第7話

「かえしてよっ」


 死確者が門扉に手を伸ばした時にもそう聞こえた。左の方からだ。


 家の敷地から出ると、姿が見える。ホノカちゃんがアロハシャツの男の足元にいた。握りしめた両手を体の側面に伸ばし、顔を上げている。


 やはり。「ボールのあの娘ですね」


 そう声をかけた途端、死確者は返事もせず、近づいていく。


 母親はくたくたによれている買い物袋と色の褪せたピンク色のハンドバッグを地面に置き、「すいません、すいません」と謝りながら、ホノカちゃんをどうにか退けようとしていた。


 だが、ホノカちゃんは頑として動こうとしない。これ以上は進ませない、と大きく手を広げて仁王立ちで立ち塞がっている。可愛い見た目に似合わず、頑固みたいだ。


「おかね、かえしてっ!」


 よく見ると、アロハシャツの手には、折り畳まれたしわくちゃのお札がある。確かではないが、うっすら見える一万円札にある肖像画が三人分見えた。


「ちっ、なんだこのガキ。邪魔くせぇなぁ」


「おい」


 死確者がアロハシャツに声をかける。辺りの皆の視線が、死確者一点に集まる。


「女子供に大の男二人で寄ってたかって、恥ずかしくねえのか、チンピラ」


「んだと?」


 アロハシャツの男は死確者に片眉ひそめて睨んでいた。


「てめぇには関係ねぇだろ。痛い目あいたくなかったら引っ込んでろよ、おっさん」


「おお、案外お前見る目あるな」


「あ、あぁ?」


「そうだ。じいさんじゃなくて、おっさんって言ったろ? 俺は白髪は多いが、まだじいさんってほどの年齢じゃねえ。ただ初対面の目上の人に、おっさん呼ばわりってのは、いただけねえけどな」


「訳わかんねえこと言ってんじゃねえよ」


 アロハシャツはずかずかと、死確者に早歩きで進んでいく。顔の前まで近づくと、「テメェ調子乗んなよ? 年寄りだからって容赦しねえぞ」と脅しをかけてくる。


「おう、あんがと」


「あ?」


「その方が助かるんだ。こっちも容赦なく出来っからよ」


 射るような死確者の視線に、相手の顔がこわばる。


「マキっ」


 壁際で寄りかかっていた男が割って入ってくる。紺地に白い縦線が入ったスーツを着ている。


「勝手にしゃしゃり出んなって、いつも言ってんだろ」


「へい」アロハシャツは一歩下がる。


「血の気多い奴でね。許したって下さい」


 死確者はスーツの男の胸元を一瞥する。そして、鼻で笑う。


「その紋、ミタカ組か」


 スーツ姿の男は胸元に一瞬視線を向けると、かけていたグレーの眼鏡を直す。途端、眉が近くなる。


「あんた……ただのカタギじゃないっすね」


「ただのカタギだよ、今はな」



 鼻で小さい一つ笑いを浮かべる。「成る程。なら、あなたも分かるでしょう。カタギには下手に手を出せないってことぐらい」


「お前さんは、彼女たちに手ェ出す理由があるって言いてぇのか」


「勘がいいですね」


 頭を少し引く死確者。「んで、理由は?」


「第三者のあなたに話す義理はないかと思いますが」


「じゃあこっちから話してやるよ。取り立てだろ」


 法外な利息で借りていた金を無理矢理回収しようと嫌がらせとかしてるやつか。あぁ、だからお金を返せと言っていたのか。


「流石は元同業者、よくお分かりで。なら、こっちだって仕事だということも分かって頂けるでしょう。無責任な旦那が飛んじまったら、残った家族に補填してもらうってのはウチらの常ってもんです。タダで飯食えるほど、社会の風当たりは……」


「いくらだ」


「はい?」


 えっ、ここで突然、海鮮?


「残りの借金はいくらだって聞いてんだ」


 ああ、幾らの方か……


 まさかの問いかけにヤクザは少し躊躇うが、「九百です、延滞利息全部含めてね」と、何故か少し声高に答える。


「そうか、ここで待ってろ」そう言うと、死確者は来た道を戻っていく。


 えっ、どこに?


 おそらくここにいた全員が思ったであろう。私も例外ではない。


 死確者が姿を消す。家の門扉を再びくぐり、こちらからは見えなくなったせいだ。


 一分ほど経った頃、死確者はまた姿を現した。手には分厚い封筒を持っている。どこかの銀行名が印字された、薄い緑色のデザインであった。


 スーツ姿の男に歩み寄り、封筒を胸元にぶつけるように渡した。


「これは?」


「流れで分かんだろ。お望みのもんだ。俺が立て替える」


 スーツ姿の男は少し目を開き、封筒の口を覗き込む。一束取り出し、親指で上からぺらぺらとめくる。


 続けて、中から全ての束を引き出す。帯の巻かれた一万円札が十束。

 こんな大金、不用心にも自宅に置いていたのか……


「一束多いようですが」


「それもやる。その代わり、一つ約束してくれ」


 スーツ姿の男は再び札束をしまった。「なんでしょう?」


「この二人にはもう二度と近づくんじゃねえ」


 スーツ姿の男は呆気に取られたように眉を上げると、少し口をとんがらせて悩む素振りを見せた。

 だが、ほんの数秒。すぐさま封筒をアロハシャツに渡した。


「まあ、こちらとしても金さえ手に入れば、構いません。お約束しましょう」


 スーツ姿の男は、頭を少し下げ、おもむろに後ろを掻いた。


「しかし、聞かせてはくれませんか。あなた、どこの方です?」


「聞きたいか? 聞かねえ方がいいと思うけどな」


 腕を組む死確者。


「後学のためにも是非」


「後学ねぇ」


 一笑すると、死確者は「花香はなか……て言えば、お前らでも分かるか」と続けた。


「は、花香……?」


 アロハシャツは動揺した声で、スーツ姿の男を見た。一方で、スーツ姿の男はじっと死確者を見ていた。


 その名前、私も聞き覚えがある。なんだったっけな……


「互いの若頭補佐同士、五分ごぶさかずき交わしてたろ。そちらさんの名前は確か、イノウエジンイチさんだったか」


「一昨年、組長を襲名致しました」


「ほぉ、そりゃあ偉くなったな。失礼した。今は手持ちがねえ。あとで花香の連中に祝金渡しとく。受け取ってくれや」


「それは、どうもありがとうございます」スーツ姿の男は頭を下げる。


「お前、頭キレる野郎だから分かってるだろうが、念のため言っとくぞ」


 死確者はにじり寄り、腰を曲げて顔を近づける。


「この二人には二度と近づくんじゃねえ。破ったら、ただじゃおかねえからな」


「……ええ。お約束致します。代紋にかけて」


 死確者は背を伸ばす。「その言葉、忘れねえぜ」


「では、失礼します」


「待て」死確者は声をかける。「そっちのアロハシャツ。借金はないはずだろ。テメェが奪った札、返せや」


 スーツ姿の男は、アロハシャツに目配せをする。小さく頷き、駆け足で死確者の元へ。そして、「さぁせんでした」と渡す。しわくちゃの一万円札は三枚あった。


 そうして、二人は踵を返し、去っていく。


「あ、あのっ……」


 二人の姿が見えなくなってから、母親は小走りで駆け寄ってきた。間にいた私は慌てて一歩、跳ねるようにして遠ざかった。


 死確者の前に来た途端、深く頭を下げた。手を握っていたホノカちゃんもその所作を見て、意味もよく分からない表情だったが、遅れて頭を下げる。


「お助け頂き、本当にっ、ありがとうございました」


 死確者は恥ずかしいのか、視線をそらした。


「いやぁ、やかましい若造にちょいと注意しただけだよ。礼には及ばん」


「その、お金は……お金は必ず……どんなことをしても必ず、お返ししますので」


「いらねえよ」


「え?」


「どうせもう、金なんか使わん」


 驚きのあまり目は見開いている。「あ、あんな大金、使わないなんて……何があってもお返しします」


「じゃあ、山程あるから、いい。そうだ。寄付だよ寄付。募金活動だ」


「そんな、寄付だなんて……」


 引き下がる母親。痺れを切らし、死確者は片眉を曲げなから顔を向けた。


「男が一度決めたことにごちゃごちゃケチつけんじゃねえよ。寄付と言ったら寄付なんだ、貰っとけ」


 死確者はふと隣のホノカちゃんに視線を向ける。


「俺はな、大人相手に仁王立ちで母親を守ろうとしたこの子の度胸に惚れたんだ。大した子になる。しっかり育ててやんな」


 膝を折り、ホノカちゃんと視線の高さを合わせた。


「ほらよ」


 取り返した例の一万円札を死確者は差し出した。ホノカちゃんは静かに受け取ると、じっとお札を見つめた。


「……どうした?」


 反応の薄いホノカちゃんに、死確者は思わず声をかけた。


「はい」


 ホノカちゃんは一枚抜き、死確者へ渡した。


「これは?」


「たすけてくれたから」


 死確者はフッと笑う。「……んじゃ、ありがたく貰うよ」


 受け取った死確者は、頭を優しく叩くように撫でる。くしゃりと笑顔に歪ませるホノカちゃんを見て、死確者の笑みはまた強くなった。


「それじゃあな」死確者はおもむろに立ち上がった。「もうボール入れてくんなよ」


「うんっ!」


 頷き交じりの返事。子供らしい元気さが含まれている。


 ホノカちゃんの肩に手を置いている母親と目が合う。死確者に向かって、再度頭を深々と下げた。


「元気でな」


 一言そう声をかけると、死確者は踵を返し、来た道を戻っていく。


「おじちゃん」


 呼びかけられ、肩から上だけで振り向いた。


「ありがとー」


 歩みは止めず、死確者は片手を上げた。その表情は優しい笑みで満ちていた。


「山程あるんですか?」


 私は少し後ろでついていきながら、そっと声をかける。


「いや」死確者はお札ごとポケットに手を入れた。「あれで手持ちはほぼほぼ全部だ」


「見栄張ったんですか」


「冷たい言い方すんなよ」


 死確者の声色はもう変わらなかった。


「だが、俺はもうすぐ死ぬ。どうせ取っておいても、お国に奪われるだけだ。だったら、自分の意思で有益に使ってやるって思っただけさ」


 歩みを止めずに、片手で門扉を開けた。今日だけでもう何度目だろうか。


「俺がアニキに助けられた話、だったよな?」


 だが、死確者は途中で手を止めた。


「ええ」


 死確者はもう片方の手を出す。その手には、お札が。


「まだ残ってるか」


「何がでしょう?」私は聞き返す。


「俺の時間。まだあるのかよ」


「えっ、あっ、えぇっと……はい」


「さっきの続き、話してやる。代わりに、一ヶ所付き合え」


「わ、分かりました」


 考える間もなく、私は頷き交じりにそう答えた。

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