3.善欲と悪欲
「上人。訊きたいことがあります」
空也の説法が終わった後、文殊丸は空也へと近づき、話しかけていた。すでに多くの人々は帰路に
「ん? なんだね?」
何か用があって話しかけたようだが、という風に顔を向ける相手に、文殊丸は口を開く。今の話を聞いて、どうしても聞いてみたいことがあったのだ。
「欲をなくせば苦しむことはなくなる。欲を無くすことで苦しみから解放されることを上人は
「そうじゃな。それがどうしたのだね?」
「では上人には欲というのがないのですか? 欲がないとしたならば、何故このような場所で説法を行なっているのですか? それは、誰かに自分の教えを聞かせたい、広めたいという欲とは違うのですか?」
文殊丸がそう問うと、それをたまたま周りで聞いていた大人たちは、
一方で、空也も文殊丸の問いに笑い声をあげる。
「はっはっは。実に面白い所に
「おかしい、ですか?」
「いいや。おかしくない。そうじゃな……お前さんの指摘は鋭い。
その言葉に、帰りかけていた幾らかの
一方で、問いを発していた
「欲の塊?」
「そうじゃ。欲を捨てれば、人は多くの苦しみから解放される――それは真理じゃが、儂自身は欲にまみれておる。少しでも多くの人間に教えを広めたい、救済したい、幸せにしたい、笑っていてほしい……そんな欲望を抱えて生きておる。だから悩みもするし、苦しみもする」
「え? 人の役に立ちたいというのも欲望なのですか?」
空也の話を聞き、そう訊ねたのは小六であった。彼も、空也の発言に驚いている。
それに、空也は頷く。
「欲じゃな。自分の思う様に誰かを変えたいと思っているのだから、立派な欲望じゃ。人を
「それが、悪い欲望とは思わないのですが……」
「悪い欲望ではないかもしれない。しかし、欲は欲じゃ。もしかしたら儂の欲は善い欲望なのかもしれんが、欲望であることに変わりはない」
「では、上人も苦しむことがあるのですか?」
興味が
「ある。今も苦しんでおるよ。
淡い笑いを浮かべながら、空也は
そんな周囲の反応を代表してか、小六が、控えめながらに空也へ問う。
「あの……では聖様は、自分にも出来ていないことを他人に勧められたということでしょうか?」
「ん? そうじゃなぁ……」
「小六。それは違う。上人は、俺たちに出来る限りの欲の放棄を勧められたのだ」
空也が微笑みを浮かべながら顎を擦る中で、その答えがなかなか出ないのを見かねて、文殊丸が助け舟を出す。
その言葉に、周囲の視線が集まる中で、文殊丸は注目に焦ることも負けることもなく、はっきりと自分の所感を語りだす。
「上人は自分のことを欲の塊といったが、それでも俺たちより遥かに欲のない人間だ。先の説法であった、
周囲の聴衆たちは難しい顔をして腕を組み、また彼の味方であろう小六も迷うようにしながら、訊ねる。
「えっと……つまり、聖様の欲深いというのは、聖様の
「遥かに少ないことに変わりない、ということだ」
かなり大雑把にまとめる小六に、文殊丸は少し不満げながら頷いた。もう少し意味は深いのだが、周りが分からないのであるならば、大体の意味で
その言葉ならばと、周囲は納得した様子だった。確かに、空也が自分を
そんな話の
「ふふふ。
「いいえ……。事実と思ったから、言ったまでです」
感謝の言葉を送られ、文殊丸はどこかぎこちなく表情を固くしながら首を振る。彼の意識では、空也を
「しかし、上人。無欲で無心になって、人を良き方向に導けることは不可能だと、上人はそうお考えなのですか?」
「うむ、そうじゃな。無心になり人々を正しき方向へ進ませることが出来るのであれば、それに越したことはないじゃろう。だが、それはなかなか難しい。どうしても、そこには人間の意思や欲が
「上人は、
「せーぜんせつ?」
文殊丸が口にした単語に、周りの人間は聞き覚えがなかったからか、
それを見て、小六が周囲に説明する。
「遥か昔の時代、
清らかな水の流れのように分かりやすい説明に、周囲は「へぇ」「なるほど」と納得する。
「ちなみに、その逆説である
「本性が悪である、と言っている訳ではないのが重要なところだな。よく間違えて
ほんの少しだけ苦笑しながら、文殊丸が小六の説明を
そんな二人の解説に、聴衆の庶民たちは感嘆した。貴族の子弟ともなると、ここまで
もっとも、この
それはさておき、文殊丸と小六、聴衆たちは空也に目を戻す。
「それで、上人はどうなのですか? 上人の御考えをお聞かせください」
「む、そうじゃな。儂はというと……人間の生来の性質は
「無垢、ですか?」
空也の回答に、小六は目を丸める。
空也はそれに
「そうじゃ。生まれた頃の人間は、右も左も善悪も知らぬ。しかし、周りの人間や環境によって、善にも悪にも染まる。普通は、周りの人間はその子を善人にしようと教育する訳だから、善に染まりやすいものであるが、時にずる賢い親などやそういう人間の性質によって、悪の行ないも身につけていってしまう。じゃから、性善説も性悪説も、どちらも正しいし、的外れな学説などではなく、多くの人々に支持されてきたのだろうと思う」
空也の言葉に、周囲はほうと息を飲む。文殊丸と小六もまだ同様だ。空也なりの物の考え方、学説の捉え方に、彼らは感嘆してまた納得した。
「欲深くなるのも周り次第じゃ。しかし、人間の頭というのはよく出来ていると思う。そういう我欲があったとしても、自分自身で上手く処理すれば、
そう語ってから、空也は微苦笑を浮かべて頬を掻く。
「とはいえ、儂のような人をよくしたいという善なる欲は、どうしようもないのじゃがな。出来ることといえば、これが妄執となって暴走しないように、適度に
「そういうものですか」
「そういうものじゃ。時に文殊丸。そなたにはせっかくだから覚えておいてほしい」
語りかけながら、空也はふと立ち上がる。
そして、何やら文殊丸に近づくと、少し頭の下にある彼の顔の両頬をその嗄れた両手で包んだ。
「そなたは、よく周囲から鬼子と呼ばれておる。人によってはそれを
その言葉に、文殊丸は目を点にしてから、気持ちやや首を傾げる。
「俺は、自分が善き道を進んでいるとは思っていませんが……」
「進んでいるのじゃ。
「……それは、分かります」
自分が善い方向に成長している、という実感は文殊丸にはない。
しかしながら、周囲の環境に恵まれているのだという実感は彼にはあった。勉学にも
納得する文殊丸に、空也は笑う。
「よろしい。ならば、そのことをよくよく忘れぬ事じゃ。彼らのおかげで、お前は
「――はい!」
空也の言葉に、文殊丸は頷く。
とても晴れやかな気持ちだった。自分の置かれた環境の良さを再確認し、今後も
そんな喜びに
その後、空也は文殊丸や周囲と言葉を交わすと、居所にしている京の東の外れにある寺へと戻っていった。
一方で文殊丸たちは、その腕に抱えていた書物を、借りていたとある学者の者に返しにいってから、空也にも賞賛されて
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます