2.市聖(いちのひじり)

 平安京・東市ひがしいち

 京における庶民たちの物品・商品の取り引き場であるそこは、今日も人々の往来おうらいと活気に満ちていた。基本的に朝廷の奨励しょうれいによって銭貨せんかでの売買であるが、場合によっては物々交換ぶつぶつこうかんも許可されている。

 日々の生活の必需品ひつじゅひん、食料や衣服などを購入する庶民たち、また菓子や娯楽品・書物などの嗜好品しこうひんを買う貴族の子弟していや召し使いなどの間を抜け、文殊丸たちは市場いちばの東へ向かう。

 東市を更に東に進んだ所には、小さなどうがある。文殊丸たちの目的地である場所はそこだ。

 彼らがそこに辿りつくと、すでにその場にはいくらの人だかりが出来てきた。それを見て、文殊丸たちはその人だかりにするすると寄っていく。そして、人々が列をすその群れに近づくと、僅かな間隙かんげきって前へと進んでいった。現代からすれば常識と礼儀に反する行為であるが、この場でそれを指摘する者は不思議といない。中には彼のこの行動を、「またか」といった様子で見慣れた感じで見送る者すらいた。

 そんな感じで文殊丸が列の前へ出ると、堂の中の景色が確認することが出来た。

 柱の上に屋根だけが取りつけられた小さな御堂には、一人の老人が座っていた。近くにはべる男から、白湯さゆを茶碗に受けながら、それを飲んでのどうるおしている。


「すっかり冷え込んできましたが、やはり唱念仏しょうねんぶつの後は喉が渇きますな」


 白湯を入れる男性がそう語りかけると、老人は頷いた。しわの多い、穏やかであり、自然と徳の高さを感じさせる柔和にゅうわな顔立ちと雰囲気を纏っている老体で、小柄なその身には少し襤褸ぼろになりかけの単衣ひとえまとっている。


聖様ひじりさま、何か掛物かけものを持ってきましょうか? 身体からだが冷えて体調を崩しでもなされたら――」

「構わん構わん。この程度の気温であれば、身体はとっくに慣れ親しんでおるよ」


 男の厚意こういを、ひじりとよばれた老人はやんわりと辞退する。その言葉に、男は「そうですか。ならばよろしいのですが」と素直に引き下がった。

 それに微笑みかけ、白湯を飲み干した老人は、周りを見る。一瞬、その際に視線が文殊丸を捉え、笑みが僅かばかり増したように見えた。が、それもすぐに通り過ぎて、老人は周囲を一望いちぼうする。


「では、本日の話を始めさせてもらおうかのう。皆、思い思いの姿勢で聞いてくれてよいぞ?」


 そう老人が言うと、前列の大人などは腰を下ろして地面に座り、後部の人間はあいだを詰めるように近づいてくる。文殊丸などは立ったまま子供が座らないが、それをとがめる大人はいなかった。人の群れは老若男女ろうにゃくなんにょで、少し年輩ねんぱいの者が多い様子だった。


「さて、では。今日は何を話そうか……。そうじゃ、最近人々がよく、生の苦しみを相談に来ることが多いし、人間が生きる上で苦しみから逃れる上でどのような心構えで生きればよいか、を話させてもらうとしよう」


 そう言って、老人は笑う。

 そして始まる説法に、人々は耳を傾けた。



   *



 老人の名は、空也くうやという。

 京の市において、「南無阿弥陀仏なむあみだぶつ」と念仏をとなえてまわりながら説法を説き、人々の悩みに耳を傾けて相談に乗り続けるという徳の高い行ないのゆえから、民衆からは「市聖いちのひじり」様、あるいは「阿弥陀聖あみだひじり」様と呼ばれている。

 その出自しゅつじは分かっていない。一説によれば皇族こうぞくの出とも言われ、それが出家して現在に至るとまでいわれているが、あくまで噂話うわさばなしの一つしかない。本人に聞いてもにごすばかりで、結局彼の生まれがどこで、親が何者で、彼自身が何者なのかは分からずじまいであったという。

 いや、彼自身が非常に徳の高い人物であるのは、その遍歴へんれきと生来の性格から、非常に明確ではある。

 少ない伝承によれば、彼は尾張おわり国分寺こくぶんじで出家し、その時得た法名ほうみょうを名乗り続け、社会事業にひたすら貢献し続ける旅を十年以上続けたという。そしてこれより二十年ほど前に京へ辿りつき、比叡山ひえいざんで修業した後、山へとどまることなく俗世に下りて教えを説くようになったということだ。

 この時代の僧侶が、比叡山や高野山こうやさんといった山の中を中心に宗教や修行に励む「山の信仰」であったのが主流である中で、空也はひたすら山の下に暮らす民衆へ教えを説き続けた。彼は「南無阿弥陀仏」と唱えながらかねをつき、人々を極楽浄土ごくらくじょうどへ導くための教えを布教することに熱心に活動したのである。

 そんな彼を、人々は生き仏、聖者として崇拝し続けた。

 余談よだんながら、逸話いつわにこんな話がある。

 京には当時盗賊が流行し、人々から衣服や持ち物をはぎ取って去っていく被害が頻繁にあった。ある時、そんな盗賊たちが僧侶の一人に狙いをつけ、これを襲おうとした。だがこれが、空也であった。この事を知った盗賊たちは、その徳の高い人間を襲おうとした自分たちを恥じたのか、それとも彼を襲った後の民衆たちからの報復ほうふくを恐れたのか分からないが、空也から何も奪わずに慌てて逃げ去ったという。

 それだけ、空也の知名度は京においては高く、また深く人望を集めていたのだということだ。



 そんな空也の説法を、その名声を知っていた文殊丸もまた、耳を傾けて聴きに来ていたのである。



   *



「お釈迦しゃか様の話はこうじゃ。生きていく上での苦しみから解放される一番の手段は、あらゆる煩悩ぼんのう、つまりは欲望を手放すことなのだ、とな。人間は、生まれながらにあらゆる欲望を持っている。我執がしゅう妄執もうしゅう・物欲・性欲――その他挙げればきりがないほどの欲望をな。これらを、身体から、心から切り離すことが出来れば、あらゆる苦しみからは離れられるというのじゃ」


 持ち上げた右手の指を立て、薄ら微笑みながら空也は言った。その言葉に、皆が興味深そうに耳を立てている。


「人間の欲望は火に例えられる。火は、燃え上がれば燃え上がるほどその勢いを増し、やがてすべてを飲み込んで燃やし尽くす。これと同じように、人間の欲望は増大ぞうだいすればするほど自らを苦しめ、禁を犯す衝動しょうどうへと発展してしまう。それを避けるには、この炎を鎮火ちんかするしかない。あらゆる欲望の火を抑え、燃え上がらぬように制御するのじゃよ」


 掌を下げて、低く低く、抑えるような姿勢を取る空也に、民衆の間からは感嘆の声が漏れる。


「物が欲しい、誰かにいて貰いたい、自らの思うままに動きたい、自分を誇示こじしたい――これらが分かりやすい例となるじゃろう。これらの我欲は、大きくなればなるほど、自らの手を余して暴走し、結果自分は元より他人すらも傷つける結果を生みかねない。これらをどう切り離すか? それは、自分自身でその我欲と向き合い、見つめ合い、自らの手で抑えるようにすればよいのじゃ。欲を満たすことが出来れば気持ちいいのは当然じゃ。しかし満たせなければ、苦しみとなる。苦しみとなるのならば、まず最初からそれを制御して失くせばよい。それにより、苦しみの結果からも逃れられる」


 言って、空也は微笑む。


「苦しみから解放されたい――そう望むのであれば、まずは我欲を抑えることを心がけて欲しい。あらゆる妄執は身体の毒じゃ。それらをはじいて禁欲に向かえる人こそが、苦しみと無縁の生活を行なえるようになる。そして、そのような節制せっせいの中で生きていけた人は、必ずや御釈迦様の導きの下、極楽浄土へ旅立つことが出来るじゃろうからな」


 そのように空也が話を締めくくると、多くの者はそれに感じ入ったように深く頷くのだった。

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