第7話

ラマダーン休暇前の金曜日、この日は仕事を早めに切り上げて寮に戻った森本は、国内出張用の小さなキャリーバッグに荷物を詰め込むと、翌早朝のフライトに備えてビールも飲まずに床についた。

七月。

インドもタイも暑さのピークを越えたものの、最高気温が三十度を超える日が珍しくなく、森本はTシャツと薄手のジーンズ、下着が二日分と、極めて軽装で準備していた。

ホテルは事前に繁華街近くの一泊千五百バーツのビジネスホテルを予約したが、キャンセル料は掛らないため、急遽別のラブホテルに変更しても構わない。この日のために念入りに下調べをし、森本は興奮してモッコリと股間を膨らましたまま目を瞑った。


―今宵、森本はある夢を見た。家族の夢であった。

まだ幼い娘と、妻の三人でテーマパークに行き、アトラクションに乗ったり、パレードを見たりして、日が暮れるまで一日中遊んだのである。

園内には娘と同じような年頃の子供を連れた家族が多くおり、皆、魔法をかけられたように楽しく燥いでいた。

そして娘も同様に、普段は見せないような弾けんばかりの笑顔を森本に見せ、喜びや感動を享受していたのである。

楽しい時間はあっという間に過ぎる。

すっかりと辺りも暗くなり、夜のパレードの終焉とともに花火が鳴り響くと、時刻は夜八時、そろそろ帰る頃合となった。

魔法は解け、三人は車に乗り込むと、自宅アパートまで戻るのであった。

運転席には森本、助手席に妻、そして後部座席には大きなぬいぐるみに囲まれた娘が、遊び疲れたのか、幸せそうに眠っていた。

バックミラーに映る娘の顔は嬉々としていて、森本もまた、夜闇の中を幸せな気分で運転するのであった。

車は湾岸線をひた走る。夜も遅いため交通量も少なく、自宅のある横浜まではすぐに到着しそうだ。

カーラジオからは懐かしいメロディが流れ、夫婦の会話も花が咲き、素朴な幸せを感じていた。

そのまま湾岸線を走り続けること三十分、ベイブリッジに差し掛かり右手に横浜港の夜景が見え始めた頃、突如、後部座席で娘の声がしたのに気が付いた。

「私も、弟か妹が欲しいよ」

思いがけない言葉に、森本は一瞬、背筋をビクつかせた。

「おや、起きていたのかい」

森本は再度、バックミラー越しに娘の顔を覗き込んだ。

そこには、先ほどとは打って変わって、虚ろな表情を浮かべる娘があったのだ。

弟か妹が欲しい。

娘の本音を聞き、森本は思った。

テーマパークには、兄弟で燥ぎ回ったり、時には喧嘩をしたり、仲睦まじそうにする子供の姿が目立った。思えば、一人っ子の方が少なく、皆二人、三人と、兄弟がいたのである。

森本も、本音を言えば子供は二人が良いと思ったが、経済的に厳しく、最初の子供が生まれた後に、もうひとりは無理だと感じた。

幼い頃はよいものの、高校、大学と進学すると、年間百万円単位の教育費が飛ぶ。これが二人となると、サラリーマンの懐事情ではとても賄えない。ひとりが限界だと、森本はそう感じたのだ。

娘の本音を聞いた森本は、心臓が締め付けられる思いでハンドルを握り続けた。そして妻も、そんな森本の横顔を見て、恨めしそうな顔をしているのではないかと、振り返ることすら憚れたのだ。

「兄弟ができたら、何がしたいの?」

森本の心配を他所に妻が聞くと、先ほどまで疲れて寝ていたのが嘘のように、娘は元気に応えた。

「野球チームを作りたい」

予想もしない返事に、それまで神妙な顔つきだった森本も、つい顔が綻んでしまった。

「あはは、そしたら沢山兄弟が必要だね、ママもパパも頑張らなくちゃな」

そうこうしている内に車はベイブリッジを渡り切り、横浜市内へと入っていった。

自宅まで、あと少し。

森本は、笑ってその場は済ませたが、その胸中には大きなシコリが残り続けるのであった―。


朝起きると森本の背中は汗でびっしょりと濡れていた。

どうやら窓を開けっ放しで寝てしまったようで、エアコンの冷気が外に逃げ、室内は三十度近くに蒸し上がっていた。

しかし、妙な夢を見たものである。日本から遠く離れたハルディアで、まさか若かりし家族の夢を見るとは。

時計を見ると、時刻は早朝五時とある。

森本は、気持ちを切り替えるようにシャワーを浴びると、夢のことなどすっかり忘れて、身支度を整えコルカタ行きのバスに乗り込んだ―。


ネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港からスワンナプーム国際空港までは直行便が出ており、片道二時間四十分と、国内旅行感覚で渡航することが出来る。また日本からコルカタに来るときもスワンナプームでトランジットするため、ハルディア駐在員にとってバンコクは馴染みが深く、日々の喧騒を忘れる憩いの地になっていた。

駐在員とて一人の男性であり、特に独身男性は、唯でさえ女性の少ない製造現場で色恋に飢えており、マイレージを利用して毎月のようにバンコクに遊びに行くのが通例だ。

ハルディアは女性にはからきし人気がなく、四十人いる日本人駐在員は全員男性であった。女性の社会進出といえど、ハルディアのような過酷な地域に積極的に進出する女性社員は存在せず、臭い飯を食うのは結局、男性社員の役目となるのだ。

バンコクに到着すると、森本は南国らしい湿った空気を肌に感じながら、他の旅行者と同様に入国管理の列に向かった。

「バンコクへはどういった目的だ」

イミグレーションで森本は、強面の入国審査官と対峙すると、顔を顰めて云った。

「prostitute(買春だ)」

審査官は驚き様に目を白黒させると、再び森本を見て云った。

「OK, Good Luck」

森本はラゲージクレームで荷物を受け取ると、颯爽とバンコクの街へと繰り出すのであった。


森本にとってバンコクは初めての来訪でない。寧ろタイ現地法人には何度も渡航経験があり、馴染みの深い場所でもあった。

バンコク中心部から車で一時間、チョンブリ県にあるアマタ・ナコーン工業団地は二千四百ヘクタールの広大な土地を有し、日系企業を含め多くの製造業が林立している。

同工業団地は日本の総合商社が敷設に携わっており、敷地内にはコンドミニアムや日本食レストランは勿論、病院、ゴルフ場、銀行、郵便局など至れり尽くせりの環境が整備されていた。

さらに歓楽街であるパタヤとも近く、駐在員にとってタイは圧倒的な人気を誇り、「一度タイに出向すると最後、骨を埋めるまで帰れない、帰りたくない」と形容されるほどであった。

そんな夢の国タイに辿り着いた森本は、この日、空港である男と待ち合わせをしていた。

「サワディーカップ、ようこそ地上の楽園へ」

アロハシャツに麻製の半ズボン、ビーチサンダル、サングラスというあまりにも胡散臭い恰好で現れたのは、かつて森本の同僚であった浅見次郎である。

森本は、浅見の奇怪な風貌を見るや否や、

「いやぁ、相変わらず胡散臭い恰好をしているね」

と握手を求めた。

浅見も、懐古するように微笑んだ。

浅見は、森本と同期入社の技術員であったが、出張で訪れたタイに魅了され、タイ好きが高じてそのままタイ支社に出向したあと、同社を一度退社し、永住権を得、タイ現地法人に再就職したのだ。

出向者扱いと異なり、本籍がタイ支社のため、日本に帰国させられる恐れもない。それこそが浅見がタイ支社に再就職した所以である。しかし、その後何年かして浅見が安徳工機を辞めたという噂が流れ、その後の消息は分かっていなかったが、今回のタイ旅行にあたって森本がSNSのメールアドレスから接触を試みると、快く浅見から返事があった。

世界の風俗王に俺はなる、と云ったまま颯爽と姿を消した浅見。

森本は思い切って近況を伺うと、思いも寄らぬ答えが返って来た。

「今は自ら事業を興して、タイで化粧品会社を経営しているよ」

「経営?」

森本は頓狂な反応をみせた。

「事業とはいったい?」

森本が問うと、

「サトウキビを煮沸して抽出した汁を、高級美容液と偽って五百ミリリットル六千円で販売している」

と悪びれる様子もなく浅見は言った。

もともと日本にいたときも、どうしようもない不出来な社員で、エンジニア職を放出された後は、正社員比率の少ない斜陽部署である梱包課に飛ばされていた。

「実は当時の伝手があって、タイの梱包資材メーカーに美容液のボトルデザインを手伝ってもらった。高級感あるデザインの効果もあって、中身は単なる砂糖水が富裕層に大ウケ、思いの外売れている」

浅見によると、特に中国人の富裕層からは爆買の恩恵を受けているオーガニック化粧水は、主に東南アジア地域の高級デパートで販売されており、今となっては経常利益四割を越える超優良企業に成長したとのことだ。

原価五十円の砂糖水を六千円で販売しているのだというから、身形がいいのも頷ける。浅見の腕には豪奢と光るオーディマ・ピゲが垣間見えた。

タイ支社時代も浅見は「性病のデパート」、「バンコクの風俗マスター」などと様々な異名で呼ばれていたが、すけこまし精神は現在も変わらず、サラリーマン収入の十倍近くを荒稼ぎし、バンコクに拠点を構えながら、世界中の風俗街を回遊しているという。

「とりあえず、まだ時間が早いから作戦会議としよう」

二人は空港近くのカフェに立ち寄ると、風俗雑誌を捲りつつ、三日間の道程を練るのであった。

スワンナプーム国際空港は開港から十年に満たない新興の国際空港であり、ドイツ人建築家の設計した斬新な構造は、まるでここが近未来都市であることを連想させた。バンコク中心部から程近く、東南アジアを代表する国際ターミナルとなっている。

「ところで、君がタイ人になってどれくらいが経つんだ」

「かれこれ、六年になるね」

「そうか、もう六年も経つか―」

六年前といえば、浅見が、在籍していた梱包課から、突如、タイ支社に移った頃である。

社内では、浅見は気が狂ったのか、将又、タイで女でも作ったのかなどと様々な憶測がされたのが記憶に新しい。

当時、四十代前半だった森本は、まだ体も自由が利き、エンジニア職の一線で新商品の開発に勤しんでいた。

「タイは日本と違ってストレスもなく、物価も安いし、女の子も可愛いし、この上ないよ」

浅見は、両腕を広げて大口を叩いた。

浅見の云うように、場所によって多少の差異はあるが、タイの物価は日本の三分の一程度。首都バンコクでさえも、食事、宿泊、夜遊び、ショッピングが日本の半額以下で楽しめる。

日系企業に勤めながら出向手当を貰うとなると、相当に豪華絢爛とした生活が送れるのである。

浅見は年甲斐もなくトロピカルマンゴージュースを頼むと、上にパイナップルが乗った大きなグラスが運ばれてきた。

対する森本は、眠気を覚ますため、コーヒーを啜った。

「しかし、君が風俗狂いとは珍しいね、真面目で堅物で鳴らしていたじゃないか」

浅見は物珍しそうな目をして云った。

「ハルディアに拘留されると、嫌でも人肌が恋しくなるもんだ」

「ほう、ちなみに拘留生活はどれほどになるんだ?」

「まだ三ヶ月だが、体重も十キロ近く落ちたし、一気に老け込んだ」

膨よかだった森本の体型は、下痢でゲッソリと落ち、とても不健康そうに映った。偶のリフレッシュが必要であると、森本自身が最も自覚していたのである。

「さて雑談もこれくらいにして、今日からの旅行計画だけど、僕の方で王道の案を考えた」

そう云うと浅見は、随分と使い込まれた風俗案内雑誌を開き、指を差した。

「タイの風俗は、日本と違ってバラエティ豊かだ。規制も少ないため、相当に楽しめると思うよ」

「そのようだね。僕もインターネットで調べたし、前原部長や、城山人事部長にも助言をもらった」

風俗など無縁の森本であったが、曲りなりにも下調べをし、最低限の知識は付けたつもりである。

しかし、初めての風俗、特に海外ともなると、浅見のような指南役を要すると、森本は考えたのだった。

「タイの歓楽街には、ゴーゴーバー、ビアバー、テーメー喫茶、カラオケ、マッサージパーラーなどがある」

浅見は、まるで仕事中のように真剣な眼をしながら、自慢の蘊蓄を披露し始めた。

「ゴーゴーバーはお酒を飲みながら気に入った女の子を連れ出すシステム。ビアバーもほぼ同様だが、より素人臭が強い。テーメー喫茶は、別名、出逢い喫茶とも呼ばれ日本人に有名だが、相手は素人のためサービスはピンキリで、交渉力も必要となる。カラオケは、日本でいうキャバクラと一緒、そしてマッサージパーラーは日本のソープランドにあたる」

浅見は慣れた様子でバンコクの地図を広げると、赤丸印の付いた場所を指差して云った。

「バンコクには幾つかの歓楽街があって、有名なのはソイ・カウボーイ、ナナプラザ、パッポン、タニヤなど。パタヤにも大規模なゴーゴーバー街があるし、アユタヤーやチェンライにも優良店がある。いずれにしても日本の歓楽街よりは遥かに賑やかで、そこら中、ネオンライトが光り輝いている、男の楽園だ。しかしこれらはあくまで代表例に過ぎず、主に外国人をターゲットにした新種の業態が次々と生まれている。タイは性産業が最も進化した国だといえる」

「そうか、ありがとう、勉強になるよ、今から夜が待ち遠しいな」

森本は信頼できる師を前に股間をパンパンに腫らせて云った。

森本自身も、来泰一ヶ月前から、出勤前、昼休み、帰宅後、そして休日は丸一日、穴が開くほどの勢いで風俗誌を読み耽け、知識を積んでいた。

さらには「あなたは何歳ですか」、「本番は幾らですか」、「避妊具は持参しています」…等、この日の為にタイ語を勉強し、森本が書き連ねた大学ノートは十冊にも上る。

それだけに、今宵は絶対に失敗することは許されず、森本は全身全霊をこの日の夜に注ぐ気概でいた。

血眼にして真剣にメモする森本を前に、浅見はある助言をしたのである。

「最後にひとつだけ、タイの風俗で絶対に気を付けなければいけないことがあるんだが、何だと思う?」

浅見の問い掛けに対し、森本は逡巡したが、答えは浮かばなかった。

「何だい、全く検討がつかない」

森本が回答に倦ねていると、浅見は身を乗り出してこう云った。

「レディボーイには気を付けろ」

「レディボーイ?」

森本が大きな声を上げると、周囲のタイ人が怪訝な顔をして一斉に森本を見つめた。

「おい、大きな声を出すなよ」

「す、すまない…」

「いいか、タイには十八種類の性別が存在する。身形が女でも中身が男もいれば、外見が男性で男性を愛する女性もいる」

森本は、浅見の説明する言葉の意味を理解しようと努めたが、一向に頭が付いていかなかった。

「つまりは、タイは世界一、性的多様性が認められた国なのだ。タイのレディボーイは実によく出来ていて、外見からでは全く見分けが付かない。日本のおカマのように筋張った体付きをしていないもんだから、本当にパンツを脱がすまでは分からないのだよ。タイは世界で最も性転換技術の発達した国でもあるのだ」

「まさか…、僕は男には皆目、興味がないからね」

「そう言う奴が一番危ないんだ。タイのレディボーイは本物の女性よりも女性らしいから、ウカウカしていると騙されるよ。しかも彼らは性欲が人一倍強く、相当な巨根だから、うっかり尻を掘られるなよ」

そう云って浅見はマンゴージュースを飲み干すと、まだ昼前ということもあり、森本にある提案をした。

「まだ時間が早いから、バンコク市内で適当に観光がてら時間を潰して、夕方まで待とう。ショッピングには興味あるかい?」

「ショッピングか…」

ショッピングと聞いて森本が難色を示すと、すかさず浅見は苦言を呈した。

「君はチビでハゲだから、ファッションなど皆目、興味がないようだね、分かった、サイアム・スクエアとカオサン・ロードは外そう。代わりに寺院巡りでもしようか―」


二人は空港からMRTに乗り込み、フアランポーン駅を下車してトゥクトゥクに乗り、タイで最も由緒ある寺院である「ワット・プラケオ」に向かった。

ワット・プラケオのあるプラナコーン区はバンコクの行政区で、バンコクの中心部にあたる。

寺院には外国人観光客が多く集まり、日本の皇居にあたる本国の要地へと二人は足を踏み入れたのだ。

「ワット・プラケオは、数あるタイの寺院の中でも最も由緒高く、プラケオ、つまりエメラルド仏が祀られている。エメラルドというが、本当は翡翠製だけどね」

タイ生活の長い浅見は、風俗だけでなくバンコクの事情にも滅法詳しかった。浅見は、昼の観光ガイドも担うなど、至れり尽くせりの対応をしたのである。

道路に面した白亜の壁を横目で眺めながら門に入ると、すぐに服装検査の看板が現れた。

観光地としても有名なワット・プラケオであるが、本来は聖地であるため、不適切な格好では入門が許されない。

半ズボンにビーチサンダルというラフな出で立ちの浅見は、入門するや否や、何やらタイ語で検査員に指図されていた。

「タイの寺院では肌の露出が禁止されているんだ。ミニスカート、キャミソールはもちろん、半ズボンは禁止。僕も長ズボンに着替えてくるから、少し待っていてくれるかね」

そう言って浅見は五分程、森本を待たせると、まるで囚人服のような白装束を着て戻ってきた。

「お待たせ!」

「なんだ、その薄気味悪い恰好は」

レンタル用のタイパンツを着た浅見の下半身は、下着が透けて見えていた。

「他人のファッションを言えたものか、尻が透けているじゃないか。気色悪い」

「そうかな、これはこれで涼しくていいよ」

「君と一緒にいたらゲイだと疑われてしまうよ、中年の親父の尻など見たくない」

森本は突き放すように言った。

「まぁ、細かいことは気にするな、それよりチケットを買おう、一人五百バーツだよ」

口論しながら浅見は森本から五百バーツ硬貨を奪い取ると、チケットを一枚購入し、森本に手渡した。

「君は買わないのかい?」

一枚しかチケットを買わなかった浅見を不思議に思い森本が問うと「タイ人は無料なんだ」と浅見。

浅見はタイ国籍を取得し、身も心もすっかりとタイ人になっていた。

結局、森本だけが入場チケットを購入し、受付で日本語訳のパンフレットを受け取ると、二人は回廊へと向かった。

「こりゃあ、初っ端から凄いものを見せられるね」

目の前に広がる光景の壮大さに、森本は感嘆の声を上げた。

回廊内部には東南アジアを代表する古典「ラーマーヤナ―」の世界を再現した壮大な壁画が施されていたのである。

ラーマーヤナは、ラーマ王子が、誘拐された妃シーターをめぐりトッサカーンと戦う有名な神話である。ラーマ王子の右腕である猿の化身ハヌマーンは特に人気があり、タイでは英雄的存在となっている。

森本は、壁一面に描かれた「回廊の絵」に終始圧倒されると、二人は一旦外に出て、暫し園内を散策するのであった。

「あちらの金色の塔も豪華だね」

続いて森本が指をさす先には、金色に輝く塔があった。

バンコクを代表する寺院に相応しい豪華絢爛とした佇まいである。

「あれはラーマ四世が建てた仏塔だよ。アユタヤーのワット・プラシーサンペットを真似て建てたものだ。右手に見えるのがプラモンドップ、そしてそのさらに横にアンコールワットの模型があるよね、タイ人はクメール文化の影響を強く受けているのだ」

シャム王国がクメールを支配していた頃、ラーマ四世がアンコールワットを訪れた際、その壮健な佇まいに感動して本物そっくりの模型の建設を命じたとされているが、森本はそういった歴史のひとつひとつをパズルのように解きながら、タイという国の成立に心頭していくのであった。

「さて、ここからいよいよ本堂に入るけど、ここは神聖な場所だから、靴を脱いで、サングラスや装飾品も外す必要がある。君はサングラスをかけると、本当に紅の豚に似ているから、仏陀に笑われないようにね」

森本はムッとしながらも、豚のヒヅメのような太い指でグラスを外し、そっとケースにしまった。

入口で靴を脱ぎ豪奢とした金色の本堂に入ると、荘厳な雰囲気に圧倒されながら、目当てのエメラルド仏(プラ・ケーオ)が安置される堂に辿り着いた。

浅見はここでも得意の蘊蓄を披露するのであった。

「あれが有名なエメラルド仏である。タイ北部チェンライで一四三七年に発見され、その後ランパーン、チェンマイと移され、ラオスにも何年か置かれていたことがある。十八世紀後半にトンブリーに遷都したタクシン王によってバンコクに持ち込まれ、エメラルド仏を安置するため、ここの本堂が建てられたというわけだ。年に三回、王族がエメラルド像の衣替えをするが、全国ニュースにもなるほど国民的な行事だよ」

「なるほど、しかし意外に小ぢんまりとしているな、まさかこれがタイ全土の信仰の対象となっているとは、想像もつかないな…」

森本は、僅か六十六センチ高の小さな像が、タイ王国のみならず、上座部仏教の巡礼の対象であることに感動を覚え、人間と宗教の歴史的な関係性を実感したのであった。

「やはり僕はショッピングモールより、こういった由緒ある歴史的建造物を見ている方が性に合っている」

その後、二人は、王宮、アマリンタラウィニチャイ・ホール、チャックリーマハープラサート宮殿、ドゥシットマハープラサート宮殿と順々に巡り、タイ王国最大の勘所を堪能したのであった。

満足気に観光を続ける森本に対し、浅見はどこかツマらなそうに仏頂面を貫いた。

「森本は真面目だね。俺なんて昼間からマッサージパーラーに行くほどの風呂好きだから、君みたいな堅物なハゲチビとは一緒に暮らせないね」

二人はワット・プラケオを出ると、「少し歩き疲れたな、そこいらで休もうか」と、王宮のすぐ近く、チャオプラヤー川沿いにある喫茶店へと入った。

川辺一体は官公庁などが林立する要所であるが、周囲にはトゥクトゥクや、野菜や果物を販売する露商、半袖姿で燥ぎ回る学生、日系のコンビニエンスストアなど、まさにタイの街中らしい風景が広がっている。

二人は窓辺の席に腰を掛けると、茶色く濁ったチャオプラヤー川を横目に眺めながら、全身でタイの日差しを満喫した。


「―ほう、君もジョーに飛ばされたのか」

城山丈一郎、人呼んで人事部のジョーは、その傍若無人な人様と豪胆な人事手腕で、社内でも一目置かれる存在である。

浅見が技術部から梱包課へ飛ばされたのも、「サラリーマンたる、会社に忠誠を尽くせ」という社訓を守らなかった浅見に対する懲罰人事であった。

ジョーの一存により、浅見のような士気の低い社員を製造企業の中枢であるエンジニア職に置いておくわけにはいかず、岐阜本社から遠方、名古屋港にある港湾事務所へと浅見は籍を移したのである。

「名古屋は悪くなかったが、なにしろ正社員比率が低く、港湾業や倉庫業など、ほとんどが下請企業で回っていた。もともと自分は紛い物だと思っていたけど、いざ梱包課に飛ばされてみると、ああ、自分は会社に必要とされていない人物なんだ、としみじみ感じた」

梱包課の仕事は資材選定や品質管理に限られ、浅見の他には、ほとんど顔を出さない兼任課長が一人と、嘱託社員が数人いるだけであった。

そこは通称「追い出し部屋」とも呼ばれ、厄介者ばかりが集まる斜陽部署であったのだ。

「誰も仕事を教えてくれる人がいなくてねぇ、エンジニアをやっている頃に比べ、陰鬱な気持ちになったものよ。どうせ仕事もないもんだから、徐々に気持ちは会社から離れて、四六時中、如何に独立するかばかり考えていた」

チャオプラヤー川には無数の小舟が漂流しており、それらが地元住民の足となっていることを思うと、この川とタイの文化は切っても切り離せないものと感じた。時折、洪水に悩まされるが、それもまたこの国の川辺文化を象徴するのだ。

森本は空きっ腹にドラゴンフルーツを入れると、コーヒーで流し込み、旅の疲れを慰労した。

「ところで、君はなぜサトウキビ汁の販売など行っているんだ」

久方ぶりに顔を合わせた同僚に対し、森本はより具に近況を伺いたくなった。

先ほど空港の喫茶店で聞いた「サトウキビ会社設立の経緯」は如何なるものであったのか。森本の好奇心をそそった。

浅見は、静々と流れるチャオプラヤー川を横目で見ながら、悟るような口調で次のように語り始めた。

「正直、独立できれば何でも良かったのだ。最初は単純に会社が嫌で転職しようなどと考えていたが、どうせ転職しても境遇は変わらんと思った。狭い日本、どこに行ってもサラリーマン気質には変わりない。使えない部下や、気の効かない上司はどこにでもいる。給与が増える訳でもない。皆、自分が一番可愛いから、責任を逃れ、保身に走る。下らない組織の因習に翻弄されるくらいならば、一念発起しようと考えたのだが、一方で起業の糧がないのも事実であった。一人で金融業を興すにも、流行のインターネット事業をやるにも、経験も知識もないため当たりが付かず、更にこの年から勉強する気にもなれない。そんなとき、偶々、目にしたのがタイのサトウキビ畑であった」

タイはサトウキビの収穫が世界第五位と、農業が有名な同国においても最も注力している農産物の一つである。

浅見はサトウキビとの運命的な出逢いを、昔を懐古しながら事細かに説明した。

「タイに転籍となった後、サトウキビ農業を営む現地人の同僚がいて、そこでサトウキビは食用だけでなく、燃料、酒類原料としても活用されることを知ったのだ。しかし食用としてのサトウキビは利幅が薄く、一方で燃料や酒類に変様させるには高度な蒸留技術や設備投資が必要なため、個人事業主には敷居が高い。そこで試験的に、単なる砂糖汁を栄養価の高いオーガニックエキスと偽って販売しようと思い付いたのだ。所謂、オーガニック、無添加ブームに乗った形になる。農薬肥料を使った大量生産時代は終焉し、今後は高くても安心できる食品が売れると踏んだ。そこで俺は同僚を口説き、試しに空港やデパートで販売したところ、特に日本や中国の富裕層の間で面白いように売れた。顧客の多くは内容物の知識もなく、小奇麗なパッケージデザインに惹かれ商品を購入しているのだと知った。そこで俺は、当時伝手のあった資材メーカーに依頼し、ボトルのデザインを試作してもらい、原価の百倍で販売してみたところ、高級嗜好品と勘違いした富裕層がわなわなと飛び付いたのだった。人間の印象など愚かなもので、高級なパッケージを見ただけで莫迦のように客が飛び付くことを知った」

浅見の販売するサトウキビオーガニックエキスは、いまやバンコクのデパートで見ない日がないほど、飛ぶように売れている。親日家の多いタイでは、ジャパンブランドというだけでも一定の支持を受けるのだ。

「それからというもの、ちっぽけな工機会社で日銭を稼いでいるのがバカバカしくなり、胡散臭いサトウキビ会社を設立するに至ったのだ」

安徳工機の査定は評価主義でない。

浅見の言うとおり、真面目に仕事をしていても給与が大幅に増える訳でもなく、出世が確約される訳でもない。

個人事業で当てれば、利益の大部分が自分の懐に入るし、意思決定の自由も効く。

一度、味をしめた浅見に、一般企業で働く煩わしさを経験することなど二度と出来ないと思われたのだ。


小休止を挟んだ二人は、小船に乗ってチャオプラヤー川の対岸にあるワット・アルンへと向かった。

仏教徒が国民全体の九割を超えるタイにおいて、ヒンドゥー教寺院であるワット・アルンは、また違った趣を伴っていた。

ターティアン船着場からアルンまでは三バーツ、時間にしてわずか五分程で到着する。

緩やかなチャオプラヤー川の水音を背後に、高々と天に突き刺さる高塔こそが、かの有名なワット・アルンである。

「さきほど見たエメラルド仏も、過去にワット・アルンに安置されていた時代もあるんだ。戦将タクシンがラオス侵略時にタイに持ち帰り、一時ここに置いたのだ」

相変わらず能書きの多い浅見は、疲労で足並の遅れがちな森本を置いて、軽快に仏塔の石段へと登っていった。

「ワット・アルンといえば五基の仏塔、最も高い大仏塔で七十五メートルもある、上まで登ることも出来るから、森本も行こう」

「ええ、上まで登るのか…」

森本の疲労は、早朝のフライトと、広大なワット・プラケオの散策で既に限界にきたしており、急勾配な階段を目の前に、思わず尻込みしてしまったのだった。

「何をモタモタしているのだ。せっかくタイまで来たのに、大仏塔に登らないなんて愚かだぞ」

浅見に鼓舞されるように、森本は悲鳴を上げる足腰に気合を入れると、一段一段と重たい下半身を引き摺るように頂上まで向かった。

思えば四十代になって以降、まともに運動などした経験もなく、周囲にチビでハゲでデブと揶揄されながら、自らの健康など真面目に考えたこともなかったのだ。

腹回りに溜まった醜い脂肪の塊が行く手を阻み、森本は息を上げながらもなんとか頂上に辿り着いた。

「ハア、ハア、悪いな…」

森本は、肩で呼吸しながら言った。

対する浅見は、森本と同い年でありながら健康的に日に焼けた肌とスラリとした体格で、とても中年であることを感じさせずにいた。

この年まで結婚もせず、また安徳工機という古い仕来りの残る会社を辞め、今は悠々自適とタイでの楽園生活を享受している浅見の表情は屈託がなく、恍惚と光を放ち続ける。

四六時中、仕事の犬となって深夜まで働き、中間管理職として部下と上司の狭間に立ちながら、一方で購入したばかりのマンションと家族を手放し、遠くインドの奥地で娯楽のない生活をする森本にとって、社長という立場で時間の制約もなく生活する浅見の存在が羨ましく思えた。

働いている時間は浅見の方が圧倒的に少ないが、収入は遥かに多い。

週に三度か四度、バンコクの本社オフィスに顔を出し、事務仕事は秘書に任せ、浅見の仕事は監査と接待対応のみに限られた。

余暇は女遊びをしたり、パタヤでゴルフやマリンスポーツに勤しむ浅見の身体は、五十を手前にして無駄な肉もなく、腕や脹脛はしっかりと弾力のある筋肉が付いていた。

森本は、自らの人生をこのままストレスフルな組織で過ごすのか、それとも浅見のように何もかも捨てて、どこか別の国で過ごすのがいいのか、明快な答えが出せないでいた。

組織に執着する理由はない。あるとすれば、体裁だけである。しかし、その体裁こそが柵となり、最後まで思い切った決断が出来ない所以となっていたのだ。


再び行きと同じ船でチャオプラヤー川対岸に戻り、二人は金色の大寝釈迦仏で有名なワット・ポーに寄った後、午後六時を前に近くのカフェで休み、いよいよ目的の風呂屋遊びに挑むのであった。

「タイの夜は長い、この国には多種多様な遊び場がある。きっと森本の眼鏡に適う女の子もいるだろう」

開放的に広げた南国らしい喫茶店で、竹製の椅子にだらりと上体をかけた森本は、疲れを癒すトロピカルフルーツに舌鼓をしながら、静かに浅見の言葉を聞いた。

「結婚という契約は古い仕来りであると俺は思う。ここにいれば、若い女性がいて、王様のような生活が送れる、モデルのような女性を取っ換え引っ換え抱き、愛人を作る。結婚相手なんか必要ないよ、俺の欲求は常に満たされていて、もはや日本に戻りないなんて思ったことは一度もない」

人は色恋を重ねるほど若さを保てる。

ジョーの言葉が森本の脳裏に蘇った。

「そうか、しかしその愛人とやらも金で繋がっているだけだろう、本当に君はそれで満たされるのか」

「何を言うんだ。結婚だって、結局、金で繋がっているではないか、無一文な男に女は寄り付かんよ」

「なるほど、そういう理屈があるのか…」

森本は、妙に納得した様子で浅見の話を真に受けた。


陽が傾き、辺りが幻想的な橙色に染まると、歓楽街に流れ込む外国人の姿が多く見られるようになった。

浅見の腕にしっかりと巻かれたオーディマ・ピゲはちょうど午後六時を指し、そろそろ臨戦態勢となる頃合であった。

「これから行くソイ・カウボーイは、ワット・アルンからタクシーで三十分程度。渋滞を加味すると時間がかかるが、君の疲れようから察するに、もう歩けないだろうから、敢えてタクシーで行くよ」

バンコク中心部、サイアム駅周辺は慢性的な渋滞が問題となっており、本来、移動手段は鉄道の方が賢明である。

「アソーク駅のすぐ近くにあるバンコク最大の歓楽街で、四十軒以上のゴーゴーバーが林立している。相場より少し高いけど、バンコク風俗の王道だから、初めての森本にとっては良い練習台になると思うよ」

ソイ・カウボーイは、スクムウィット通りのソイ二一から二三に向かって続く百メートルほどの路地を指す。そこには多くのゴーゴーバーが犇めき合い、夜七時から深夜二時までの間、ダンサー達による豪奢としたショーが繰り広げられる。

西にナナ・エンターテイメント・プラザ、東にはクラブマッサージ店が多く集まるプロームポン、北にマッサージ・パーラー街であるラチャダピセーク通りがあり、ソイ・カウボーイはそれらを結ぶちょうど中心部に位置している。まさにバンコクの夜を彩る要所である。

ソイ二一でタクシーを降りた森本は、初めて経験するネオンの賑やかさに目を点とさせた。

そこではコヨーテ嬢と呼ばれる客引きが、堂々と白人男性(ファラン)と体を絡めており、異様な雰囲気を放っていたのだ。

「どうだ森本、これが地上の楽園だ」

浅見は勿体ぶった口調で云うと、颯爽と通りに向かって歩き始めた。

森本もそれを追うように、周囲の女性達を眺めながら胸を高鳴らせた。

「〝ソイカ〟のゴーゴーバーは、どこに行ってもハズレはないと思うよ。アルコールが二百バーツから。加えて女の子の呼び出し料、つまりペイパーを支払って店外デートに誘い、ホテルに連れ込むというシステムだ」

そう云うと浅見は通りに入ってすぐにあるバー「ペガサス」を見て、店先のコヨーテ嬢に声をかけると、何やらタイ語でやり取りをし、森本に手を振った。

「とりあえず、軽く飲もうか」

店内には既に多くの客と肌を露出したダンサーがいて、肩がぶつかりそうになりながら賑やかな店奥に向かうと、ステージ横の椅子に座った。

「何を飲む? 取りあえずビールでいいか、カクテルもあるが」

「ああ、シンハを頼むよ」

浅見が席を立って店員にアルコール類を頼んでいると、なにやら片言の日本語で森本に話しかける女性の姿があった。

「社長サン、社長サン、ニホンジン?」

下着が見えそうなミニスカート姿の女性が森本の前に立つと、森本は目のやり場に困りサッと目を背けた。

「おお、既に楽しんでるね」

浅見が戻ると、シンハを二本テーブルに置き、内一本を森本に渡した。

「ぼったくられないかね、本当にこんなに安くていいのかい」

「バンコクではこれでも高い方だよ。この店はソイカの中でも高級店で、日本円でペイパーが三千円を超える、その代わり女の子のレベルも高いけどね。ほら、そろそろダンスショウが始まるよ、ステージに注目―」

店内では内臓を抉るようなユーロビートが轟々と鳴り響き、既に高鳴りつつある心拍数とともに森本を高揚させた。

ダンサーが次々とステージ上に上がると、歓声は最高潮に達し、指笛を吹く者や、ミニスカートの中身を覗き込む者も現れた。

「がはは、あのファラン馬鹿だなぁ、店員に注意されてら」

酔っぱらった白人がズボンを脱いでダンサーに抱き付き腰を振ると、店員が駆け付け男性を引き摺りおろした。堪らずダンサーも苦笑したが、すぐに気を取り直し、踊りを再開させた。

森本は喧騒を眺めながら、一方で日本に置いてきた家族を偲び、罪悪感に阻まれ、複雑な気持ちに陥っていた。

「おう、どうした森本。神妙な顔を浮かべて、魂が抜き取られたか」

浅見はビール瓶を片手に森本の肩をポンポンと叩くと、大音量の音楽が鳴り響く中、耳元で囁いた。

「特に気に入った女の子がいなければ、他の店に行くけど、どうだい?」

「おう、そうだね、任せるよ」

二人は席を発つと、再びストリートに出向き、新たなターゲットを探しに向かった。

外に出ると、先ほどよりも多くの外国人観光客の姿があり、タイの夜は賑わいは絶頂を見せた。

「九時を過ぎると見栄えの良い女の子は他の客に取られてしまうから、早めに連れ出した方がいいよ、ソイ・カウボーイの夜は常に争奪戦だから―」

飄々と振る舞う浅見に対して、森本にはいつまでも怪訝な表情を浮かべた。

バンコクへの渡航目的は女性遊びに他ならないが、仮にも既婚者である。自分の娘ほどの年齢の女性の裸を見て、本当にこういった世界に足を踏み入れていいものか、二律背反な思いに駆られていたのである。

娘と同じ年甲斐の少女を、父親が抱いていたら、娘は何と思うであろうか―。

ここに来るまでの溌剌とした森本の様相は徐々に覇気を失い、どこか浅見を卑下する思いすら抱いた。

「君は毎日こんな生活をしているのかい」

「そうだ、週に三回はこの手の店に来るね。一日に五千円使ったとしても、大した金額にはならないよ。こちらは物価が安いから、十分にペイ出来る」

「そうか、僕は妻にも娘にも申し訳なくて堪らないよ」

「……。」

浅見に返事はなかったが、次に入店したカラオケバーで、森本は常識をさらに逸する光景を目の当たりにするのであった。

「あら、お久しぶりね」

浅見は顔見知りらしきボーイに声を掛けた。

ボーイといっても、艶めかしい素振りから、ゲイであることは容易に察せられた。

「彼は昔の同僚なんだ。インドで単身赴任をしていて、遥々、タイにやってきた」

「あら、ミスター・モリモト、よろしく」

ゲイボーイは森本に握手を求めると、笑顔で受け入れた。

微笑みの国と呼ばれるだけあり、男性も女性も隠し事をせず、フレンドリーである。

内気で堅物な森本も、ゲイボーイの笑みを見て、僅かに緊張が解ける思いがした。

「ここはどういった店なんだい?」

森本が問うと、

「カラオケバーだよ、日本でいうところのキャバクラに近い」

と森本。キャバクラと聞いて親近感が湧いた。

「気に入った女の子を指名して個室で遊ぶことができる。交渉次第で本番も出来る。今日は、店主の計らいで店外デートも可能だぜ」

店は先ほどまでいたゴーゴーバーと違って入口は薄暗いが、さらに奥に入ると、カーテンの向こうに、賑やかにミラーボールの回転する大部屋があった。

「ここが真の楽園だよ」

カーテンを開けると、その先には、五十人ほどの女性が、まるで雛人形のように段に座り客を拱いていた。雛壇上の娘を「タマダー」、前列を「サイドライン」と呼び、手前にいる子ほどヴィジュアルがよく、その分、価格も高くなる。

「この中から好きな女の子を選びたまえ」

森本は、初めて経験するバンコクのカラオケバーに驚きを隠せず、暫しその場で硬直した。

女性達はまるで自分を選んで欲しいとばかりに森本に手を振り、ウィンクをしたり、胸元を強調したりして、あの手この手で誘惑したのだ。

「ほれ、早く選ばんか、随分と優柔不断だな」

浅見は囃し立てると、森本は手を顎にあてながら、目を虚ろにした。

「うーん、どの子にしようか…」

そのままの状態で一分ほどが経過しただろうか、浅見は先に女性を指名すると、「じゃあ俺は先にお暇するから、森本も適当に楽しんでくれ」と、森本を一人残して店外デートへと消えてしまった。

浅見のいなくなった後、大部屋には森本と女性達だけが取り残された。

森本を見詰める視線はより一層、熱気を帯びる。

森本は、はて、どうしたものかと、兎に角ひとり女性を選ばなければならぬ焦燥感に駆られながら、前列から順々に女性を見定め、最奥にいた少女を指差した。

「ああ、彼女、彼女にします」

森本が云うと、少女はニコリと可愛らしく笑って、森本の元に寄った。

「あら、さすが目が利くわねぇ」

ゲイボーイは森本の手を引くと、少女と抱き合わせながら説明した。

「彼女の名前はミーアちゃん、実は今日、入店したばかりで、モリモトさんが初めての客だよ、優しくエスコートしてあげてね」

ミーアという少女は、色白で、掌で覆ってしまいそうな小さな顔をしており、真ん丸とした大きな瞳が特徴的であった。

人形のような容姿は、年甲斐もなく森本を時めかせた。

「なんだろうな、まるで学生時代に戻ったような…」

森本はゲイボーイにチップを支払い店外に出ようとすると、

「ああ、ひとつだけ注意、ミーアちゃんは英語も日本語も慣れていないからね。でも良い子で頑張り屋だから、きっと良い思いをすることが出来ると思うよ、それでは良い夜を!」

と、ボーイは頭を下げ二人を見送った。

その背後には、自らが選ばれず、つまらなそうに顔を顰めるその他大勢の女性が目に映った。


ナナ、アソーク、プロンポン、トンローといったバンコクを代表する繁華街を通るスクンビット通りは、露店、風俗、物乞いなど、同国のナイトライフを象徴し、毎夜、多くの人々でごった返す。

「ルイヴィトン、エルメス、安いよ!」

森本は偽物ブランドを並べる露商を横切りながら、タイの夜を思う存分に満喫した。

森本がミーアの手を握ると、ミーアの方も照れ臭そうに森本の手を握り返したのだ。

小さく温かい手である。

「まずい…、僕としたことが、忝いな…」

少女の手の温もりに、思わず勃起すると、森本は歩き難そうにへっぴり腰になりながら、「小腹が減ったので屋台で食事をしよう」と提案した。タイは屋台文化が盛んで、食事は外食で済ますため、自宅にキッチンを持たない家庭が多い。

「お酒は飲めるのかい?」

森本が問うと、ミーアは手を振って拒んだ。

「未成年だから、まだアルコールが飲めないの」

「未成年か……」

未成年と聞いて、罪悪とも背徳とも形容し難い念が湧いた。

年齢は問わなかったが、きっと娘と同じ程度の年なのだろう。

むしろ化粧っ気がなく日本人より若く見えるため、娘より若く映った。

ミーアが酒を飲めないことを知り、森本は適当な屋台を選ぶと、軽食を口にした。森本はシンハ、ミーアは冷たいジャスミンティーを頼み、互いに乾杯し口につけた。

これほど年が離れていると、傍から見れば、親子と思われても仕方ないだろう。

少なくともこれまでの森本の人生で、自分の年齢の半分にも満たない女性と付き合うのは、これが初めての経験だった。

「ほう、ミーアちゃんは、チェンライの出身なんだね」

言葉は通じないが、身振り手振りでコミュニケーションを取り、互いの経歴を知る中で、徐々に打ち解けることができた。

ミーアは、森本が手にしていた観光地図を指差して、自分の生まれ育った町について語った。

会話の中で、ミーアの実家はサトウキビ農家を営んでおり、ミーア自身は学費を稼ぐためにカラオケで働いていることを知った。

特段、家庭環境が貧しいという訳ではないが、地方の農家はまだまだ所得水準が低く、首都バンコクの学校に通うとなると、相当の負担がかかる。

森本はミーアの心中を察し、それ以上、深く詮索した質問はしなかったが、若くして夜の世界に飛び込み、学費を稼ぐために体を売るミーアをみて、申し訳ない気分にすら陥ったのだ。

その後、二人は屋台を出ると、森本は観光がてらスクンビット通りを一駅ほど歩き、再びタイの夜街の風景を堪能した。

そのままアソーク周辺に差し掛かり、時計を見ると既に夜九時を過ぎている。

「この近くにホテルがあるんだけど、行くかい?」

ミーアは一瞬、戸惑った様子をみせた後、うん、と小さく頷いた。

最初、断られるかと思ったが、ミーアは腹を決めたように森本の誘い承諾したのであった。

この時点で、ミーアの心境は複雑に入り組んでいたに違いない。

それまで紳士を装っていた森本が、結局のところ、ミーアの体が目的であり、これだけ年の離れた少女を平然と抱くなど、その神経を疑っているに違いない。

森本のホテルはアソーク駅近くの高層ビルにあり、窓からは美しいバンコクの夜景が広がっている。

景観だけみれば他の先進諸国のそれと遜色なく、東京芝浦あたりの燦々とした夜景を彷彿させる。

森本はサイドテーブルに鞄を置き、

「先にシャワーを浴びてくる」

とミーアをおいて出た。

その間、ミーアはバラエティ番組を見てケラケラと陽気に笑ってみせたが、照れ隠しなのであろう、森本がシャワーを浴びてバスタオル一枚で現れると、暫く身を硬直させた。

次いでミーアがシャワーを浴び、ガラス越しに若い肢体を覗き見ると、そこには成長期の形良い胸があった。

それを見て森本は再びムクムクと股間を隆起させると、半裸のミーアをベッドに抱き寄せ、男女交合の体勢をとったのである。

「しかし、罪深いな」

事後の一服が、「背徳感」を助長させた。

「こんな純朴な少女を、安価で買い上げ弄ぶとは。妻娘に申し訳ない……」

森本は事を済ますと、ひとりベッドにミーアを残し、再びバンコクの夜景に乾杯を交わすのであった。

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