第26話:漢字とひらがなの書き分け

 前回、少し文章論が入っていたので、その延長的な話題として、今回は「漢字とひらがなの書き分け」について。


 いわゆる、ひらがなに「ひらく」か、漢字にするべきか、時々やや迷うことはある。自分には明確な基準はないが、以前よりはなるべく読みやすさを考慮して、漢字を減らすように心がけてはいる。


 確か栗本薫は「ほど」「ため」「こと」「わけ」「くらい」などはいずれも、漢字にはせずひらがなにするのだと発言していた。


 栗本薫は2010年代の現在においては、特に有名でもなく人気作家でもないかもしれないが、昔は人気があったのである。だから、中学生くらいの自分はそれを読んでかなりの説得力を感じ、なるほどと思った。


 そのため今でも、「程」「為」「事」「訳」「位」を漢字で書いている文を見ると、やや素人っぽい生硬さを感じる。


 しかし、書く題材や目的、文体にもよるので、漢字優先にばかりもできないし、ひらがな優先という原則だけを守っていくのも難しい。


 司馬遼太郎は「あるく」「おもう」「わらう」「いう」といった、ごく簡単な動詞も、ひらがなで書くことがあるので少しやりすぎと思われる。何というか、わざとらしい平易な表現、読みやすさへの配慮、というものが読者を馬鹿にしているように見えることがある。


 ただし、司馬遼太郎の文章は、誰がどう見ても学識の深さや厚さ、奥行きや重みを感じさせるものなので、ひらがなを多用することで絶妙のバランス調整をしているともいえる。素人が下手に真似のできない文章である。


 藤沢周平は、繰り返しの「々」を嫌っていて、「常々」「木々」といった表現は「常常」「木木」のように書くことがある。こういう個人的で特殊なケースは興味深いが、やはり真似のできない部分で、参考にならない。


 自分は「~かもしれない」と書くときは「~かも知れない」と漢字で書きたくなる。ひらがなだと落ち着かず、そわそわしてしまう。これも傍から見れば無意味な癖かもしれない。

  

 そういえば、糸井重里のツイッターで、最近こういう発言があった。


  ↓


「この人のひらがなの使い方ほんと嫌い。。」と言われたので、世を儚んでいます。徹頭徹尾漢字のべんきょうをしてから仕事をはじめます。探さないでください。


 ↑


 確かにほぼ日を読んでいると、少しわざとらしいようなひらがなの多用、句点の多用(タイトルの後につける)が目立つといえば目立つが、嫌いというほどではない。


 ただ、そうすると「漢字の使いすぎ」「ひらがなの使いすぎ」のいずれもまずいわけで、スタンダードなちょうど良い加減を見極めるのは難しい。


 美的な感覚と、内容の軽重と、読む側の受け取り方と、様々な要素が入り混じっていて、スパッと決めてしまいましょう、とは言えない。


 特に漢字が多すぎもせず、ひらがなが多すぎもしない、ごくノーマルな文章の書き手はいるだろうか。個人的には養老孟司、佐藤雅彦の書く文章には良い意味で健全な普通さを感じる。


 昔の人だと鴎外の文語文を旧字旧仮名で読むと、いかにも古いという印象を受けるが、口語文を新字新仮名で読むと、今でもノーマルに感じられる。


 今回は漢字とひらがなについて、ぼんやり思うことを書いていたら長くなってしまった。次回はカタカナ表記について書いてみたい。

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