第66話:ジャンル別の人間観

 今年の夏ごろから読書会を主宰して、月に一回の会合を続けている。「読書が大好き!」という人ばかりが来るものと思っていたら正反対で、「普段はあまり本を読まないが、参加してみたいです!」という人がほとんどなのであった。


 そうなると、「普段はあまり本を読まない人」にとって読みやすい本を課題図書にしなければならず、「おすすめの本を教えてください」という質問にも、それなりに加減して答えなければならない。


 そういう対応に慣れてくると、初心者向けに読みやすい本とは何か、読みやすいとしたらその理由は何か、という問題を考えるようになってくる。


 若い人にとって読みやすいのはおそらくライトノヴェルになるだろうが、30代から70代まで満遍なくお勧めできるかとなるとちょっと難しい。すると「時代小説」「ミステリ」「SF」あたりになってくる。


 で、うんと大雑把に、本を読みなれていない人のために解説するなら、この3つのジャンルは「何を描いているか」よりも、むしろ作品で描かれる根本的な人間観にかなりの違いがあるように思われる。


 時代小説(とりわけ人情もの、市井もの)の場合、悪人は必ず悪人として描かれて、善人は最後まで一貫して善人として描かれるケースがほとんどである。特に短編の場合は、最初から最後まで同じ性格でないと話がまとまらない。人間観としてはコチコチしていて硬い。言い換えるなら類型的である。


 ミステリの場合は、謎が解明される過程で、善人と思えた人が悪人だったり、その反対だった、という状況が頻繁に現れる。「人間とは、表向きの顔とは別の一面を持っているものなんですよ」という人間観にやや偏っている。「意外な犯人」を描くことを優先させていれば当然そうなるので、この説明は時代小説とミステリの違いを明解に説明するのには役立つかもしれない。


 もちろん例外はいくらでもあって、最近はミステリ的な観点から時代小説を見直したアンソロジーが多く出ている(笹沢左保、柴田錬三郎、平岩弓枝など)ほどである。山本周五郎や藤沢周平の場合はもうほとんど「時代小説の皮を被ったミステリ」と言いたくなるような作品すら珍しくない。


 それならSFはどうか。最近「カクヨム」発でSFの新人賞をとった「トランスヒューマンガンマ線バースト童話集」を読んでみると、人間という概念そのものがかなり異なる。体は代替可能になっていて、精神はコピーや保存ができるという状態が当然のように描かれていて、しかもこれはこの作品だけの特徴でもないし、割と当たり前の、メインでなく前提としての人間観である。


 ただこうした前提を普段あまり本を読まないという人に飲み込ませるのは難しく、懇切丁寧に教えてあげなければ高齢者には理解しづらい。小学生時代に「ドラえもん」を通過していれば、脳内のOSにSFを理解する下地ができているように見えるのだが、一定以上の年齢ではもう手遅れだという印象を受ける。こういう所にSF特有の「わかりにくい」「読者を選ぶ」面があって、時代小説ほどには売れない理由がありそうではある。

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