第5話

インドでの生活は、森本のような神経質な人間が行くと無残な思いをさせられる。駐在員村はまだマシだが、一歩外に出ると牛や野良犬、さらにはインド象やベンガル虎が行く手を阻むため、車の運転もままならない。道路事情も悪く、工場のあるハルディア周辺は舗装されてない道路が砂埃を上げ、ジープや四駆のスポーツユーティリティ車が人気を博した。

工場で使用する部品は主に安徳工機の傘下企業、もしくは輸入品で賄われるが、一方で資材業者や、物流業者、電力会社、建材屋は現地企業であり、インド人と付き合いが無ければ仕事は滞る。

またそうした業者は、主にコルカタに本社を構えている場合が多く、彼らはありとあらゆるもてなしで森本を接待に呼ぶが、そこで振る舞われる香辛料やラッシーでやはり腹を下し、商談中に糞を漏らすことも度々あった。

コルカタからハルディアに向かう途中、片側六車線の大通りでは大規模な通勤渋滞が発生し、端から端までビッシリと車が滞るため、途中でトイレに行きたくなったら悲惨である。特にインド駐在中はあらゆる食事が合わないためトイレが近く、やはり携帯用簡易トイレや紙おむつが手放せなかった。

また、仕事柄、森本は工場現場に出向く機会が多いため、歩く度に下腹部がグルグルと鳴り響き、常に便意が付き纏う。

ある日、森本が設備点検で製造ラインに出ている最中、運悪く製品の上に糞を漏らし、ラインを止めたことがあった。森本は尻を抑えながら緊急停止ボタンを押すと、現場監督者が駆け付け「貴様、何やってるんだ」などと罵倒された挙句、「やれライン停止だ、やれ糞便清掃だ、代替品用意だ」などと対応に追われ、結局ラインを一時間も止めることになった。

現地作業員は、怪訝な顔をしながらもラインにこびりついた森本の糞便を拭き取った。

森本は罪悪感に苛まれながらも、意に反し腹鳴りは止まぬため、泣く泣く便所に駆け込んだのであった。

精密品である電子基板は零コンマ一ミリの精度を求められるため、製品に糞便など付着すれば忽ち後工程にも被害が及ぶ。森本の便の付着したベルトコンベヤーはどんどん下流に下っていき、終には工場中で糞便騒ぎが起きるのだ。

『Today's production will be stop emergently 'cause of Morimoto’s feces(本日の生産は森本の糞便により緊急停止致します)』

生産停止のアナウンスが工場中で流れると、

「誰だ、上流工程で糞を漏らした奴は!」

と犯人探しが始まり、作業着の尻の辺りを茶色く染めてトイレに駆け込む森本を見掛けると、現地従業員は皆、挙って森本のことを「糞便野郎」と罵声を浴びせた。

時には、糞便野郎こと森本拓也の存在を悪用し、わざと便所の鍵を閉めて、森本が大便が出来ない環境を作り、森本に糞を漏らさせラインを止め、すべての責任を森本に擦り付け、嬉々と早帰りする者もあった。

このままではマズいと、森本は止瀉剤を通常の七倍も服用したり、肛門にワインのコルク栓を差し込んだり、色々と試行錯誤を繰り返し、無理に便秘状態をつくったが効果は薄く、むしろある日、数日分溜りに溜まった糞便を生産ラインに放出したため、三日間のドカ停を引き起こしたこともあった。

「日本から来た技術員が頻繁に糞便を漏らすため、工場の生産が止まる」

森本に対する苦情の嵐は暫く鳴り止むことはなかった。しかし、そんな森本の胃腸も来印三ヶ月もすれば徐々に抗体ができ、久方ぶりに硬便が出たと思ったときには、体重は十キロ以上も減少していたのだ。

中肉中背体型だった森本はすっかりスマートになった。

同時に仕事も板につき、徐々に現地の仕事に慣れていったのだ。

森本の仕事は技術員指導だけでなく、設備導入、現地サプライヤーの対応など多岐に渡る。

日本では課長代理の肩書きであるが、インドでは出向者待遇であり、課長よりも給与はいい。

とはいえ、給与は日本の口座に振込まれるため自由に使うことは出来ない。

もっとも、近くにショッピングモールも酒屋も娯楽施設も存在しないため、金を使う機会もないのである。

結局、森本は仕事以外にすることがなく、休みの日も暇を潰すため仕事をするほどであった。

仕事、仕事、仕事……。

会社としては、従業員からありとあらゆる娯楽や情報源を奪って仕事に没頭させることができるため、強制収容所ことハルディア工場の立上は思ったよりスムーズに進んだが、当の従業員にとっては地獄のような生活で、森本も来印三ヶ月で、屍のような青白い面容を浮かべながら、日々、糞便闘争に耐え凌ぐのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る