二藍
暑い日だった。
そうでなければ御格子も御簾も巻き上げて、風を通すことなどせず、夕顔の絡む垣根越しにあの方を見かけることもなかったろう。
車の物見から覗く顔はよく見えなかったけれど、直衣を着ているらしいことと、その袖の色だけはわかった。
赤味のかなり強い二藍。
その色目を見た時に、右近は思い込んでしまったのだ。
殿が、お方さまを探しに来てくださっているのだと。
後々になって、何度も何度も自問した。
あの時あんな早とちりをしなければ、お方さまはきっと生きておられたろうと。もしかしたらお殿さまになんとか連絡をつけられたかもしれないと。そうしたら姫君をお方さまのお手元に戻して、ささやかに暮らしていけたのではないかと。
もちろん、今更考えても詮無いことだ。
右近は早とちりをしたのだし、他の女房たちも間違いに気が付かなかった。何より肝心のお方さまが、抵抗なくあの方を受け入れてしまわれた。
それでも
あの日があんなに暑い日でなければ。
あの方が直衣を召しておいででなければ。
何もかもがきっと違ったはずだったのだ。
「お方さま、きっとお殿様でございますよ。」
外からこちらをうかがっている風の公達の、直衣の二藍の赤みがかなり強いのを確認して、右近は慌ててお方様の部屋に走った。ひどくみっともないことをしているのはわかっているけれど、気にしてはいられない。
「殿?」
お方さまはこんな時にもおっとりとあどけない。それがお殿様の気持ちを鷲掴みにしたお方さまの魅力であるのはわかっているけれど、こんな時にはひどくもどかしい。
その辺に落ちていた
「お殿様は垣根の夕顔を見ておいでの様子でした。なぞらえて何か書いてくださいませ。」
お方さまは少し首を傾げると、さらさらと扇に歌を書きつけた。
心あてにそれかとぞ見る白露の
光そへたる夕がほの花
整ってはいるけれど、細い、どこか頼りなげな手跡だ。
その扇を受け取ると、右近は女童を呼び寄せた。扇に夕顔の花をのせて、車中の人に渡してくるように言いつける。
うまくいきますように。
お方さまの香の染みた扇に、お方さまの手跡。これでわからないはずはない。
そうは思っても不安が胸を焼いた。
車がお方さまを訪ねて門前に止まった時はどれほどほっとしたことか。
しかし、車中から現れたのは見慣れたお殿様ではなく、顔を覆面で隠した公達だった。
二藍という色は、歳を取るごとに青みを強くする決まりだ。そして直衣を許された公達は少ない。つまり赤みの強い二藍の直衣を着る公達はほとんどいない。
それが右近がはやとちりをした理由だった。結果的にその人はお殿様ではなかったものの、惜しむことなく潤沢な経済的支援を与えてくれたので、逼迫しつつあった財政を憂いていた使用人たちをほっとさせた。
正直に言えばお殿様は北の方への気兼ねが強く、その点ではあてにならないところのある方だったので、いっそ新しい方のほうが頼みになるのではないかなどと言うものもいる。
右近はその声に同調することは出来なかった。
右近は最もお方さまの、身近に使える女房だ。だからお方さまのもとに足しげく通ってくるようになったあの方が、閨の中でさえ覆面を取らないことを知っていた。
得体のしれぬ女に通うのに、名乗らない男は珍しくはないだろう。世間に知られまいと覆面を被る男もそれなりにいるのかもしれない。しかしさすがにその覆面を、女君と二人きりでの閨でまで、被っている男は多くあるまい。
赤味の二藍の直衣に、とても優美な物腰。経済的に相当裕福であるらしいこと。
それだけの好条件ではあっても、右近にしてみれば気味の悪さが先に立つ。調べればどこの誰なのかはすぐにわかりそうでもあったが、お方さまのが気にする様子もないのでは、先走ったこともしにくい。
そして気味が悪いということなら、自分が仕えている主の気もはかり難かった。
子までなした男と間違えて呼び寄せてしまった新しい男を、受け入れたところまでは経済状態なども鑑みての事かとも思えないではないが、覆面をつけたままの顔も知らない男に抵抗なく馴染んでいる様子なのは、右近にしてみれば不気味としか思えない。
右近の抱く気味の悪さは、他の使用人たちに話せば共感してもらえたのだろうが、右近としてはそうする事もできなかった。
気味が悪かろうがなんだろうが、現実を見つめれば新しい方の存在は有難く、簡単に切り捨てられるものではない。そうであればわざわざ見なくていい嫌なものを、朋輩たちに見せても仕方がないと思えたからだった。
ある夜、いつもよりも多い供を連れてあの方が現れた。
お方さまを連れ出して出かけるという。
お方さまはあの方の車に相乗りして、右近はお方さまの幾分くたびれた車を借りて供をした。
辿り着いた先は大変な古邸だった。
管理する為の人員が幾らか置いてあるだけで、長くまともに使われることがなかったらしい。なんとかあの方とお方さまの落ち着かれるための場所を用意するとの事で、あの方の供が走り回っていた。いつもよりも多かったのはこれが理由だったらしい。
形ばかり残っていた車宿りの、主たちの車に隣あって置かれたままの車中で右近は待った。
すぐ側に停められた車からは主たちが何やら物語りしているのが、途切れ途切れにきこえてくる。お方さまはこの状況を、怖がっておいでのようだ。
それ自体は無理もないとも思うし、右近自身なぜこんなあばら家にわざわざ足を運ぶのかと首を傾げてもいるのだけど、やはりお方さまの有り様には釈然としない。
お殿様の北の方が嫌がらせを仕掛けて来たときも、お方さまはひど恐れてすぐに身を隠してしまわれた。
それはそれでひどく臆病な方なのだと思えば不思議はないのだけど、それにしてはあの方を平然と受け入れたのがよくわからない。
右近なら、背の君を取り替えるよりも北の方に立ち向かうことを選ぶだろう。
正面きって立ち向かわないまでも、せめて窮状をお殿様に訴え、助けを乞うべきではなかったか。
やがて仕度ができたという事で、対の屋らしきところに通された。
形ばかり吊るされた御簾ごしに見てみると、荒れ果ててはいるもののもとは凝っていたらしい庭の造作に、ここが豪壮な邸宅の成れの果てであることが伺える。
その荒れ果てた邸に、淡い灯火に照らし出されたお方さまの、寂しげな美貌がよく映えた。どうやらお方さまを落魄の姫君に見たてようというのが、あの方の趣向であるらしい。
右近にしてみれば、こんな物の怪の巣じみた場所で趣向などと言って逢引をする気持ちがわからないが。
几帳や褥は持ち込まれていたので、しばらくすると御寝遊ばした。
浅い宿直の眠りの中で、右近は夢を見た。
誰かが見ている。
右近をではない。
お方さまを見ている。
眠るあの方とお方さまを見下ろしている。
女だ。
女の手がお方さまにのびる。
そして
「だれかある! 灯りを持て!」
鋭い声に打たれたように、右近は目を覚ました。
慌ててお方さまの側に駆け寄る。
あの方が几帳を倒し、御簾を払う。
外からざわめきが聞こえ、松明の明かりが差し込んでくる。
「お方さま、おかたさま、しっかりなさいませ。」
右近は必死に呼びかけていた。
揺らめく松明の灯りではお方さまの顔色もわからない。
びいいいん
魔除けの鳴弦が響く。
「気を確かに。」
覗き込んでくる知らない顔。
あの方だ。
あの方が、素顔をさらしている。
「お方さま、おかたさまっっ!」
右近にとって今はそんなことはどうでも良かった。
お方さまの様子がおかしい。
ちらちら揺れる松明の灯りのもとでは、自分の影すら物の怪じみて見える。
灯りが欲しい。
もっと灯りを。
松明が、灯火が、次々と灯される。
照らし出されたお方さまは、透き通るように白く。
息をしていなかった。
右近が混乱しているうちに素早くお方さまの弔いは済み、右近はそのままあの方のお手元に留められる事になった。
源光。
それがあの方の名前だった。
帝の愛児でありながら臣下に下され、今を時めく公達。
確かにあの二藍の直衣に相応しい貴種ではあったわけだ。
見鬼ではない右近には分かり様もなかったが、源氏の君には本来、暗いあやかしは近寄れぬのだそうだ。だとするとお方さまの生命を奪った出来事は、その例外的な事態だったのだろうか。
右近はそのまま長く源氏の君に仕えた。
長谷寺に詣でた折に相部屋になった女の顔に既視感を覚えて声をかけてみると、昔の朋輩だった。
お方さまの姫君の乳母をつとめて預かっていた女だ。聞いてみるとその姫君もいるという。
引き合わされた姫君は、匂い立つように艶やかで、華やかな美女だった。お方さまよりも父のお殿様に似ている。京でのつてを探していた彼らを、右近は源氏に引き合わせた。
あの姫君はどんな道を選ぶだろう。
美しくてもどこか日陰の花のようだったお方さまと違い、日向で華やかに咲くのに相応しい姫君に思えた。
年のころも二十歳かそこら。 まさに花も盛りの美しさだ。
源氏はあの姫君にきっと食指を動かすだろう。
長く仕えて源氏の心癖は知り尽くしている。あれだけの名花に心動かされぬ源氏ではない。
あの姫君はどんな道を選ぶだろう。
お方さまのような流されるだけの人生を送ってゆくとは思えない。
右近は楽しみに、姫君の事を見守っている。
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