第4話

タタや三菱といった大手企業が林立するフーグリー川沿の工業地帯の一角に、安徳工機ハルディア工場はある。

周辺には専ら石油化学工業が犇めき、精密機械工場は安徳以外に存在しない。人件費の安さと流通の優位性から、ハルディアは安徳工機としては世界有数の組立工場となっている。

九十年代後期から建設をはじめ、二○○○年代に本格稼働したハルディア工場は、広大な敷地の中にノックダウン工場と流通センターを兼ね備え、世界展開するハブ港を形成している。

森本は、やはり守衛が十人もいる鉄格子の門を入ると、工場のエントランスで、ある人物と待ち合わせたのだった。

「やあ、君が森本かい」

森本を迎えるや否や、がっしりと握手をしたのはハルディア工場で生産部長を勤める前原忠義である。

「恐縮です、私などのためにお出迎え頂き」

森本が慇懃に言うと、

「何を言うのだい。我々は同じ穴の狢だ。城山人事部長から話を伺ったが、君がインドに来てくれて有り難いよ」

と前原。

インド人のように浅黒い肌は、ここでの生活が長いからであろうか。

前原は森本を二階の生産技術部フロアへ誘うと、広々としたソファにゆっくりと腰を下ろし、コーヒーをもてなした。

対する森本は、インドに来てからというもの腹の調子が悪く、コーヒーはとても口を付ける気にはなれなかった。

「ええ、城山部長は何と仰っていましたでしょうか」

森本の頭の中には、自らをハルディアに放り込んだ憎い城山の顔が巡り、腸が煮えくり返る思いすらした。

「なんとも、自らインド駐在を希望したみたいじゃないか。インド支社は日本人には滅法人気がないから、君は本当に変わり者だね」

「ほう、自ら希望ですか。これまた異訳というものは恐ろしいものですね…」

森本は皮肉混じりに言うと、ひとつ大きく溜息を吐いた。

森本を変人呼ばわりする前原であるが、かくいう前原自身も既に九年間インドに駐在しており、出向前は恰幅が良かったが、今はガリガリに痩せて頬がコケ落ちており、見るからに精神疾患者といった様相だった。

「日本人が少なくて心細いからね、君みたいな優秀なエンジニアが来てくれて心強い」

仰々しいほど豪奢な応接室に迎え入れられた森本だが、とても喜ばしい環境と呼べなかった。

森本は、出張でハルディアには何度か来訪した経験があり、その内情は既知であった。ハルディア工場は生産部長の前原を除くと、日本人駐在員は四十名おり、生産技術、生産管理、調達物流、そして人事総務に平等に割り振られている。しかし、その他大勢の部下は現地人であり、コミュニケーションが上手くいかず、彼らもまた現地の生活に慣れず精神を病んでいたのである。

駐在員のうち八割は何かしらの精神疾患を訴えており、週に一度は診療所に通院する。産業医もフル稼働のため、ついには産業医自ら精神薬を服用するほどであった。

「森本、インドは何度目だっけか」

四月とはいえ日本の真夏より暑いが、前原は熱いコーヒーを胃に流し込んだ。

インドではアイスコーヒーを飲む習慣はない、というより氷あたるケースが往々にしてあるため、沸騰させた湯を使うより他にコーヒーを飲む方法がないのだ。

「一昨年から現地技術員の指導に携わっておりますから、かれこれ十度は超えておりますね」

「ほう、ということは僕なんかよりもインド通じゃないか」

前原は終始、森本を称えるように云った。

森本は熟練技術者として、インドやタイの新工場に出向き、現地作業員の指導に勤しんできた。

製造ラインで使用する設備の保全や新技術の習熟、さらに作業改善など、岐阜本店工場で培った日本のモノづくりのノウハウを、現地技術員に教え込むのである。

インド人は勉強熱心で親日家だから救われてきたが、いざ駐在となると、やはり気が引けた。

「記念すべきインド駐留を期に、君にひとつ面白い逸話を教えてあげるよ」

「面白い逸話、ですか?」

前原は急に声を潜めると、ほくそ笑んで言った。

「森本と同じ位の歳でさ、やはり横浜に家を買った直後にインドに飛ばされた奴がいたんだよ。岸谷っていうんだけどさ」

前原は然も愉快に語り始めた。

工場では始業を表すチャイムが鳴り、忙しない雰囲気が伝って来た。

「二十年くらい前かなぁ、当時はバブル絶頂期でさ、横浜の狭いマンションを六千万も出して買った愚か者だ」

前原の話を聞きながら、森本は買ったばかりの新築マンションを思い出し、自らの境遇に重ねた。

決して広くはないが、夢にまで見た自宅マンションは、森本にとって遥か遠い存在になってしまったのだ。

「ある日、岸谷が一週間会社に来なくなったんだ。一応、同僚には休むって電話連絡しとったらしいが、土日が明けて、翌月曜に無断で休むようになったらしい、一日くらい無断で休んでも誰も心配に思わんかったらしいが、火曜、水曜と連絡がなくて、ついに心配になって寮監に連絡いったんて」

森本はコーヒーを飲む手を止め、同じく西ベンガル州で採れたダージリンティーがあることを知ると、そちらを口に付けた。

「今日みたいな四月のかなり暑い日やったかなぁ、寮監が岸谷の部屋に行って、チャイム押しても出んかったらしい。ほんで、電話も鳴らないようだから、痺れを切らして合鍵で扉を開けたら、物凄い異臭したとという」

森本は、ゴクリと唾を飲んだ。

冷房は付いているはずだが、応接室の温度計は三十度を超えている。

背中には冷たい汗が、一筋走る感覚があった。

「人の死んだ匂いなんて嗅いだことなかったらしいけど、一瞬で死臭って分かったらしいわ。そんくらい強烈やったって。すぐに家族に電話して、警察を呼んで、特殊清掃業者を呼んで、そらもう大変だったみたいやわ。人間は歩く冷蔵庫って言われているらしいが、言い得て妙と思ったね。心臓が止まったら、数時間もしないうちに腐敗が進む。こんな糞暑いインドでは、よほど強烈に腐敗が進んだであろう」

前原は敢えておどろおどろしい声調で続けた。

森本は、前原がどんな目的でこの話をしているのか理由が分からずにいたが、黙って傾聴し続けた。

「岸谷は、トイレの天井灯にゴムホースを括り付けてぶら下がっとったらしい。夏だったから腐るのが早くてさ、眼球が突出し、顔は膨隆してグチャグチャになってさ、悍ましい表情で、寮監は堪らず吐瀉したと。ワシの長い会社員生活の中でも、最も惨い経験だった。会社にいいように使い回され、買ったばかりの新居にも住めず、家族とも引き離され、挙句、自ら死を選ぶとは―」

前原の話す「岸谷」という男の境遇は、あまりにも今の森本に似ていた。

新居を購入して即、海外転勤。

そのため森本は、岸谷の話をまるで他人事と思って聞けなかったのであった。

「うちの会社にはある言い伝えがあるんだ。結婚する、マイホームを買う、子供ができる、人生の大きな節目の直後に転勤させるのが人事の方針。転勤先は誰もが行きたがらないような僻地で、六畳一間、風呂共用、便所共用、窓を開けたら向かいには同僚の姿があり、寮の食堂は一箇所だから家に帰っても上司と顔が合う。徒歩圏にコンビニすらない、風俗もない、あるのは『四十歳の婆を若い子』と呼ぶカラオケパブのみ、しかもそこにも上司の姿があるんだ、駐在員みんな、婆の穴兄弟。誰の逸物がデカかったとか、すぐに噂が広がる。会社から徒歩一分、玄関開けたら工場の煙モクモク、寝ても覚めても会社の呪縛からは逃げ切れん。家族を連れて来ようにも、こんな惨めな暮らし、恥ずかしくて見せれないだろう。きつかっただろうなぁ、そんな生活するために一流大学行ったわけちゃうやろうになぁ」

森本は、身が凍る思いすらした。

前原の口から放たれるインドの真夏の怪談は、とても現実味を帯びていたのだ。

「ちなみに、その岸谷の滞在していた部屋が四四四号室、つまり今のお前の部屋だ」

前原はおどけてみせたが、対する森本はキリッと目を据えて前原を睨み付けた。

「これからの駐在生活に不安を覚えているのに、なんてこと言うんですか!」

「あはは、そう怒るな、単なるブラックジョークだよ。健康診断の結果を見ると、どうやら君も精神疾患の帰来があるみたいじゃないか。僕も毎食後に精神安定剤を飲んでるし、寝る前は必ず睡眠導入剤を飲んでる。コルカタにも良い薬剤師がいるから、紹介してあげよう、それじゃあ、何か生活に困ったら遠慮せずに相談してね」

そう言って前原は颯爽と応接を出ると、一人残された森本は、言い様もない不安に駆られながら、その場に佇むしかなかった。

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