第5話

 緑草の上に造られた白い石段は妙に目立っていた。十五段を登り、玄関の前で立ち止まる。焦げ茶色の引き戸式の雰囲気がなんとも日本らしさを醸し出していた。

 閉め切られた扉の奥からは、金槌で金属を激しく叩く甲高い音が聞こえる。


 死確者は肩にかけたクーラーボックスの長い白紐に手をかけた。外そうと首を軽くすくめる。

 四角い輪郭をはっきりさせた黒いショルダーバッグに少し当たり、揺れた。ウインドブレイカーが再びしゃりっと鳴る。


 扉を開けた。勝手に開けていいと許可は得ている。

 鼠色のコンクリートと左側に置かれた小さなテーブル、壁際じゅうに乱雑に並べられている物々が姿を表す。そして、目の前には小さな縁側とすりガラスが。縁側の下には靴が置かれている。すりガラスの奥が部屋と繋がっているのだろう。


「町田さーん」


 流石に中には入ることは気が引けたのか、開けた場所で立ち止まって、死確者は叫んだ。だが、金槌の音は止まない。聞こえてないらしい。


「例のもの持ってきましたぁー」


 より大きな声で叫んだ。直後、金槌の音が止み、静寂が訪れる。

 ほどなくして、木の床がぎしぎしと軋む音が聞こえてきた。我々がいる鼠色のすりガラスの引き戸に人影が映る。

 音を立てて開く。立て付けがあまり良くないのか、スムーズには開かなかった。


 中から、町田さんが現れた。短く整えられた白髪に黒い髪が混じっており、髭を口じゅうに散らばらせている。姿は朝会った時と変わりない。

 けれど、服装がねずみ色の工務用の服という先ほど来た時とは少し異なっていた。外にいる時に聞こえた音と合わせて考えるに、彫刻の作業をしていたのだろう。


「入れ」


 町田さんは顔を後ろに動かす。貫禄のある深い声だ。促され、死確者は足を踏み入れる。町田さんのいる小さなテーブルへと進み、水色のクーラーボックスを置いた。


「約束の、イトウです」


 死確者は中から魚を出して、両腕で抱きかかえる。指の隙間からは水が滴っていた。


 ふと昔、そのような苗字の人を担当したことがあることを思い出した。そのため、「そうか。彼が転生したのは魚だったのか」と思った事は私の胸の中に止めておく。笑われるだけな気がしてならなかったからだ。


「1メートル……超えてるな」


「それが条件でしたので」


 イトウが激しく動いた。ずっと隙を探っていたのだろうか、死確者が会話に集中した途端に暴れ出した。


「おっと」


 死確者は手に収まらないイトウを懸命に抱える。逃さないように必死である。


「もういい、戻せ」


 お言葉に甘えて感満載で、死確者はイトウを戻し、蓋を閉める。


「まさか本当に持ってくるとはな……」


 町田さんは右手を額から後ろに移動させる。苦々しい顔だ。


「すいません、どうしてもあの料理を作って欲しかったんです」


 町田さんは斜めに顔を俯かせ、ため息をついた。


「人様に作る料理は暫く作ってないんだぞ」


「承知の上です」


「……クーラーボックスごとよこせ」


 死確者はクーラーボックスを両手で持ち上げると、すぐに縁側に置いた。町田さんは肩に横から伸びた紐をかける。


「連絡先はテーブルにある紙に書いておけ。できたら、連絡する」


 町田さんは指をさす。だが、「いや、ここで待ってます」と死確者は応えた。


「下処理してからだ。2、3時間は余裕でかかるぞ」


「それでも待ちます」死確者は頬を緩めた。「美味しいものはなるべく出来立てがいいので」


 それに対して、何も反応を示さなかった。ただ、町田さんは視線をそらし、「適当に座ってろ」と一言述べた。踵を返し、すりガラスの戸を閉めた。


 死確者はテーブルから椅子を引き出した。ふぅと深い息を吐きながら、腰をかける。


「やっぱり見えないんですね」


 えっ?


「もしや、私のこと疑ってました?」


 てっきり信じていると思っていたため、眉がこれでもかと上がった。


「いやいや」


 死確者は手を振って否定する。けれどすぐに「いや……ごめんなさい、ちょっと思ってました」と親指と人差し指を少し開けた手を見せてきた。

 僅かな隙間であることから、ほんの少しだけ、だったのだろうというのは察した。


「見るからに人間なんですもん」


「見た目だけですよ」


「翼とかは?」


「あります。ただ現世にいる時は出せない決まりになっております」


「見せれば、より手っ取り早く確実に信じてもらえるんじゃ」


「私が天使になる前はそのままの姿で会いに行っていたそうなのですが、見た人間の行動は二択だったそうです。崇めるか、気を失う」


「あぁ……」死確者はなるほどと笑みを浮かべた。「昔ってどれくらい前です?」


「人類が誕生する前なので……ざっと」


「あっ、途方も無いのでいいです」


「ん? ということは、天使さんは天使ではなかった期間があるんですか」


「ええ。なったのはごく最近のことです」


「へぇー、そうなのですか。てっきりずっと天使なのかと思ってました」


「色々な過程を経ないと、天使となることはできません。私たちの世界にも新卒という存在がいます。私もその一人、まだまだ新人ですよ」


「なら、私と一緒ですね」


「はい?」


「私も新人賞を取ったばかりですから」


 ああ、そういえばそうだった。


 ふと自分が「人」と言ったことに笑ってしまう。私は人ではない。適切ではない。いつも指摘する方であり、こういう時は、“新天使”、と言い直す私が間違えてしまった。


 死確者は今度はショルダーバッグの紐を外し、テーブルに置いた。


「作業しても?」


「ええ。遠慮なく」


 そう促すと、バッグの中からパソコンを取り出した。四角いノートパソコンだ。開くと、画面がすぐに明るくなった。そこには、もう文字がずらりと書き並べられていた。何か作業をしているらしい。




「人ってね、死なないと思ってるんですよね」


 死確者は打つ手を止めずにそう言った。その右斜め後方に立っていた私は「はい?」と訊き返した。30分ほどの沈黙の後、突然の一言だったからだ。


「人って、勝手に死なないって思ってるんですよ」


「どうしたんです、突然?」


「いやまあその……」死確者の指が固まった。「そういうのもあるじゃないですか。ね?」


 死確者は口下手にはぐらかし、「誰しも公平かつ確実に来てしまうのに、です」と拭うように話題を戻した。指の固さも戻った。


「僕だけ俺だけ私だけわしだけうちだけわっちだけ、みーんな思っちゃってるんです、多分。けど、死ぬって思った方がいいんです。いや、思わなきゃダメです」


「その根拠は?」


「そっちの方が、生きている時間を大事にするからです」


「自分も死ぬんだって思うから、一分一秒を大切に思うようになる。他人に対して優しくなれる。色んなことを経験しようと手をのばす。他にも沢山。生きること全てが輝き出すんです。何より、天使さんの言う未練を減らすことができます」


「それはありがたい」


「でしょ?」片方の口角を上げて、にんまりと笑う死確者。「それに、死ぬよりも遥かに怖いのは忘れられることですよ。みんな怖がりなんです」


「だから本名で小説を書いてるんですか?」


 忘れられないために、生きた証を残すために。


「さすがは天使さん」パソコンのキーボードから手を離し、体を私の方に向けてきた。「お見通しというわけですね」


「いや、そういうわけではありませんよ」私は横に首を振る。「作家というのは執筆活動をする際には……ペンネームでしたっけ?」


「ええ」


「それを使って書くと聞いたことがあったので、そうなのかなと思っただけです」


「別に本名の方もいなくはないです。むしろ最近は割と多い」と一部訂正した上で、「でも僕の場合は、まさにその通りです」と死確者は話した。


「僕が、小学生だった頃、本が好きで好きでしょうがなかったんです。しょっちゅう自分の席で1人本を読んでるぐらいの。まあ根暗根暗と言われましたけど、そんなこと気にならないぐらいにのめり込んでいました」


 死確者は肘をテーブルに付けた。


「それで、ある日のお昼休みに、教室の端で本を読んでたら、急に静かになったんです。辺りを見てみたら教室には誰も。いつも5、6人いるのにその時は誰1人として。その光景を見たら、急に。急にですよ。ぞわぞわぞわって体の底から震え始めたんです。凄い怖くなったんですよ」


 視線が落ちていく。じっとまっすぐただひたすらに。向いているのは地面だ。けれど、見てはいない。それよりもどこか深く遠くを見つめているように感じた。


「もし今このように、僕が空気のようになってしまったら、いつかみんなに忘れられてしまう、って。そりゃあもう泣きそうなぐらいになりました。それからです、何かしらの形で忘れられないように名前を残そうと思いたったのは。それから絵や彫刻、映画監督など色んなことを試し、最終的にきっかけをくれた本、それを書いていた小説家という職業になろうと決めました。あの時のぞわぞわという恐怖がなければ、今の僕はいません」


 高牧さんから「人を本当に動かせるのは恐怖だよ」と言われたことがある。当時の私は受け流していた。正直恐怖を感じないからというのもあるし、そうじゃないだろうと心のどこかで思っていたというのもある。今回、後者は否定された。

 同時に、経験することは大事である、という教訓を学んだ。

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