第9話

―ハルディアに出向して半年が経ったある日、森本は就業後に前原に呼び出されると、いつもの部長会議室でソファに腰を下ろし、前原と対峙した。

「そろそろ人事考課の時期なのだが―」

安徳工機では半期に一度、上司と業務の振り返りを行う機会があり、そこで査定も言い渡される。

それは出向先のハルディア工場でも変わらず、インドに来てからの半年間の業務や私生活について、この場で省察するのであった。

一年前の今日、ジョーにインド行きを言い渡されたときは腸が煮えくり返る思いすらしたが、今となってはこれ以上に居心地の良い空間はなく、二度と日本に戻りたくないとすら思った。

遠く離れた異国も、住んでしまえば都である。

少し足を伸ばせばコルカタでショッピングもできるし、遠方タイまで毎月出向いて女遊びができる。

まるで独身時代に戻った気分だ。

海外出向は孤独が付き物というが、慣れてしまいえば日本企業のような縦割り組織の煩わしさはないし、女性にも困らない。

今の森本には、欲求を満たす全てのものが揃っていて、このままインドに骨を埋めても良いとすら思っていたのだ。

「単刀直入に言って今の状況をどう思う? 仕事でも、プライベートでも」

前原は早速、森本に現在の状況について問うた。

「ええ、生活にも慣れ、仕事は充実していますし、自分なりに趣味も見つけました。プライベートも充実しております。このままインドで一生を終え、ガンジス河に肉骨を流してしまいたい気分です」

「そうか、それは良かった」

ここに来たばかりの頃は、食事や気候が肌に合わず、事あるごとに腹の調子を崩し、トイレに駆け込む生活が続いた。

工場で糞便を漏らし、それが生産ラインを伝って工場中に行き渡り、インド人もびっくり、三日間ものドカ停を起こしたのは良い思い出である。

森本はそれ以来、皆に「糞便野郎」と罵倒され、肩身の狭い思いをしていたが、徐々に胃腸もインドに慣れ、ちょっとやそっとの細菌には抗体ができた。

「今となっては、腸チフスでも赤痢でもクラミジアでも、何でも来いという気持ちです!」

「それは心強い」

前原は安心して語調を和らげた。

「ところで、ご家族とはちゃんと連絡を取っているのか」

「か、家族ですか」

思い掛けない質問に、森本はギクリと背筋を張らせた。

「ええ、まあ…」

「出向者の中には、独りの生活が居心地良すぎて、家族と連絡を取り合わず、身も心も離れてしまう者も少なくない。特にアジア圏は風俗が発達しているから女性遊びには困らないし、日本人は金を持っているから愛人もできやすい。最近は頻繁にバンコク渡航を繰り返しているようだが、ご家族とも連絡を取れよ」

森本は、そういえば娘が今年、大学受験を控えていることを思い出した。

娘との対話を避けているため、受験期の奮闘は伝わってこないが、そろそろ本格的に入試時期に差し掛かるため、一報を入れるべきか思い悩んだ。

「仕事も落ち着いてきた頃だし、頑張っているようだから、一週間程度であれば日本への帰国を認める。もしくは日本に逆出張というのも企画してやるぞ、日本でご家族と会ってリフレッシュしてはどうだ」

十月も終わりを告げる此の頃、長く続いた雨季が終わり、ハルディアは一年の中で比較的過ごし易い乾季を迎えようとしている。

とはいっても年中通して最高気温が三十度を超えるインドである。

森本の背中には冷たい汗が一筋、落ちた。

「まぁ、前談はそれくらいにしておこうか―」

家族の話をされ、森本にとってバツの悪い時間が流れたが、気持ちを切り替えて、仕事の話に及んだ。

前原は業績評価シートを取り出すと、一つ一つ赤色ペンで印をつけながら、今期の振り返りと、残り半期の業務棚卸をはじめた。

評価は客観的な数値をもとに淡々と行われた。

森本は、まるで医師の診察を受けるような緊張感を味わいながら、全ての項目に丸が付けられるのを待った。

「森本に関していえば、業務態度も真面目だし、技術員の先頭に立って、しっかりと統率を取ってくれている。罰の付けようがない。しかし気は抜くなよ、引き続きこの調子で邁進してくれ」

「ありがとうございます」

予想以上の高評価に、森本はほっと胸を撫で下ろした。

外国生活の長い前原は、日本人上司にありがちな威圧的な態度を見せることもなく、至極、理路整然と業績評価を終えると、そうこうしている内に一時間近くが経過した。

「さて、人事考課はこれにて終了、俺からは以上だが、何か質問はあるかね」

「いえ、私も評価に満足していますし、引き続きここで頑張ります」

「ほう、ここで頑張るか…」

前原は何やら含みのある表情を見せると、一瞬、逡巡したあとに言った。

「実はだな、君の出向期間が縮まるかも知れん」

「え?」

思い掛けない言葉に、森本は驚き様に云った。

「実は円安の影響で、国内生産比率を増やす方針だ。その煽りを受けて、ここハルディアも稼働を落し、代わりに岐阜工場での生産を増やす計画がある。城山人事部長も、君が戻ってくるのを切望しているらしい。君にとって良いニュースだと思ったが、どうだろうか?」

「そ、そんな―」

前原は、きっと森本が肯定的な答えを出すだろうと予測して言った。

しかし、森本の本意は違った。

絶対に日本になど帰るものか。こんな楽園のような生活、誰が手放すものか。

森本は、浅見という存在を前に、これ以上、会社に媚び売って日銭を稼ぐやり方に嫌悪し、仕事も家族も、如何なるストレスも捨て、今後の人生は自分本位で歩んでいきたいとすら思い始めていたのだ。

会社の言い成りで異国に飛ばされ、孤独な出向者だった森本は徐々に独身生活に喜びを見出し、いつしかこのままガンジス河に血骨を埋めたいと、本気でそう考えたのであった。

漸く自分の居場所を掴み、生活にも慣れてきたところで、再び日本に戻れなど烏滸がましい、会社都合もいいところだ。

森本は無言で表情を強張らせると、前原もそれを察したのか、それ以上は突っ込んだ質問はしなかった。

人事は基本的に三年でローテーション、それはジョーが仕切りに強調していた言葉であるが、例外がない訳ではない。そしてその例外とは、会社側の都合で一方的に言い渡されるのである。

「すまないが、景気と会社の判断には勝てんのだ。背に腹は代えられない。まだ決定事項ではないが、可能性として、頭の隅に留めておいてくれないか」

前原はそう云うと再びデスクに戻り、忙しなくパソコンに向き合い仕事に打ち込み始めた。

ひとり取り残された森本は、この自由気ままな生活を何とか続けられないものかと願う一方、再び雁字搦めの日本企業に戻される日が来るのかと、言い様もない不安の中、ひとり寮に戻るのであった。

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