承香殿女御 壱
八宮 行律親王の語る
祖父はなぜ母を入内させたのだろう。
母は父である時の帝の四人目の女御だった。
母が入内する頃には、もっとも有力だった弘徽殿女御がすでに第一皇子を上げて、この方が次の東宮であろうと目されていたし、他にも更衣腹の皇子が四人いて、母の入内とほとんど同時に梅壷女御が六人目の皇子を産んだ。
私は父院の八番目の皇子にあたる。
つまり母が入内してから私を生むまでに、さらに一人皇子が生まれているのだ。
私のあとにも弟が二人生まれ、最終的には父院の皇子は全員で十人となった。
入内しなければ。
御子を生まなければ
せめて生まれたのが皇女であれば
母の在り方は違ったはずだ。
いつの御代もそうだと言うわけではないのだろうが、私が生まれた父院の後宮は弘徽殿を中心に、母の違う皇子皇女が当たり前のように自由に行き来していた。
もともとは二の宮が母君を亡くして父帝に連れ歩かれていたことが始まりなのだそうだが、二の宮が臣籍降下した後も、往来は自由なまま残された。
母はその事をとても嫌がった。
皇子のうち女御腹は四人。あとの六人は更衣の母から生まれたわけで 、実際に二の宮に続いて次々臣籍に下されていった。
母にしてみればそういう皇室に残ることも難しいような皇子と、女御である自分の生んだ私とをひとしなみに扱われたくはなかったのだろう。ただ、その頃の私にとっては、自分だけが弘徽殿に出入りする事を禁じられるのは辛い話で、母の目を盗んでは兄弟と遊んだ。
弘徽殿は素晴らしい遊び場だった。
庭の一部は子供が遊べるように開けた場所を作ってあったし、遊び疲れれば飲み物やお菓子も出た。そこでは母の身分と関係なく、兄弟は自由に戯れあっていた。
一の宮の兄上は私より十一歳も年上で、二の宮とも八歳違う。私が袴着を迎えるよりも早く、後に十宮を産んで立后する藤壺の宮が入内した。
藤壺の宮の入内を私は覚えていない。
私が物心ついた時には、藤壺の宮は厳然として父院の第一の寵姫だった。
後宮でもっとも重んじられているのは一の宮の母君である弘徽殿の方。
故人でありながら帝の寵愛を今も一身に集める二の宮の母君である更衣。
それだけでも勝ち気な母には耐え難かったのではないかと思う。
そこに、父院の寵愛もあつく、内親王という尊い身分の年若い藤壺の宮が加わったのだ。
母に勝ち目などあるはずがなかった。
いや、それでもまだ、数年の間は良かったのだ。藤壺の宮はなかなか懐妊なさらなかったから。
前の東宮が夭折され、一の宮の兄上が立坊なさった後は、女御腹の弟である私にも次の東宮になれる可能性があった。
東宮の、そして帝の母となれば、立后とまではゆかずとも、皇太夫人という尊称は手に入る。母がそれを望んでいなかった訳がない。
私より年上の六の宮は女御腹だったが、後ろ盾とすべき親類がなく、左大臣の猶子の資格で入内した母の生んだ、私の方が有利であろうと目されていた。
ところが、入内後数年を経て藤壺の宮が皇子生み、トントン拍子に立后してしまった。弘徽殿の方さえ頭ごなしにも飛び越してだ。まして母など対抗できるはずもない。
そのまま譲位のことがあり、次の東宮は当然のように十宮となった。
母がおかしくなったのは、父院が亡くなられた頃からだ。
十宮の後ろ盾であった二の宮の源氏の君が京を落ちたことで、いっそう拍車がかかった。
十宮を廃立し、私を立坊させる。
母はもう、それ以外のことは考えていなかったように思う。
母は美しく、賢く、勝気な人だった。
不幸だったのは父院の後宮には母よりも美しく、賢く、気性の強い女性がいたと言うことだ。
弘徽殿太后しかり、藤壺中宮しかり。
母は入内以来一度も、父院の強い寵愛を受けたことなどなかったのではないかと思う。母は常に、飢えて渇いたような気持ちでいたのだろう。せめて我が子を至尊の地位に押し上げることで、その飢えを、渇きを癒やそうとしていたのではないか。
そしてその望みの破れたとき、母の心も一緒に破れてしまったのだと思う。
入内しなければ
せめて私を生まなければ
母は別の幸せを探し出せたのではないだろうか。
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