第13話

それからというもの、森本は昼夜問わず必死に勉強した。

というより他にやることが無く、通信ビジネスが唯一の暇潰しであったのだ。

刑務所の中で無線wifi電波を捉えるという浅薄なビジネスであったが、一丁前に事業計画を立てたり、凶悪犯罪者相手にタイ語で営業活動を行うなど、四六時中、森本は仕事に没頭した。

刑務所の収容人数は四千人、その内スマートフォンを持つ者は当然ながらゼロである。

森本が事業に成功すれば、バンクワン刑務所としては初の通信事業となり、先駆的存在となる。

森本は、携帯電話やスマートフォン、ノートパソコンの型落ち品を娑婆からかき集め、刑務所近くの飲食店やショッピングモールから漏れる電波をジャックした。

これほど一つの物事に集中したのは何時ぶりだろうか。

森本は、学生時代、特に奏でた才覚もなかったが、人並みに勉学に勤しみ、大学卒業後、技術屋として安徳工機に入社したのは良いものの、エンジニアなど名ばかりで、実態は数値を正当化して保身に走る企業人集団に過ぎなかったのである。

組織に翻弄され、結婚し家族を持った頃には四十代も後半に差し掛かり、出向管理職として遠くインドのハルディアに赴任した挙句、旅行先のバンコクで運悪く未成年買春で捕まってしまった。

家族、両親、同僚とも縁を絶ち、母国の情報すら手に入らない異国の監獄で、森本は盲目的に通信媒体の販売を目論見ていたのだ。

森本は毎日、時間があればブンミーと膝を交わし綿密な打合せを行った。

大企業的な考えの根付いた元技術屋の森本と、社交的で底抜けの明るさを持つブンミー。

異色の同僚を持ちながら、森本はかつて経験した、ビジネスにおける意思疎通の難しさを再び思い出すのであった。

「現在、刑務所内に飛んでいる電波は非常に微弱で、また場所によって電波障害があるから通信が安定しない。とても三千人の受刑者が使える環境じゃないよ」

森本はこの日、珍しく気分を荒げていた。

諸々の調査によると、タイの携帯電話普及率は八十パーセントを超える。これはインフラの整備されていない地方都市を含むため、バンコクに限っていえばもっと高いはずである。

八十パーセントという数値を仮に四千人の受刑者に当てはめると、三千人規模の顧客が見込めると森本はみた。希望的観測ではあるが、首都バンコクの北部という立地を考えれば電波事情は決して悪くなく、森本は大胆な経営目標を設定した。

仏典を読み深ける謎の男を横目に、二人のビジネス談義は段階的に現実味を帯びたが、一方で細かい部分で互いの意識に齟齬が生じ始め、議論が平行線を辿ることも少なくなかった。

「それは困る、既に契約は取り受けてきたし、特に凶悪犯罪者の多いセクション二に関しては、電波不具合で揉めかねない。なんとかしてくれないか」

ブンミーは声を荒げると、訴えかけるような眼で森本を見た。

タイ人は仕事において直接的な衝突を避ける国民性であるが、これは日本人にも共通してみられる性癖だ。

しかし、温和なタイ人と日本人の対話とて、仮にも受刑者同士であり、感情のコントロールが効かず、些細なことで怒りを顕すことも少なくなかった。

「そうは言っても、もともとこの辺に強い電波網がないから、何ともしようがない」

説得する森本に「何とかしてくれないと困る」の一点張りで、ブンミーは一向に引き下がる気配はなかった。

底抜けの明るさでブンミーは交渉力に優れたが、技術的な内容は全て森本に押し付けていた。

限られた時間の中で、営業とエンジニアを分業する考えは至極真っ当であるように思えたが、互いの共通認識が薄いまま事業に走り出し、実現可能性のないまま顧客を獲得するなど、無理な要求が続いた。

「だから先に相談してくれというのだ。この辺の電波の強さだと、賄えて千五百人程度。それを君は、倍の三千人も集めてしまった。刑務所中に貼紙をしたり、人脈を使って客を釣ったのはいいが、電波も追い付かないし、肝心の媒体も、まだ八百台も集まっていない」

「それはヂャンライが三千人の顧客獲得という経営目標を打ち出したからじゃないか、僕はそれに従ったまでだ」

「ビジネスには段階というものがある。初めは五百人位に絞って様子を見ながら、徐々に客を増やしていくのが筋だ」

稟議的な意思決定をしながら実行に移す日本人とは違い、ブンミーは行動力を活かし真っ先に顧客集めに走った。

それは森本に対する技術的信頼に基づくものであったが、大企業勤めの経験のある森本とて万能でなく、三千人分の通信網の開拓には、少なくとも一年以上は要すると見積もっていた。

ブンミーは一通り森本の説得を聞き入れると、一旦、感情を落ち着かせ、漸く議論を折衷する意志をみせ始めた。

「では、まずは媒体集めからしなければならないということか」

「ああ、しかしそれより先に、無線ルーターが手に入らないかな、現在ある八百機の携帯電話でも、通信容量がオーバー気味だ。また鉄筋コンクリート造の建屋では通信障害が起きやすい。ましてここは牢屋だ。遮閉性が高く、場所によって全く電波が入らない場所がある。収容所内に幾つかの無線機を設置し、簡易的な基地局を作る必要があるかも知れない」

森本の説明を漸く理解したブンミーは、一度頭を巡らせると、森本の要求に手を打って応えた。

「よし、分かった。娑婆の知り合いに頼んで、刑務所近くに有線ルーターを設置させよう。そうすれば電波が安定するだろう。その代わり、収益の一部を彼らに譲渡する。また媒体集めを加速させるためにも、娑婆からジャンク品をより多く投入する。つまり社員を増やして会社を拡大させるのだ」

ブンミーの提案に、森本は表情を緩ませ「そいつは名案だ」と握手を交わした。

暫しの間、平行していた議論は、漸くひとつの解を得て落ち着きをみせた。元通り打ち解け合った二人は、その晩、互いの身体を求め合い激しく契りを交わすのであった。

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