第3話
インド東部、バングラデシュ国境近くの都市コルカタから、車で五時間南下した場所に、安徳工機ハルディア工場はある。
空港のあるダムダムからジョエッソア・ロードを南下しコルカタ中心部を抜け、ハウラ橋を渡ってフーグリー川を越えると、インド有数の産業地帯でもあるハウラに面する。
そこから国道に乗って一旦、南西に向い、バッグナン、コーラガットを通過、さらに南下すること一時間半、ハルディ川とフーグリー川に挟まれた場所に、安徳工機のあるハルディア工業団地がみえる。
コルカタは、人口千四百万人、大手企業の立ち並ぶオフィス街を有し、ファッションや娯楽など、時代の先端を直走る世界有数のメガシティであるが、郊外は未だインフラが発達せず、日本人出向者にとっては些かならず住みにくい環境といえた。
都市部には大手総合商社や銀行、不動産、製造業が駐在所を構えるが、郊外に行くほどインフラ事情が劣悪となり、インターネットや電話回線が断線するのは日常茶飯事で、上下水道は存在しないも同然、マクドナルドやケンタッキーは勿論、日本食レストランなど存在するはずもなく、駐在員の多くは休日ともなれば娯楽のある都市部に向かうため、休日の駐在員村は閑散とした雰囲気が佇んでいた。
―空港のロビーに降りると、妙なニオイで半年ぶりのインド生活が森本の中に蘇った。
飛行機を降りて香ってくる独特のニオイは香辛料である。インドではあらゆる料理に香の強い香辛料を調合するため、それが衣服や身廻品に付着し、屋外であってもニオイを放つのだ。
昼時となれば空港近郊の食堂が賑わうため、至る所でスパイスの香りがし、それが空港にも流れ込むことになる。
森本はそんなスパイス臭に包まれながら、今後の在印生活に対し不安を抱え、入国手続きを済ませたのであった。
「ヘイ、モリモト!」
到着ロビーに出るや否や、大袈裟に白旗を振り回しながら現地人ガイドが森本を笑顔で迎え入れた。
ガイドは「森本拓也」と記された旗を振り回すため、森本は気恥ずかしい思いをしながら、ガイドの方へ立ち寄ったのである。
現地での衣食住案内、社内手続きなどをこの男が行うことになる。
ガイドは六十リッターサイズの大きなスーツケースを持つと、空港前に停めてあるジープに森本を誘った。
成長著しいコルカタでは、高層ビルが林立し、それは市内から北東へ十三キロに位置するネータージー・スバース・チャンドラ・ボース国際空港からも確認できた。
「今後のスケジュールだけど、今日は長時間のフライトで疲れてるでしょうから、自宅でゆっくりと休んで下さい。明日の昼にメイドが貴様の家に伺い、身辺整理や自家用車の取り扱い説明をさせて頂きます。赴任休暇は二日間、来週の月曜は工場でなく本社に出社して下さい。最初は場所が分からないと思うので、自宅まで送迎を依頼してます、八時に自宅に向かいますので、さっさと準備をしていて下さいね」
所々、誤った日本語で矢継ぎ早に話されるため、説明の半分も頭に入らなかった。また、悪天候によりトランジットで六時間の足止めを喰らったため、四十八歳の森本の体力は限界に近く、空港から自宅までの約五時間、森本はウトウトと眠りにつくのであった。
ガタゴトと舗装されていない砂利道を直走るジープ。
眠りから覚めた森本が薄ら目を開くと、フーグリー川では洗髪や洗い物をする現地人の姿があった。
「おや、モリモト、起きたんだね」
「ああ、揺れが激しくて、とても寝れたもんじゃないよ」
国道と並走するように流れる広大なフーグリー川は、川といっても茶色く濁った泥川であり、対岸では川辺に尻を出して大便をする男性の姿も見えた。
「インドは上下水道が整備されていない場所が多いから、川は重要なライフラインなんだよ。有名なガンジス河やインダス川、そしてここフーグリー川もそうさ、朝は野菜も洗うし、歯磨きもここでするし、洗濯や、風呂代わりにも使う」
「なるほど」と森本はガイドの説明に頷きつつも、やはり対岸で尻を出して気張る男性の姿が頭に残り続けた。
「便を流す川で食事の準備もするとは、輪廻回生とはこのことだろうか…」
コルカタ郊外は道路事情が悪く、通勤時間帯は慢性的な渋滞が発生した。車はさらに川沿いを走らすと、やがて洲状に入り組んだ地形が現れた。紛れもない、今後、森本が生活する街、ハルディアである。
ハルディア中心部、デュラガチャクから車で二十分の場所にある駐在員寮は、周囲を鉄格子で囲われた四階建のアパートメントであり、エントランスには常時十人以上の守衛が立つなど、物々しい雰囲気が漂い森本の不安を煽ったが、紛争地帯のそれとは異なり、あくまで空巣を防ぐ目的という。
出張で来る場合はホテルであるため、この手の寮は森本にとって新入社員時代以来であった。
若かりし頃は岐阜のボロアパートに川の字で寝泊まりしたものだが、四十代も後半に差し掛かった森本に、六畳一間の部屋に泊まる気概もなく、不安が付き纏った。
「寮監は三百六十五日応対可能。緊急時は寮監に問い合わせをして下さい。朝七時から夜十時まで、それ以外はインターホンを押して警備会社を呼んで下さい。ちなみにモリモトのルームナンバーは『四四四』です」
「四四四、か」
占い事など信じる甲斐性でもないが、死を連想させる不吉な部屋番号に言葉を失った。
「日本では不吉な番号だけど、インドで『四』は幸福をもたらす数字さ、だから心配しないでくれ」
「そうなのか、ちなみにインドで四はどんな意味を持つ数字なんだい」
ガイドの説明に、森本はほっと胸を撫で下ろして安堵し問うた。
すると、ガイドは後ろめたそうに俯きながら、
「…ごめん、嘘。社員寮は日本人が運営しているから、四は不吉な数字に変わりないよ」
と続けた。
「ちなみに前の住人は、この部屋で首を吊って死んだから、長らくこの部屋は使われていなかったんだけど、他に空きもないし、夜な夜な男性の呻き声がするけど、我慢してくれ」
そう云ってガイドは、まるで物置小屋に使われるような簡素な鍵を森本に手渡した。
別名「日本人収容所」と呼ばれるハルディア日本人駐在寮。
安徳工機という組織の下で強制的に労働させられる従業員を収容する施設であり、自由を奪われ働かされるという意味では、ナチス・オシフィエンチムやシベリア拘留所(ラーゲリ)と何ら変わりはない。
森本の目には「ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)」の文字が霞んで浮かんだ。
「では、荷物は部屋に、また日本から空輸した家具などは既に部屋の中に入れておいたから、困り事があったら、あとは寮監に問い合わせてくれ、では、フィルミレンゲ!」
そう言ってガイドは、屈託のない笑顔を浮かべながら、手を振って別れた。
森本は、エレベーターに乗り四階の四四四号室に着くと、そこは広々としたLDKの部屋があった。
壁や床、備え付けの家具など、確かに日本のそれとは造りは異なるが、予想していた以上に清潔感があり、中級程度のビジネスホテルといった様相だ。
さすがに日本のような温水洗浄便座たる嗜好品こそないが、バスタブあり、キッチンありと、至れり尽くせりの環境が用意されていた。
さらに案内によると、アパートの敷地内には、食堂、ジム、テニスコートも併設され、インターネット回線、救急病院へのワンタッチコール、格安のゴルフ場使用券、コルカタまでの無料バス券、日本料理の出前、衣類などの注文販売など、生活に必要な設備は全て揃っているようにみえた。
思えば人事部の海外支援室では、過酷な環境で働く駐在員のストレスを軽減するため、駐在員の要望を最大限取り入れ生活環境の向上を図っていると聞いたことがある。
インド駐在員は特に定着が悪く、毎年三割が健康や精神的苦痛を訴え日本へ帰国するため、あの人事部のジョーこと城山丈一郎も、インドには特別な配慮を敷いているようだ。岐阜も田舎であるが、インドに比べれば雲泥の差であった。
ビジネスクラスではあったものの、バンコクでのトランジットや、コルカタからの長時間移動によりすっかり疲弊した森本は、大量の荷物の荷解きなどする気にもなれず、シャワーを浴びて昼寝をしようとした。
森本がシャワールームに向かうと、ガス栓を開き、次いで蛇口を捻ったが、壁奥でゴボゴボと音が鳴るだけで、一向に湯が出る気配がない。
「おかしいな」
森本は不信に思い、何度かガス栓を閉めたり開いたり、蛇口を回してみたが、やはり湯が出る気配はなかった。
森本は部屋を出てロビーの寮監室の窓を叩くと、インド人の寮監に身振り手振りで、湯が出ない趣旨を説明した。
「シャワールームの湯が出ないのだ、湯どころか水すらも出ない」
すると寮監は悪びれた様子もなく云った。
「ああ、今日は湯は出ないよ」
「なぜだ、長旅で疲れているから風呂に入りたい、どうすればいい」
寮監は気怠そうに立ち上がり天に向かって指を差すと、次のように説明した。
「朝から屋上のポンプ室の水が行き届いてなくてさ。代わりに外のプールで水浴びをしてもいいけど、何年も水を変えてないから赤痢やサルモネラ菌がウヨウヨいるよ、あまりお勧めはしないね」
「どうなっているんだ、これじゃあインド人もビックリだよ」
森本は呆れ様に両手を上げた。
「インド人はその程度じゃ驚かないよ、この程度のトラブルはインドじゃ日常茶飯事さ。安心してくれ、夜になれば復旧するかも知れないから、それまで待っていてくれ」
「するかも、って……」
あまりに杜撰な管理実態を目の当たりにし、仕方なく森本は部屋に戻ると、ミネラルウォーターをIHコンロで沸騰させて湯を作り、それを人肌程に冷まして、タオルで湿らせて体を拭いた。
四月はインドで真夏にあたり、この日も気温は四十度近くまで上っていた。
脇や額を走る汗水が不快で堪らない。
四階建ての窓の外には、すっかりと干え上がったサトウキビ畑の景色が広がり、真っ赤に燃え盛る西陽が室内を照らすと、どこからどもなくインド音楽特有の輪廻転生のリズムが流れ、森本はそれを子守唄代わりに暫し夢の中へと回遊するのであった。
―再び目が醒めると既に夜七時を過ぎており、あたりはすっかり暗くなっていた。
記念すべきインド初夜は酒もなく女もなく、赴任を祝う同僚の姿もなく、森本は冷蔵庫からペプシコーラを取り出すと、一口含んでサイドテーブルに置いた。
眠気と疲労で頭の中がすっきりと晴れないが、森本は覚束無い足取りでバスルームに向い、「夜になれば湯が復旧する」という寮監の言葉を信じ、衣服を脱いで蛇口を捻ると、先ほどまでとは打って変わってシャワーから勢いよく湯が噴出したのである。
「ぎゃあああぁッ!」
森本は突如、頭に降り注ぐ大量の熱湯に悲鳴を上げ、バスタブに転げ落ちた。
「どうしたんだい」
騒ぎを聞きつけた寮監は森本の元に駆け寄ると、事態を察知してこう説明した。
「駄目だよ、ここのアパートの湯は百度に設定されているんだ。だから赤い蛇口と青い蛇口を両方捻らないと、ちょうど良いお湯は出ないよ」
森本の体は火傷で真っ赤に変色し、見るからに痛々そうな様子であった。
森本を襲った境遇は虚しく、熱湯だけならまだしも、シャワーから噴き出る赤茶げた湯の色にも驚愕した。
「これは血じゃないか、もしや、自殺した前の住人の呪いじゃあるまいな!」
「違うよ、この部屋は森本が来るまで何年も使われていなかったから、水道管が錆びてるんだ。一分くらい水を流して錆を流さないとダメだよ」
然も当然の出来事かのように寮監が云うと、森本は深く溜息をつきながらその場で項垂れた。
初日にして森本は、これから続く過酷なインド生活の洗礼を食らったのである。
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