそこにはあった。主は臣の忠勤ちゅうきんに感謝し、臣は主の言葉に恩義を感じる――一種いっしゅの理想的なやりとりだった。

 そんな言葉を受けて、季国は穏やかに微笑んだ。

 そして、言う。


「そう言っておいて、儂から逃れる算段さんだんではございませんよね」

「………………」

「………………」

「………………」


 スタスタスタ。

 文殊丸がきびすを返し、縁側を進みだす。

 スタスタスタ。

 そんな文殊丸を、季国は慌てることなく追いかける。

 最初は穏やかな歩行であったが、それはやがて早足に変わり、そして駆け足の逃走と追走へと発展した。


「若―っ! 待ちなされ!」

「ちっ! 上手く誤魔化ごまかせたと思ったのに!」

「そう簡単に儂を出し抜けると思いましたか! そう何度も何度も、同じような手は喰らいませんぞ!」

「なるほど、学習したな、季国!」

伊達だてに教育係は努めておりませんぞー!」


 逃げ出す文殊丸に、季国はそれを追いかけながら声を張る。走る文殊丸は素早く縁側の角で身を切り返して建物のかげへ消えていくが、数秒待たずに季国もそこを同じく切り返して消えていく。両者とも、なかなかに素早く鋭い切り返しだ。

 それを、光と小六は無表情で見据える。


「――まず、自分がはるかに見下みくだされていることに怒ろうよ、父上……」


 小六がそう小さな呟きを漏らすと、その的確な指摘に、耐えられなかった様子で光が噴きだす。そして、消えていった二人のやりとりを思い出したのか、しばらくの間、光はその場で笑い転げるのだった。

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