第6話

七月初週、年間を通じて高温多湿なモンスーン気候に属するインド東部は、雨季でジメジメと不快な空気を伴っていた。

ヒンズー教徒の多いハルディア工場であるが、イスラム教徒も一定数いるため、ラマダーン中は休暇をとる者も多く、その間、工場は非稼働となった。

消化器系の調子も改善され、インド生活にも慣れ始めた森本は、終業後、前岡に呼び出されると、ある提案をされたのである。

「森本、君も休みを取りたまえ」

思いも寄らない言葉に、森本は頓狂に応えた。

「休み、ですか?」

「ああ、ここに来てから三ヵ月間、有給を取得していないだろう、こちらでは一応は課長待遇だが、君の職位は正式には課長代理だ。課長代理は労働組合員であるから、休みはしっかりとってもらわないと困る」

安徳財閥グループは背後に強力な労働組合を有し、最近は海外出向者に対する有給取得も厳しくてなっていた。

「お心遣いありがとうございます、しかし、独り身ゆえ、休みを弄ばしてしまい、土日も仕事をしている状況です。何か良い娯楽はないかなぁ」

森本が頭を捻らすと、前岡も同様に腕組をして悩んだ。

二人のいる事務所前には広大な組立工場があり、辺りが暗くなった今も、工場は轟々と音を立てながら稼働している。

世界で最も忙しいとされるハルディア工場は、常に二十四時間のフル稼働であり、昼夜完全交代制を敷いていた。

「今月、ラマダーン休暇中に工場が四日間も非稼働となるから、まとめて有給休暇を取得して、旅行にでも出てみればどうだ。土日を挟んで、ちょっとした夏休みだと思えばいい。インドは観光する所が沢山あるし、少し足を伸ばせばタイやカンボジア、マレーシアなどと、東南アジア諸国を旅行するのもいいだろう」

「分かりました、検討してみます」

前原は徐に立ち上がると、壁に張り出された世界地図を眺めて言った。

「インドは広いぞ、国内旅行はお勧めだ。ムンバイやデリー、はたまたスマトラまで足を伸ばしても良いだろうし、カシュミールに行って歴史的な紛争跡地を見るのもいい、暇を潰すことなど幾らでもある」

「なるほど…」

前原の助言を聞くと、なにやら森本は伺い難そうな口振りで問うた。

「ところで、インドには風俗はあるんですか」

「風俗?」

前原は、森本から発せられた意外な言葉に、目を点とさせた。

「風俗か、森本のような堅物が風俗とは意外だな」

「ええ、堅物ですが、私も一端の大人の男に変わりありません。一定期間、女性を全く見ていないので、このままでは本当に男を犯してしまいそうです」

森本はおどけて股間を突き出してみせた。

ハルディア工場は、日本人駐在員は勿論、現地従業員も皆、男性であり、フロアに女性の姿は見当たらない。

女性の雇用促進を謳う安徳工機も、ハルディアのような過酷な環境では女性採用が進まず、結果的に男性社員に出向の矢が及んでいた。

森本は切に願うと、前原は手を額に当てながら言った。

「そうか、それは困るな、尻穴を掘られると括約筋が千切れて軟便になりやすくなる。ハルディアに森本のような第二、第三の糞便野郎が増えてしまっては困るな」

「でしょう。ですから、どこか女を抱ける場所を教えて頂きたいのですが」

「であれば、コルカタにソナガチという国内最大規模の風俗地帯がある。南アジア最大の風俗街と呼ばれているが…、しかし、ひとつ問題がある」

「問題?」

「ああ、きっと君の欲求を満たすものはないよ、不衛生だし、実際病気も心配だ」

ソナガチは、コルカタ北部の売春街で、ガリッシュパーク駅から北上してすぐの場所にある。

ソナガチには常時、一万人を超す売春婦がいると云われており、林立する雑居ビルの各部屋に娼婦が待機しているのが、HIVなど性感染症にかかる恐れが極めて高く、風俗好きの外国人渡航者ですら回避するほどだ。

物珍しい日本人旅行者など、歩いてソナガチ地区に入れば、すぐさま強引な仲介人がやってきて「コンニチワ、安イヨ、本番百ルピー」などと腕を引かれるが、置屋に一歩足を踏み入れれば最後、そこはまさに病気の温床であり、健全に帰ることはできない。

「ソナガチの風俗は相場が百ルピー、つまり日本円にして二百円程度と格安であることに間違いないが、ドブ鼠が駆け回るコンクリート剥き出しの建物で、シャワーも浴びずに腋臭がする女性を抱くのは、とても勇気がいるよ。日本人はお金を払ってでも、もっと高級な店に行くべきだと思うよ」

ソナガチの立ちんぼはインド人に限らず、ネパールやチベット系の出稼ぎも散見される。

多くが貧困層であり、彼女らにとって売春は貴重な資金源でもあるのだ。

一通り前原の説明を聞き、森本は複雑な心境に陥った。

女性と遊びたい下心はあるが、一瞬の快楽のために払うリスクも大きい。

遠くインドにまで来て性感染症で死んだとなれば、末代まで笑い者である。

「日本人渡航者でソナガチに行ってお土産を貰って来た話はよく聞くからね、性器に真っ赤なイボが幾つもできて、尿管から膿が出るよ。イボくらいならマシだけど、命まで奪われたら、それこそ神聖なガンジス河でも穢れた身は清められないよ」

「やけに詳しいんですね、前原部長はソナガチに行ったことがあるんですか?」

「い、いや、あくまで人から聞いた話だ、俺は本当に行ったことはないよ!」

前原は頑なに首を振って否定したが、恐らくこの男もソナガチで妙な経験をしたことがあるのだと推察された。

「いずれにしても、ソナガチはお勧めしない」

「そうですか、ではバンコクは如何でしょうか」

「バンコク?」

思いがけない地名に前原は頓狂な声を上げた。

「ええ、城山人事部長から聞いた話では、バンコクが良いと」

森本は渡航前の人事考課で、ハルディア出向者の多くが週末、タイの歓楽街で女性遊びをしている事実を聞いた。

コルカタからバンコクは往復で三万円程度と幾分に安く、月一程度の渡航であれば出向手当で十分にペイできてしまう。

「なるほど、ジョーは若い頃、性獣と呼ばれていたからね、彼は世界中の風俗を知り尽くしている、バンコクは良い選択ではないかな」

前原は再び世界地図を眺めると、手を叩いて頷いた。

「よし森本、今月はしっかり休暇を取って、是非、バンコクで楽しんできてくれ!」

こうして森本は、四十八歳にして人生初の買春旅行に出かけるのであった。

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