第10話

 口が開きっぱなしであることを感じながら、とりあえず受け取った。


「いつのに書いたんですか?」


「一緒に回っているあいだです」


「はい?」


「ほら、パソコン広げてたでしょ?」


 そういえば……脳内でスライドショーのように、料理を待っている間にパソコンを開いたことや帰りの車の中で書いていた時の映像が切り替わる。


「何故、私に小説を」


「短編執筆の依頼がありましてね」


 死確者は申し訳なさそうに訂正をした。


「数週間前から執筆していたんですが、どうもしっくりこなかったんです。単語が平仮名が一文字一文字増えていく度、鉛のような違和感が心に芽生えました。完成に近づけば近づくほど、重く大きくなっていきました。次第に、吐きそうなほど嫌になってきてもうダメだ、断ろうと諦めかけた時、天使さんが現れた。そして、死ぬことを伝えられた。それでようやく気づきました。今の自分が書くべきものは何か、そしてそれこそが誰にも書くことのできない、自分だけの話だと」


「なら、その完成間近のお話は?」


「捨てました」


 あらら。


「後悔は?」


「気にくわない小説でしたので、ありませんよ。これっぽっちも」


「そうですか」それなら、良かった。


「いやはや今日ほど、速筆であることに感謝したことはないですよ。間に合ってよかった」


 死確者は表情を和らげた。満面というよりかはにやり。笑みというよりはしたり顔。


 私は紙の束に目を向けると、死確者は「ストーリーは」と説明を始めた。


「この数日間の天使さんとのやりとりを描いた会話劇です。小説的に多少脚色をしてはいますが、そこは目を瞑って頂ければと思います」


 そうか、車内での過去の死確者の話をしてくれと言ったのは、そして話している間もパソコンを打っていたのは、このためだったのか。さしずめ、過去の話はその参考といったところだろう。


 ん?


「題名は?」


「ないです」


 自然と眉と顔が上がる。「決まらなかったんですか?」


「いや」死確者は首を横に振った。「今から決めるんです」


「え?」


「もっと言えば、今から、天使さんが、決めるんです」


 したり顔の死確者に、またしても口が開けっぴろげになる。もう少し開けたら、顎が外れてしまいそうである。


「……なぜ?」


 沈没した船からプラスチックゴミが海面へと上がっていくように、自然と浮かんできた疑問だった。


「お詫び……ですかね」


「お詫び?」


 つい繰り返す。されるようなことに心当たりはなかった。


「なんのためか言わずに私は、あっちこっちへ振り回しました。だからそのお詫びとお礼を兼ねて、僕の第二の子供とも言える小説のタイトルを付けて頂こうと考えたんです」


 さらに「表紙にもある通り、仮のタイトルは決めてありますが、あくまで一応ですから」と言葉を追加する死確者。


「しかし、私のような教養のない者がタイトルなんか付けてもよろしいんですかね……」


 疑問よりも不安が前に出てきた。


「ええ。登場人物のモデルなんですので。いや、登場天使、の方が正しいですかね」


 腕を天井へと伸ばし、体を軽く左右にひねる。


「名前とか付けるの初めてでしょ?」


 私は思わず唇を巻き込んで、口を閉じた。実は、名前を付けた経験はある。それこそ数時間前に見た“天使のたまご”の名前を付けたのは私だ。


「あれ? もしかしてありました??」


 閉口していた私の顔を覗いてきた。私は意を決し、死確者に顔を向けた。


「いえ、ありません」


 悩んだ末、私は嘘をつくことにした。はじめてついた嘘である。嘘をつくことは罪ではないか、そう指摘されたら、素直に認める。

 けれど、私のために用意してくれた思いやりに無下にしたくないという気持ちが勝った。思いやりは思いやりで返さねばならない、そう強く思ったのである。


「良かった」


 死確者は目の端に皺を寄せ、口元や頬を更に緩ませた。その笑顔を見て、私の判断は間違ってなかったと感じる事ができた。つられて私の口角も自然と上がった。


「それじゃあ、出版社に向かいますか」死確者は背伸びをする。「いつまでも残業させるのは申し訳ないので」


 ふと、あることに気づく。


「これを出版社に持っていく?」


「ええ。同じものを刷ってあります」もう一つ用意した紙の束を見せてきた。


「なら、時間あまりないですよね?」


「到着するまでですね」


「何分ぐらいです?」


「30分ほどですかね」


「さ、30分……」


 あまりに短過ぎる。これが俗に言う、無茶振り、というやつか。聞いていた通り、無茶な役割を振ってくる。とはいえ、不快な気はしなかった私は早速視線を落とした。


 クリップやホチキスで止められていない紙の束が膝の上に乗る。もし仮に外で手を離してしまったら、冬の乾いた強風により、遥か遠く方々へ飛ばされてしまうであろう。そんな四散してしまうようなものはそもそも本とは呼ばないなどという指摘をするのは、しかしながら野暮である。いや、無粋ともいう方が正しいか。形などは関係ない。どんなに見た目が違っていても問題ない。そのもの自体に本物の気持ちが込められていれば、寸分違わない本なのではないだろうか。


 私にとって、膝の上の紙の束は確かに、紛れもなく“本”なのだ。


「どうしました?」


 死確者に声をかけられ、私は意識を戻す。私は少し顔を上げて、「いえ」と軽く応える。そして改めて、今度はしっかりと視線を落とした。


 そうだ。物思いに耽っている場合ではない。与えられた時間は僅か。急がねば。私にはまだ残っているのだ。名のない小説に、題を付けるという仕事が残っている。


 時間的な要素と死確者にとって最期の小説という状況的な要素が合わさり、私はこれまでに体験したことのない騒めきを胸や脳内で感じていた。相当な緊張をしていることも同時に感じ取っていた。心臓はないけれど、心拍数が上がる感覚があった。けれど、それと同等、いやそれ以上に私の体を楽しみな気持ちが駆け巡っていた。


 どんな物語なのだろう、どんな景色が描かれているのだろう、どんな風に私が存在しているのだろう、私の口調や話した内容がどのような表現を経てこの中に収められているのだろう--一秒一秒、読みたいという気持ちが高まっていく。


 この世にもあの世にも、まだ存在していない小説だ。誰よりも早く読むことができる、正真正銘、最初の読者だ。全く分からない。読めない。だからこそ、知らない世界への期待に心踊らせ、自然と弾んでいた。


「では、読ませて頂きます」


「どうぞ」


 まるで合図を待っていたかのように、車は動き始めた。


 私は本の一枚目を、“使(仮)”と大きく書かれた表紙を、ゆっくりとめくった。

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