第6話
ガタガタと音が後ろで聞こえる。
私と死確者は視線を向けた。建て付けの悪いすりガラスの戸がゆっくりと開く。
「できたぞ」
町田さんは脇に置いていた大きなお盆を持って、縁側へ降り、サンダルに足を入れた。
慌ててパソコンを片付ける死確者。町田さんは近づき、空いた箇所に青い菊模様が描かれた皿を置いていく。
「まずは、ムニエル」
切り身のイトウに白いクリームがかけられ、レモンとパセリが添えられている。
「次はカルパッチョ」
薄く切ったイトウをオリーブオイルと切ったトマトに合わせたものだ。
「で、マリネ」
野菜が沢山入っている以外カルパッチョに似た見た目のもの。
「あと、余ったから唐揚げにしてみた」
こんなに作って、1時間経っていない。料理について詳しいわけではないが、独りで調理していたとは思えない早さだということは、素人の……
「久々に作ったから、味の保証はできない」
「いや、見た目から分かります。絶対美味いです」
死確者はバッグから財布を取り出し、「ありがとうございました」と一万円札数枚を掴んだ手を前に伸ばした。
「いらん」町田さんは押し返した。「店を畳んだ俺は、コックでもましてや料理長でもねえ。ただの一介の料理好きだ。そんな一般人がやったことで、金は取れねえよ」
「ですが……」
それでも、死確者は払おうとする。今度はゆっくりと手を伸ばしていく。
「あんたも頑固だな」町田さんは片眉を上げた。「なら、褒美ってことでどうだ」
「褒美?」
「今じゃ滅多にお目にかかれないイトウを釣ってきたことへの褒美だ」
町田さんは微笑んだ。あれだけ無表情、というか怒り顔だったのが和らいだ。笑みは時間も度合いもほんの少しだけだったが、なんとも嬉しい気持ちになった。
「……分かりました」死確者はお札をしまった。
「にしても、朝来た時からずっとやってたのか?」
「ええ」
「よっぽど食いたかったんだな」
「ええ、最後なので」
一瞬、町田さんは目を開き、言葉を詰まらせた。何かを悟ったように見えたのは気のせいだろうか。
「……そうか」
一言だけ発するとそれ以上詳しくは聞かなかった。ただ静かに左手をポケットに入れて、背を向けただけだった。
「用が済んだなら、早く帰ってくれ。俺はこれから遅れた分取り返さなきゃならないんだから」
「ありがとうございました」
死確者はその後ろ姿に深々と頭を下げた。町田さんがすりガラスの奥に姿を消したその時までずっと同じ角度で下げ続けた。言葉では言い表せない、心よりの感謝の意を精一杯伝えているように感じた。
「私も持ちますね」
「お願いします」
私は帽子を整え、人差し指を軽く振った。料理を持ち上げる。
「おお、凄いな」
数十年前から起きていることではあるが、技術革新や発達により、天使しかできなかったことが普通に一般的にできるようになってきた。そんな今でも、やはり空中浮遊させることは物珍しいようだ。
それに、このように褒められたり感心してもらえると、嬉しくなる。ここ最近はより貴重な台詞でもある。思わず、「これぐらい序の口です」などと必要の無い言葉が出てきてしまうほどだ。
「では、行きましょうか」
死確者は振り返り、入ってきた玄関の敷居を跨ぎ、外に出た。
「確認なんですけど」
疑問に感じたことを尋ねる時は奇しくも、石畳の階段の一段目を踏む時と同じであった。
「町田さんって昔、レストランを経営していたんですよね?」
「経営……とは少し違いますね」死確者は階段を一段、また一段と降りていく。「料理長です。フレンチレストランの料理長。経営自体は別の方がやっていました」
あとに「しかも、ただのレストランじゃなく、ミシュラン三つ星の料理長です」と付け加えた。
「そんなに凄いんですか?」
ミシュランというものを知らなかった私だけれども、揚々と言う格好からして、凄さの察しはついた。
「本当に美味しくて見栄えも良くて、とにかく料理における色々な総合点が高いお店でなければ、与えてもらかことのできない世界に通ずる称号です」
「世界に通ずるですか。それは凄いですね。とても凄い」
緩い半円形を描いた階段を降りていく。
「では、相当美味しいんですね」
「はい、かなり美味しいです」
死確者は荷物で重くなった体のバランスを、足元を見ながら進むことで取っていた。
「でね、まあ自慢じゃないんです。じゃないんですけどね、実は僕、星が付く前に行ったことがありました。その時の味にとても感動して。それからというもの、何か自分の人生において大事なことがあったり大きな試練を乗り越えたりした時にだけ食べに行ってます」
「普段は行かないんですか?」
「美味しい分、お値段もするのでね」
「どれくらい?」
「目を見張る……いや、目が飛び出すぐらい。毎日行ってたら半年もしないで破産しちゃうくらいです」
頬を緩めた死確者は階段を降り切り、地に足をつけた。続けて、車のある方へと歩みを進める。
そうか。
「なら、今はもうそのレストランはない?」
「いいえ、あります」
ん?「ちなみにですが、お店の場所は」
「都内です」
うん。であれば、尋ねよう。
「ならなんで、お店のほうで頼まなかった……」とまで話し、私ははっとする。「断られたんですか?」
問いかけに死確者は、「いいえ」と首を横に振った。「少し前に出版が決まった時に食べに行ったんですけど、なんかね、味がちょっとだけ違ったんです」
「味?」
「不味いわけじゃないです。一緒に行った担当編集者の田中さんは美味しそうに食べていました。私自身ももちろん。けれど、最初の何かが違ってたんです。些細ではあるけれど、最初に食べた時の味と何かが決定的に違った。大変美味しかったのですけど、あの時のような満足感は得られなかった。色々調べたら、料理長が変わっていたことを知りました。とにかく怖くて味にうるさい方だったそうです」
車の後部座席に近づくと、触れてもいないのにひとりでに開いた。持ち主である死確者ということをセンサーか何かが識別し、鍵のロックを外したのだろう。
「それがあの?」私は振り返って、工房を見た。
「ええ」
成る程。だから地方の、それも舗装されていない山道を、わざわざ3時間もかけて走ってきたというわけか。
死確者は貰った料理を座席に置いてあったバッグに近づける。肩から下げているのよりも遥かに大きく、内側が銀色で反射する何かで埋め尽くされていた。その中に丁寧に積み込んでいく。持っていたものを積み終えると振り返り、空中浮遊している料理に両手を伸ばす。が、直前で止める。
「手に取っても?」
「大丈夫です」
静電気でも走ると思ったのだろうか。私がそう言っても、死確者はゆっくりと、恐る恐る掴んだ。何も無いことを身をもって確かめてから、ふぅと息を吐く。料理を後ろに積んでいく。2つ目以降は円滑だった。
「これでよし」
所狭しと中に並べられたバッグの蓋に付いたファスナーを囲むように動かして閉め切る。その後、シートベルトを着けさせた。ここは少し古典的であるが、料理の形を崩さないためにも必要だということなのだろう。
扉を閉めると、今度は死確者自身が車に乗り込んだ。行きと変わらず、運転席。
「そろそろ、未練について教えていただけませんか」
私は助手席に乗り込んですぐ、死確者に顔を向けた。
「もう少ししたらお話します」
ということは、今はまだということか……
「ならばせめて、次はどこにいくかだけ、流石に教えてはいただけないでしょうか」
「それならいいです」
死確者は車のエンジンボタンに人差し指を近づける。
「来た道、戻ります」
ということは、同じ道を3時間かけるのか……
ボタンに人差し指が触れる。途端に、車のあらゆるところが一斉に動き出した。
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