#2
「たっか……」
多分、元の身長なら大した事のない高さなのだろうけど、今の俺には超高層ビル並みの高度に思えた。
「落ちたら死ぬかもしれんな」
「簡単に言うなよ!」
「助けてやったと言うのに、礼の一つも言えんとは……横着な人間がいたもんだ」
「あ、ごめん……ありがとう……感謝してる」
恐ろし過ぎてフイと顔を背ける黒猫の前足にしがみ付いた。
その前足は毛が抜けて少し不揃いに禿げていた。
「お主、このままだと夜になってしまうぞ。家は無いのか?」
「あるけど……こんな体じゃ、何時間かかるか……それに、家族が見たらビックリするよ……」
「だが、このままここにいても蛇の餌食になるのを待っている様なものだぞ?」
眼下を見下した猫は「ほれ」と俺に下を見ろと促す。
恐る恐る下を見て、さっきの蛇がワサワサと土筆を掻き分けて這っているのが分かった。
「お前に興味津々じゃ。丸呑み出来ると思って虎視眈々と言ったところか」
猫に表情があるのかは今まで深く考えた事もなかったけれど、ニヤリとした様な気がした。
「ちょ、マジ勘弁だから!」
「送って行ってやろう。家はどの辺りだ?」
「あの橋の向こうの花屋……」
「おお、あの餌場の隣か」
「餌場? もしかして隣の洋食屋の残飯漁ってんのはお前か!」
「あそこの残飯は旨いもんでな。仲間内でも人気だ」
「お前、名前あんの……? あ、俺は
「名前なぁ……どれが良いだろうなぁ?」
そう言って、猫は遠く群青色に浸食して行く空へと視線を投げた。
勢力を失いつつある橙色は、最後の一絞りと言った刹那的な光で睫毛に零れる。
金色の眸に映るそれは満月に空の色が映った様で、鼈甲色のグラスに青い液体を入れた様な、見た事のない色をしていた。
「そんなにいっぱいあるのかよ?」
「タマ、クロ、ニャンタ、ジョージ、マル、スミ……後は、ハコと言うのもあったな」
「ハコ?」
「害獣を捕まえる仕掛け箱に捕まった事があってな。助けてくれた人間が儂をそう呼んでおった」
「へぇ……傷はもう良いの?」
「古い話だ。甲斐甲斐しくその人間が世話をしてくれたお蔭で、今はもう何ともない。だから儂は、お前たち人間がそう嫌いでは無いよ」
「そっか。じゃあ、俺もお前に名前つけて良い?」
「好きなように呼ぶが良いさ。人はそれを忘れても、儂は儂じゃからな」
「じゃあ、金色! お前のその眸の色は凄く綺麗だし、俺や七色の名前に似てて良いだろ?」
「きんいろ、か。悪くない。覚えておこう」
それからこの身も蓋もない状況に一筋の光を齎したのは、七色の声だった。
金色に頼んで帰りが遅いと俺を探しに来た七色の前に降ろして貰い、鳩が豆鉄砲どころじゃ無くライフル銃でぶち抜かれた様な顔をしていた七色に事情を説明した。
とは言え説明出来る事情なんてさほどなかったのだけれど。
状況が把握出来てないながらも、俺が虹色である、と言う事だけは確信出来たようでその手に掬ってポケットに入れてくれる。
金色に「また来るから!」と約束して土筆野原を後にし、一先ず蛇の恐怖からは回避出来た。
これが昨日の出来事であり、そして冒頭に戻るのである。
「七色、これは由々しき問題だ」
「もぅ、なに……土曜日なのに、まだ朝五時だよ? ふぁああ……」
「寝所を別にしてくれ!」
「倦怠期の夫婦じゃあるまいし、別にベッドの隅でも構わないでしょ? ちっちゃいんだから……」
「ちっちゃ……って、それはそうだけど! 危なっかしくておちおち寝てられないんだよ! 防御壁を要求するぞ!」
「防御壁って……人を悪者みたいに言わないでよ……」
「いやもう、〇型の巨人並みの恐怖だ」
「それ他社だから、編集さんに聞えちゃうから黙って!」
「兎に角、だ。何でも良い、俺を隔離してくれ……お前から俺を守ってくれ!」
「酷い! 普通、彼女に向かってそんな事言う? 大体、小さくなったにぃちゃんが悪いんじゃない!」
「それはそうなんだが、真実はいつも一つだ。現状、こうなってしまった以上事実としてだな……」
「小さくなったからって〇ナン君の真似しないで! IQ400もないでしょ!」
「お前、それも他社だ! 発言には気を付けろ!」
「月に代わってお仕置きするわよ!!」
「それも他社だ!! 良いから、俺の話を聞けええええええ!」
もう一度言うが、今日は土曜。学校は休み。早朝五時である。
二人でいる時はアニヲタ予備軍の七色のお蔭でこんな感じの会話が板についている。
枕の上で仁王立ちした俺は、そう言って七色のパジャマの襟元が肌蹴ている事に気付いて息を飲んだ。
今まで幼馴染と言うポジションからなかなか一歩を踏み出せなかった俺達が、高校受験に受かったら、と言う約束で恋人同士へと進展したのはほんの一ヶ月前。
儀式的にキスは済ませたが、それ以上の関係には未だ進めていない。
と言うより、どうやってその空気を作れば良いのか分からない。
「もぅ……」
渋々起き出して、肌蹴たパジャマを直す事もなくベッドから這い出した七色は、跳ねた髪を掻き混ぜながらベッド下に置いてある空になった靴箱を取り出し、その中にタオルを敷いて「これで良い?」と不貞腐れた顔で振り返った。
「お、おぅ……最高だ。これで安心して眠れる……」
「中、入れる?」
「……」
靴箱の壁は意外にも高かった。
「はい、これで良し」
七色の掌に掬われて箱の中へと入れられた俺は、タオルの心地良さと柔軟剤の香りに一安心させられた。
「蓋、閉めとくね。その方が安全でしょ?」
「あ、ちょ、待て待て。穴! 穴開けて! 真っ暗なのはちょっと……」
「ワガママ!!」
寝ていた所を起こされて機嫌の悪い七色は、勉強机からカッターを取り出してガリガリと蓋に小窓を作る。
「後、昨日……ごめん……」
「何が!? って、ちょっと待って、今それどころじゃない!」
箱からようやく顔が出る程度の俺は、靴箱の壁に手を掛けてその七色の背中を見ていた。女の子の中では背が高い方だと言われていた七色も、今じゃ平均身長。
寄れたパジャマから出る腰には色気よりもまだ幼さを感じてしまうけど、文句を言いながらでも俺がして欲しい事は、こうやって叶えようとしてくれる。
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