天使とコワモテ
第1話
私は今、一軒家の前にいる。
正確には、黒い門の前。玄関までは円形の平らで小さな石畳が五つほど歪に並んでおり、少し距離がある。
死確者の住む家は古民家と呼ばれる。今の時代、なんとも珍しく、価値が高い。
学生たちが使う社会の教科書や資料集に、日本の家屋はこんな変遷を辿ってきました、という風に扱ったページがあれば、ほぼ間違いなく登場するだろう。
とまあ、聞こえの良い言い方をしてきたが、悪いけれども正確な言い方をすればかなりのおんぼろである。
赤い屋根は所々錆びており、穴が空いていないのが奇跡というぐらいに劣化している。外壁は、昔は綺麗な白だったのだろうが今やその姿を見る影すらない程までに、酷く汚らしい茶の色を……いや、こんな言い方はよそう。まだ顔さえ見ていない死確者の自宅なのだから、失礼にあたる。
死神から事前に貰った資料から、頑固者で気難しい男性だと知っている。近所の子供達からは、コワモテ、というなんとも直接的な悪口にあたる呼び名で、暗号の如く交わされている。
下手にこんなことを言ってしまったり悟られてしまえば、滞ってしまうことは違いないだろう。私は余計なことを言ってしまいやすい性格だ。いつも以上に気をつけていかないと。
私はため息をつく。今は昼前。鉛色の雲で空は覆われているものの、朝から続く気温のせいで、地面からは微かに陽炎が上がっていた。
毎年思うが、夏の気温は下降する気配を見せない。むしろ上がり調子だ。太陽だってほら、まあ今は見えないけれど、どこか主張を激しくしている気がしてならない。
とはいえ、私は暑さなど感じない。天使の特徴というべきか、他にもいくつかあるのだが、気温には一切左右されない。けれども、私はあまり夏が得意ではない。
理由は、コンクリートに反射する太陽の光が眩しくて厭だから。とはいえ、勘違いして欲しくないのは、陽の光は好きだということだ。
しかし、ほら、何事にも限度はあるというもので、夏の酷さは思わず眉間に皺が出来てしまう。人間と同じで、疎ましい。
早く出てきてはくれないだろうか。上の方のネジが緩みきった壊れかけの
そのうち一回は、まさか他人の家ではなかろうか、と思い門の隣にある表札を慌てて見たりもした。
ステンレス板に黒い文字で“
にしても、家の外観とは似つかわしくないほど、妙に真新しいな。買い替えたりしたのだろうか。
いやいや、そんなこと考えてる場合じゃない。反応がないということは、不在だということなのだろうか。
資料には、近所の人との交流を避けている上に無趣味なため、殆どの時間を自宅で過ごしているとあった。とはいえ、買い物だったり気分転換に外出する時は人間にはあるはず。いないことだってあるだろう。
もしくは……居留守?
自分が何者であるのか、何をしに来たのか。説明することがスタートなのだが、そもそも会えていない。出鼻を挫かれるどころか、出鼻自体ないような事態。
この感じ、たった二日でということも加味すると、未練を解消するのは難しいかもしれない。未練解消のために長いこと奔走してきた。資料の表現の仕方や現地の雰囲気で難易度は予想がついてくる。私たち天使の仕事は経験がものを言うのである。
……出てこない。
次で最後にしよう。これで反応がなければ、探しに行こう。よく行くスーパーだとかご飯屋さんとかが資料に載っている。手当たり次第、端から探して……
ガラガラと、引き戸の玄関が開いた。顔を出したのは死確者。何故か淡青なチェック柄のシャツと黒のステテコを着ている。夏だというのに、上のシャツは手首辺りまである。まあ、白のロングコートを着ている私が言えた義理ではないが。
死確者の髪は白くなっていた。染めたわけではない。いわゆる白髪だ。黒に白混じりではなく、白に黒混じりにといったほうが適切ではないかと思うほど。
まあ、五十という年齢を加味すれば当然なのかもしれない。医療の発達で今は著しく長くなったが、戦国時代には人生五十年という言葉があったと聞く。寿命とされていた年齢だ。
訝しげな眉のひそめ方。何より、眼光が鋭い。右側の額からその口元近くまで縦に深く入った傷痕が、その鋭さを際立たせている。見てくるのは片目だけだが、これまでに担当してきたどの死確者よりも突き刺さってくる視線であった。常人ではないという、怖さと凄みを感じさせる。
ああ、そのせいか、生活感の溢れた格好をしているというのに、どこか浮世離れというか、俗世間から乖離しているような雰囲気があるのは。
こんなだというのに、コワモテだなんて意外だ。確か、妙なまでにニヤついていた死神が、
そんな風に呼称されるとは到底考えられないのだが……いやいや、いかんいかん。こんなのは悪口と捉えられかねない。というか、見た目だけで判断した、完全なる悪口だ。人は見かけによらない、良くも悪くもこれまでそう思わされることを多々経験してきたじゃないか。改めなければならないぞ、この気持ち。
履き古した緑色のサンダルの死確者。パタパタと半分引きずるような足音を鳴らしながら、死確者は履き古しの緑色のサンダルでこちらは歩いてくる。途中の石畳は無視し、小さな庭をずかずかと抜けてきながら。
相手にしっかり聞こえるよう、私は少し声を張り上げた。「突然申し訳ありません。私は」
「お役所の人間、じゃあなさそうだな」
頭から足元まで凝視してくる。ポケットに入れている手が微かに震えているのは、過剰にアルコールを摂取した者の中毒症状によるものだろうか。
「そんな白ばっかの服着てくるはずがねえ……何モンだ?」
「私は」
「カニモトか」
「はい?」甲高い声が出る。
「だったら、エビハラか」
「わ、私の名前を尋ねているのでしょうか?」
連発する聞き覚えのない固有名詞に戸惑いを隠せなかった。知り合いの名だろうか。
「とぼけるな。なら、ヒラマサか」
「いえ、私は」
「まさか……ウミヤの残りじゃ」
「あのっ!」
とめどない甲殻類と関係の名前を遮る。死確者は不機嫌そうに片眉を上げる。どうやら耳が遠いというわけではなさそうだ。
「話、聞いてもらえます?」
名前の連呼が止まる。遠くからは分からなかったが、額や頬、目頭に細かな皺ができてはいるものの、五十九歳という実年齢よりも若く見えた。
「私は、天使です」
「……あぁ?」
不機嫌な表情は濃くなる。
「あの、その、ええっと、天使というのは名前じゃなくてですね、天からの使いと書く、天使です。エンジェルです。あっ、名前ではなく、いわゆる天使でして。ちなみに固有の名前はありませんので、お好きに呼んでいただければと」
喋り終えてから、しまった、と思った。一度に伝えた情報量が多かったからか、加えてまくしたてたせいで、死確者は黙ったまま。けれど、不機嫌な表情は最高潮に濃くなっていた。
さあ、どうしようか。返答が無いと困る。どう思っているのか知る手立てがないからだ。となると、もう察するしかない。私はその点、疎いことでその界隈では有名だ。
死神に、鈍感の極み、だと言われた。しかも、ついこの前。昔から直らないのだよな、これに関しては。
「てこた、何だ?」長い沈黙の後、口を開く死確者。「わざわざ
「いや、そうじゃ……えっ?」
視線を少し落とした私は、すぐさま死確者を見る。
「なんだ、違うのかよ」
「あっいや、まあ一応正確に言いますとお迎えに上がるのは別の担当の者が行うのですが……えっ、その、私のこと信じてもらえるんですか?」
「なんだ、嘘ついてるってのか?」
「い、いいえ。全て本当のことです」
「だったら、信じるだろうが」
まさかの回答にしどろもどろ。たじろいでしまう。
「ほら、そこいられると人様の迷惑だ。いつまでも突っ立ってねえで入れよ」
死確者は門扉に手をかける。
「あっ、私は他の方には見えないので」
「じゃあ、俺の迷惑だから、入れ」
死確者は手前に引っ張り開けると、好きに入れた言わんばかりに玄関へと戻っていく。遠ざかる後ろ姿。確かに見えているのに、私は動けなかった。
「ど、どうしてですか?」
振り返る死確者。「どうしてって何がだよ」
「いやその……」
折角掴んだチャンス。不快にならないよう言葉を選ぼうと考える。だが、口を開いたのは、死確者の方だった。
「こんな偏屈ジジイに話しかける物好きはもうこの世にはいない。知り合いも尊敬する人間も。だからよ、会ったことないやつから話しかけられるんだったら、それはもうお迎えに来る天使ぐらいしかいねーと思ってた。それだけだ」
なんだ、話が早いではないか。スムーズにいきそうで、良かった良かった。
「俺はどうせ、ガンで死ぬんだろ」
「申し訳ありません」
「医者からもう近いって言われたからどうせそうだよ。ま、とにかく死ぬことは違いないんだろ?」
「はい」
「そうか。ま、立ち話もなんだ。家、入れや」
死確者は玄関へ戻っていく。
「では早速、お伺いしたいのですが、未練は?」
「未練?」歩みは止めない。
「私は人間のみなさんの未練を解消するために現世に来ているんですよ。少しでも何かあればお手伝いを」
死確者は立ち止まる。「んなもんねぇよ」
「え?」私の眉が上がる。
「だから」振り返る死確者。「未練はねえ」
それだけ言うと、そそくさと家の中へと入っていった。
撤回しよう、話は
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