第8話

 死確者は唇のくっついていた口をゆっくり開いた。

 家を越えて最初の角を曲がった時、ホノカちゃんたちの姿が見えなくなってからのことだった。

 

「アニキが俺を助けて死んだってところだったよな。そのきっかけは、親父が死んだって知らせを受けたことだった」


 親父……


「その親父、もとい組長というのは、先程のお二人との会話の中に出てきた方と同一人物ですか」


「いいや、別人だ。その前の組長だからな」


 成る程。同じような呼称が、受け継がれるように使われてしまうため、時折分からなくなる。


「だが、事故だとか、ましてや病気だとかでおっちんだんじゃない。そう聞かされていたが、違った」


「本当は?」


「殺された。しかも当時のうちのカシラ、つまり若頭にな」


 なんと……


「うちら花香組を裏切り、親父を殺しやがったんだ」


「不仲だったとか」


「昔気質で気難しかったが、人情には厚い人だった。不仲なんかじゃない。一方的に、寝返りやがったんだ。あの野郎」


「何故そんなことを?」


「縄張りや組の冠を、てめぇのもんにするため。端的に言えばそういうこった」


 成る程。


「親父の次には、敵対していたアニキやら、俺やらが狙われた。あの野郎はまでも亡き者にしようとしやがっていた」


 しようとしやがっていた。言い方が気になった。


「けど、ご存命ということは、向こうが失敗した」


「言うなら、させたのさ、アニキが。命を賭してな」


 死確者は僅かに視線を落とした。


「今思えばもっと別の方法があったんじゃねえかって思ってる。命を賭す必要のないやりようが他にもあった。あったのにだ、俺がとんでもねえ邪魔をして、ふいにしちまった」


「邪魔、ですか?」


「危険な目に遭わないようにと、アニキは俺を騙す形で東京に向かわせた。組同士の戦争、誰かが汚れ役を買って落ちをつけないといけない。その役目を俺がしないように、これから先もこの世界で生きていけるようにと、逃してくれたってわけだ」


 ほうほう。


「だが俺は俺なりに、アニキのその性格を見抜いた。だから、行ったふりして、一人で勝手に調べてたんだ。そしたら偶然、いやもうあれは運命の悪戯だな。うちと敵方、カシラ同士が仲良くのれんをくぐるところを見たんだ。組長が死んだってのにゲラゲラ喋ってやがった。直感的に思ったよ。こいつが親父を殺しやがったんだって。若造だった俺は頭に血がのぼり、身体を抑え込むことができなかった。無謀にも乗り込んで、まんまと捕まった」


 ん? これもこの話を聞いたことがあるような気がしていた。いやそれどころか、身に覚えがあるのは、気のせいなのだろうか。


 死確者は照り返す陽射しに目を細めた。


「あの日の天気は、今日と真逆。晴れどころか、寸前も見えねえぐらいに土砂降りの夜だった。バケツをひっくり返したようなってよく聞く表現がぴったりでな、歩くのもやっとなぐらいだった」


 雨……えっ、雨?


「敵方の組事務所で囚われている俺を助けに、アニキが来た。罠だったんだ。アニキを殺すために誘い込んだ。けど、アニキも馬鹿じゃない。当然、気づいていた。気づいた上で、乗り込んだ。扉を蹴破って、銃をぶっ放しまくった」


「それって……」


 私の声は無意識に大きくなっていた。


 雨、ヤクザ、組長殺し、事務所に乗り込む、アニキ……死確者から語られる諸要素が全て頭の中で結びつき、途端、かつての記憶を一つ呼び覚ます。随分と昔のことになる。だが棘のように、しこりのように胸の中に残っていたことだ。


「アニキは相手の組を……柳瀬組の連中をどうしたんですか」


「や、やったよ」 死確者は戸惑い顔で、若干身を引いていた。


「やった?」私は聞き返す。「それは死をもって償わせた、ということですか?」


「くどい言い方すんな。けどまあ、そういうこった」


 ということは……


「全員の心臓や眉間にそれぞれ一発ずつ撃ち込んで倒した」


「そうだったんですね……」


 長く心残りだったことがようやく解けた。絡まっていた紐が解けるように。


「にしても、どうした突然。感情的になりやがって」


「いえ」落ち着きを取り戻し、私は乗り出した身を引っ込めた。「こちらの話です。気にせず、是非続きを聞かせて下さい。その時のアニキさんは、どうだったんですか」


 本心であった。その続きを、長く知ることのできなかった終わりを聞きたかった。


「神がかっていたよ。一発も外せない中で正確に撃っていた。それに、身体中に銃弾を浴びて蜂の巣になりながらも、最後に残ったうちのカシラ殺すまで、まるで弁慶の如く仁王立ちで立ち続け、そんで撃ち続けた。全員死んだのを確認して、アニキは顔面から床に突っ伏した。慌てて俺が駆け寄って、体を起こしたが、そん時にはもう……」


 正直なところ、ある程度の確信はあった。けれど、確証はなかった。あくまで推論でしかない。直接目撃したわけでもないから、絶対というわけではない。


 あの時の私の小さな助言、というには弱くて細やかな発言の羅列なのだが、果たしてあの死確者・・・・・にとって意味のあるものとなっていたのか。無意味に混乱させただけなのではないだろうか。

 その問いに答えを与えられることのないままだったのだ。


 けれど、今、その答え合わせができた。

 それが正解なのかどうか、それは分からない。だが、しっかりと意味がある事に、所に、着地をしていたことに、私はようやく浮いた踵を落ち着ける気がした。


「もう少しだ」


 死確者の声かけで、辺りの景色が視野に一度に入ってくる。いつのまにか住宅街から四から五階建て程度の雑居ビルが立ち並ぶ通りまで歩いてきていたことに気づく。どうやら私は話に夢中になり過ぎていたらしい。


「ちなみに、俺の好物はもう知ってるのか」


「ええ」私は笑った。「麻婆豆腐ですよね?」


「下調べはバッチリってことか」


「ええ、まあ」


 好物について、下調べはしていない。資料に書いてはあるのだろうけど、見ていないし、見つけていない。


 しかし、今の私には分かる。だって、既にアニキから教えてもらっているのだから。


「好物のおかげでアニキに、変な呼び名付けられちまったのも、今じゃ懐かしいぜ」


「それ、教えていただけませんか」


「あぁ?」死確者は片眉を上げる。「何で言わなきゃいけねえんだよ?」


「気になるので」強面な表情に臆せず、私は微笑む。


「……嫌だって言ったら?」


 渋る死確者。


「自分から振っておいて、それは酷ですよ。殺生です」


「チッ、つくづく面倒な奴だぜ」


「よく言われます」


「……やっぱ嫌だ」


「えぇ? なんでですかぁ」


 つい口から出た声の調子は、ダダをこねる子供のようだった。


「恥ずかしいんだよ。アニキしか呼んでなかったし、死んでからはもう随分と長いこと呼ばれてなかったからな」


「いいじゃないですか。誰に聞かれるというわけではないんですし。それに、私は口が硬いらしいです」


「自覚ねえのかよ」


「噂で聞きました」


「しかも、ソースも不確かか」


 ソース?「黒い液体の調味料ですか」


「それは……ああもういい。うるせぇ。分かった、教えてやる。だから、とにかく、笑うな」


「はい」思わずごくりと唾が鳴る。


「……坊」照れ臭そう。死確者の声は小さかった。


「え?」


マー坊・・・だよ」


 やはり。彼はあの、マー坊だ。


 なよなよして小判鮫のようにアニキを追いかけていた面影は無い。だがそれは悲観的なことではない。

 成長という、私たち天使には体験できない、そして縁遠い、つまり喜ばしいことなのだから。


 しかしながら、まあこうも人は変わるものか。少しまだ信じられていない私もいるのだが、自ら名乗ったのだから間違いないのだろう。


 あの頃の姿で脳内の記憶が止まっている私にとって、ここまで眼光鋭く、それこそコワモテになっているなど、思いもしなかった。アニキとの話を聞くまで、結びつきすらしなかった。


 見違えるようになったのは、アニキが亡くなった後、彼なりに苦労して、そして成長したということの何よりの証。


 本当、人生というのは、何が起きるか分からない……


「おい」


 何故か死確者の声が背後から聞こえた。素っ頓狂な表情で振り返ると、十数メートル手前で、死確者は足を止めていた。


「どこ行く気だ? ここだ、もう着いた」


 おっと。「申し訳ありません」


 私は小走りで引き返す。


「やっぱ名前に引きずられてやがるじゃねえか。馬鹿にしやがって」


「馬鹿になんかしてません。ただ少し、昔を思い出していたので」


「なんじゃそりゃ」と言われたので、「こちらの話です」と返したら、「こちらが多い奴だな」と眉をひそめられた。


「とにかく、ここが言ってた、目的地だ」


 死確者が目を配ったのは、クリーム色の外壁がよく映える、四階建てのコンクリートビル。目立った汚れもなく、綺麗な色調をしていた。


 それぞれの階全てに飲食店が入っており、一枚の窓に一文字ずつ書かれたウィンドウサインや縦に並んだ色とりどりの袖看板が見える。一階は有名ファストフードチェーン店、二階には寿司屋とイタリアン、三階には中華がテナントで入っている。


「どの階に行くんです?」なんとなく察しはついているが、一応聞いてみた。


「三階」


 やはり。ということは、中華だな。何を食べるかについても……以下同文。


「ここの麻婆豆腐は格別でな。絶品なんだ。だから、最後の晩餐はここにしようと決めてたんだ」


 死確者は車輪のついた立て看板、おそらく夜になると下に伸びたコードから電力を引っ張って明るくなるものに腰を屈め、小さく書かれた営業時間を見つめる。


「ええっと」目を細め、文字を見る死確者。「大丈夫だ、定休日じゃない」


 そう言うと、死確者は奥に見える暗い階段へと再び歩みを進めた。

 軽く辺りを一瞥してみるが、どうやらこのビルにエレベーターは無いみたいだ。


 ここ最近特に顕著なことなのだが、ついつい楽な方を探して選んでしまう。まったく、歳なんか取りたくないものだ。

 若い時の年齢で、せめてその時の体力で止まってはくれないものか……


 そんな誰もが抱くが、悲しかな、叶うことはない願いが脳裏をよぎる。


 もし死神がこの場で聞いていたとしたらケタケタと、下手したら腹を抱えて笑い出すだろう。そして、人間ぶりやがって、と馬鹿にしてくることだろう。


 そんな叶わぬ願いと嫌な想像を脳内で巡らせながら、私は死確者のあとに倣って、階段の一段目に足を伸ばした。

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