第6話
「何か飲むか」
帰宅した死確者は、踵を靴底で弾き落とすように脱ぐ。
「いえ、お構いなく」
「ん」死確者は半身を後ろに向けながら、廊下を進んでいく。「じゃあ、適当に腰掛けててくれ」
死確者に指で促されるまま、私は手前を曲がり、居間へ。そして、言われるがまま、正座で待つ。
死確者は居間の外からぐるりと、廊下を回り、大きなビーズの編み込まれたのれんをジャラジャラ鳴らしながら、台所へと入っていく。
キッチンという洋風ではなく、昔ながらの和風。まさに、台所、という表現が適している。
台所は、居間から視認できる。冷蔵庫からビールを取り出している死確者がよく見えた。
銀色の缶を一つ手に取ると、その場で片手で開ける。プシュという炭酸が逃げる音が聞こえる。
アルコールに興味のない我々天使にとっても、美味そうであると感じさせる。上手いこと考えられていると、つくづく感心する。
死確者はコップを使わず、立ったまま一口二口三口と喉を潤した。「あぁ」と幸せそうな息を吐くと、死確者は冷蔵庫を閉め、居間へとやってくる。
そのまま棚の方へと向かう。上に無造作に置かれている薬の袋を掴む。中から錠剤を取り出していく。慣れた手つきだ。
手のひらが埋まる程の数を出すと、まとめて口に含む。そして、持っていたビールで勢いよく流し込んだ。
「老婆心ながら、お酒と一緒に飲むのは身体に悪いのでは?」
「別にいいじゃねえか」死確者は口元を腕で拭い、顔だけこちらに向けてきた。「どうせもう死ぬんだろ?」
そうか。それもそうだな。余計な気の回しだった。
死確者は私の右側で腰を落とす。意識か意識的か、テレビドラマを見ていた時と同じ定位置であった。
あぐらに直し、首の後ろをぽりぽりと人差し指でかくと、「んじゃ、話すか」と、宙ぶらりんになっていた昔話を再び手元へと手繰り寄せた。
「まだガキだった時だ。俺は、お袋と親父と三人で暮らしてた。すげぇ貧乏でよ、毎日飯と味噌汁と、よくて漬物。おかずなんて、滅多にない。家族で一個のコロッケが食卓に出てきた日には、止まらない腹の音をおさえるのに必死だった。逆に酷い時にゃ、近くの公園に生えてる食べれる草食ったなんてこともあった。風呂無しの部屋でよ、公園の蛇口で全身洗ってた。夏でも冬でも関係なく、温かろうが冷たかろうが、どうにかしのいでた。テレビで話してる貧乏自慢なんてのを羨ましがるほどの極貧生活だった」
死確者は両手で持っていた缶ビールに視線を向けながら、訥々と話していた。
「なんでそんな生活だったんです?」
「お袋が汗水垂らして働いても、親父が全部溶かしちまうからだ」
溶かす?
「溶解したということですか」
「ちげえよ。ギャンブルだ。ギャンブルに金使ったってことだ。競馬に競輪、競艇、パチンコ……ありとあらゆるもんに注ぎ込んでた。あの野郎。負けると機嫌がすこぶる悪くてな、俺とお袋に八つ当たるんだ。殴る蹴るなんてのは茶飯事で、身体中アザだらけ。不機嫌な時は玄関の戸を蹴る。壁を抉るようにぶつかる音は、未だに耳にこびりついてる」
「そんな酷いことをされてまで、逃げたりはできなかったんですか?」
「今となっては、すりゃよかったって思うよ。そうしてりゃ、お袋がプッツンと脳の血管切れて、俺が金稼ぐ前に死ななかったかもしれん。けどあの頃は親父が怖くてな。もし見つかったら……その後を考えると、逃げたくても逃げれなかったんだ」
右手で耳たぶをそっと触り、また缶を掴む。
「まあそんなんで、頭のおかしいギャンブル狂の親父が、借金まで作った。幾らかあったのか、詳しくは知らねえ。けど、親戚やら旧友やら闇金やら、当たれるとこ全てから借金してて、そりゃあ気の遠くなるような額だったんだと。挙げ句の果てに、闇金の借金を別の闇金から借りた金で返してたりもして、まあ最悪なやり方してたらしい。借りるだけ借りて返せなくなって、そんで首が回らなくなったら最後、小さい荷物を抱えて夜逃げして、踏み倒した。そんなクソみたいなことを繰り返しながら全国津々浦々、転々としたよ。東京から始まって、北は青森、南は鹿児島まで。皮肉なもんで、貧乏ってのに、本州縦断してやんの」
死確者は缶ビールを傾ける。一人喋りで渇いた喉を潤し、続けた。
「ひねくれにひねくれた生意気なガキになった大方はそのせいさ。クソみたいな大人しか見てこなかったってのもあるし、強くいなきゃ舐められて終わりだと思ったんでな。その時によ、俺は悟ったね。誰も助けちゃくれない、手なんか差し伸べちゃくれない、って。そう思って生きてた十四の……両手じゃ数えきれないぐらいに、夜逃げ続けた頃、あれは確か、熊本まで逃げていた夏だった。そうだ、夜中の丑三つ時の少し前だった。突然家のドアが蹴破られてよ、男たちぞろぞろと土足で上がってきた」
「借金取り?」
「ああ。他のトコから親父の債権まとめて買い取って、躍起になって探したんだと。で、ようやく見つけて、乗り込んできた。大阪からわざわざ、流石はヤクザ。生き霊もびっくりな、並外れた執念だよな」
「それで、お父さんは?」
「当然、ぼこぼこにされた。男たちが寝てる歳上の親父に遠慮も容赦なく、ただひたすらずっと殴られ蹴られ続けた。顔は傷と腫れ上がったアザと血まみれになって、腹は赤を通り越して青紫色に変色してた。時間にしてみればたった数分のことだった。だが、子供の頃の俺にとっては、果てしなく長く感じた。見るも無惨なほどもう死んだかも分からない程に力を無くした親父が虫の息になった時、部屋の隅にお袋に抱きかかえられてた俺は悟った。同じ目に遭うんだって」
缶からテーブルへと水滴が垂れた。
「けど、何もされなかった。正確にはされそうになったが、やめろと声を上げた人がいた。まだ若かったが、その中で一番偉かったんだろうな。皆、動きを止めて、その人が帰るぞ、と声かけたら、ぞろぞろ帰っていく。呆気に取られてると、俺に近づいてきて、しゃがんだ。同じ目線になって、こう言ってきた。坊主ええ目をしてるな、って。まさかの発言で、呆気に取られたよ。その人は親父を一瞥すると、こいつに暴力振われとったんか、って聞いてきた」
ものまねだろうか、その人のところだけ、妙に低く、声色を落とした。
「気づいたんですか」
「金借りに行った時、顔にアザや傷があったから、らしい。俺は正直に頷いたら、深いため息ついたよ」
そう言うと、また声色を変えた。
「金借りて暴力振るって、ホンマしょーもないやっちゃなぁ。けどな、坊主。こういう阿呆は、ウジ虫みてぇに湧いてくら。この世からはいなくならんのや。だからな、守るしかない。守れるようになるしかないんや。そしたら、答えはひとつ。お前が強くなるしかない。お前には強くなれる素質がある。ええか、守るために、強うなれ」
残ったビールを一気に飲み干すと、「あぁ」と声を漏らし、話し始めた。
「ただそれだけ言うと、その人は俺の頭をわしわしとして、すくっと立ち上がった。んで、何もなかったように帰ってった。お袋はまだ呆気に取られてたが、俺は違った。つい追いかけちまった。その後ろ姿は今でも克明に覚えてるよ。すげえ眩しくて、誰よりもかっこよかった。俺もああなろうと、理想の男像になったよ」
死確者は少し視線を上げ、懐かしい記憶を思い出していた。その目の輝きはまるで子供みたいであった。人間にとって、良い出会いというのは一生の宝となるのだな。
「ちなみに、お父さんは?」
「なんだ、親父の心配かよ」
「いやそう言うわけではないですが、お聞きして瀕死の状態だと思ったので」
「なんとか生き伸びやがった。そんで懲りずにまた逃げた。けど半年もしないうちに、ダンプカーに轢かれておっ死んだよ。赤信号渡ったんだと、千鳥足で」
千鳥足?
「久々に大勝したかなんかで祝い酒一人たらふく飲んでたらしい。ったく、轢いた人が不憫でならねえ」
「そうなのですね……」
もしかしたら、それにも天使がついていたのかもしれない。
「ん? そうか、死んだら親父に会うかもしれねえのか」
「まあ、可能性は、はい、十分にあります。もしかして、会いたいかったりします?」
「ンなわけねえだろ、死んでも会いたくねえわ」
「ははは、ご冗談を」これから死ぬというのに。
死確者は缶を握り潰す。「それはどっちの意味でだ?」
「ご想像にお任せします」
私は口角をつり上げ、笑みを浮かべた。
「それで、その理想の方とはそれからはもう?」
怒られそうだった私は、話題を変える。
「いや、ちょいちょい。いや、俺から会いに行っていた。事あるごとに、侠気に惚れたから弟子にしてくれ、と頼み込んでた。数多いる債務者の、しかもその家族だからか、アニキは俺のこと覚えてなかった。そりゃあ邪険に扱われたもんだよ。最初は帰れ帰れしか言われなかった」
「借金取りは?」
「別の奴。アニキが来たのはその夜中の一度きりだったな」
ほう。
「その後、借金は親父にかけられてた保険金でどうにか返せた。だが、俺はまだ諦めきれなかった。しつこく何度も。タチの悪い追っかけなんて生易しいもんじゃない。今思えばありゃもうストーカーだ。懇願し続けたら、雑用でもよければいい、と雇ってくれた。それからはまあ厳しい毎日の繰り返し。だが、片足突っ込んだんなら、やるっきゃない。必死に食らいついたら、ある日認めてくれてな、親父に頼み込んで弟子にしてくれたんだ」
嬉しそうに回想しているのが表情に出ていた。
「それから俺はひたすら、コバンザメのように、アニキについていった。はぐれるのが怖い、バカ真面目なガキみたいに、毎日一緒にいたよ。だからよ。そんなアニキや穂乃果やお袋に会えるんだったら、死ぬのなんか別に怖かない」
そうか、あっちに知り合いがいる、というのはそういう……ん?
「ということは、そのアニキという方はもう……」
「ああ、明美と出会う少し前のことだ。俺を助けて死んじまったよ」
えっ?
「助けた、というのは?」
「なんだ、随分質問の多い天使だな、お前は」
「す、すいません」
死確者の言葉にどこか引っかかっていた。それに、なんだろうか、この心のざわめきは……いや、天使に心臓は無いのだが、胸の辺りがこう、ふわふわしている。
その先にある答えを知りたい、私には知らなければいけないような気がしてならなかったのだ。
「あれは確か……」
死確者が虚空を見る。
「かえしてっ」
不意に女の子の叫び声が聞こえた。外だ。その声色は聞き覚えがある。
「今の……?」
身体をずらし、私の奥を覗き込んでいる。どうやら死確者にも聞こえていたみたいだ。
「ええ、聞こえました」同時に、その声色に心当たりがあった。「あの声って、もしかして……」
死確者はおもむろに立ち上がった。その所作は語らずとも、行くぞ、と私に訴えてきているように思えてならなかった。だから遅れて、私も立ち上がる。
私は玄関へ、いやその向こうの外に出ようとしている死確者の後ろに続いた。
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