第31話:「司馬遼太郎論ノート」丸谷才一

 最近、少し司馬遼太郎の小説を読めるようになった。以前は何となく退屈に思われて、読みかけても途中でやめてしまうことが多かったし、読み終えても何とも思わないような関係であった(それに司馬遼太郎に心酔しているばかりの人は話しても面白くないし、かと思うと司馬遼太郎は間違いばかり書いている、と怒り出す人も多いので面倒くさい)。


 で、急に思い出したのが丸谷才一の「司馬遼太郎論ノート」で、読み直したら鋭い指摘が多くて為になった。


 普通の歴史小説と司馬遼太郎の小説はどこが違うのか、という話の流れで特徴を挙げている。それは「ずいぶんいろいろな形式の混成として出来あがっている」ということで、6点ほどの要素を列挙している。


 1.大衆小説

 2.歴史小説

 3.史論

 4.伝記

 5.人物月旦

 6.創作ノート


 こうした要素が取っ替え引っ替え、出たり入ったりするので、賑やかで、スケールが大きくなる。こうした方法というかスタイルは、その後の小説家に受け継がれているかというと、ちょっとそうでもないように思われる。薀蓄をあれこれ入れるスタイルはかなり多くあるが、それでも司馬遼太郎よりお行儀のよい小説の方が今でもずっと多いのではないか。歴史小説でなくても、このようなまぜこぜの方法には学ぶべき点が多々あるように思う。


 もう1つ、大きな特徴としては喜劇的であることが挙げられている。


 ↓


 しかしわたしの見るところでは、最大の相違は、司馬の作風が本質的に喜劇を狙つてゐるといふことである。彼は喜劇小説の作者なのだ。


 ↑


 として、「俄」「妖怪」「功名が辻」「夏草の賦」などを例として並べているが、主人公が悲劇的人物であった場合も事情は変わらないと述べている。


 たまたま自分が先日読了したばかりの「酔って候」でもはっきりあとがきで「喜劇」という言葉を出していた。といっても矢鱈と面白おかしい話だという訳ではなくて、むしろ悲喜劇とでもいった方がピッタリするような、苦い後味と重みが残るような小説だった。善悪や「悲劇」「喜劇」といった枠組みに収まりきらない視点や味わいこそが小説の醍醐味ではないかと思う。



 *「司馬遼太郎論ノート」は中公文庫「みみづくの夢」ほかに収録されている。自分の手元にあるのは批評集の第五巻「同時代の作家たち」。

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