天使と新人

第1話

 私は今、川にいる。


 すぐ隣には死確者がいる。キャンプ用の小さな腰掛け椅子に座り、のんびりと釣りをしていた。


「よいしょっと」


 姿勢を整えると、死確者が羽織っていた深緑の上着がしゃりしゃりと音を鳴らした。この服、ウインドブレイカー、と言うらしい。なんともおかしな名前だ。直訳すると、風を壊す人、もしくは物。けれど、そんな強靭かつ優れている様相は皺々な見た目からは感じられない。誰がどういった理由で付けたのか、機会があれば知りたい。


「釣れないなぁ〜」


 おそらく心の声をこぼす死確者は、少し不思議な人間であった。初めて会った際、いつもと同じように「私は天使です」と名乗ったが、特段驚いたり訝しげになることがなかったのである。

 元々驚きにくい方はいたものの、顔色一つ変わらなかったのは、これまで無かった反応。そのため最初は、まだ実感が湧いていないのかもしれないと思った。

 けれど続けて、「そうですか。なら折角なので、是非下の名前で呼んで下さい」と何が折角なのか分からないことを加えてきた。


 それだけではない。来た目的が未練を解消するためだと話すと、途端に「なら、解消できません。代わりに、力を貸して下さい」と言ってきた。

 あまりにも死確者らしからぬ口ぶりに、実感が湧かないのではなく、湧き過ぎて麻痺しているのではないかと疑ったものだった。もしくは、飄々としていて動じない性格であるか、ではないかと思った。


 それにしても、驚いた。解消できないとこうも早く、しかも優しい口調で断言されたのは初めてであった。

「で、できないんですか?」と、私は戸惑い交じりの返事までした。死確者は「巡り巡ってならば叶えられますけど。その答えはおいおい、というやつです」とにやりと笑った。そこまで言われれば、もう断れなかった。

 別に嫌ではなかったが、仕事としてやってきている分、滞ったり無意味なことに使うということは避けたかった。


「んん〜」


 死確者は釣竿を握ったまままっすぐ背を伸ばした。続いて、地面に直に置いていた銀のマグカップを手に取り、美味そうに一口含む。

 地面に置くと、今度は水筒を手に取った。片手で開け、新たに注ぎ足す。相変わらず、中の液体は黒々としている。


「……あっ、飲みます?」


 一連の動作を見ていたからか、死確者は水筒を軽く持ち上げた。


「いえ、お気遣いなく」


 きっばりと断る。黒い液体の正体は、コーヒー。私の数少ない嫌いなモノの一つだ。仮にお願いされても、貰いたくない。また仮に無理矢理飲まされる拷問があったら、私は耐えきれない。考えるだけでも身震いがする。


「そうですか」


 死確者は水筒を元の位置に戻し、再び釣りの世界へと戻った。


 私は帽子の位置を整えながら、視線を水面に戻した。浮かぶウキは微動だにしない。


「釣れませんね……」


 思えば、ここで川釣りを始めてから一度も動いていない。流れは穏やかではあるものの、上流からとめどなく流れているせいで、魚は餌を食べたくても食べられないのかもしれない。もしかすると、餌があると認識する前に下流へと流されてしまっているのかもしれない。はたまた、そもそも魚などいないのかもしれない。

 タイミングの問題か視覚の問題か数の問題か。正解は分からないものの、とにかく釣れないのである。


「いいんですよ」


 死確者は賛同してこなかった。むしろ、「これも釣りの醍醐味です。それに、待てば待つほど目的の魚を得られる可能性は高くなる。待てば海路の日和あり、というやつです」と、今のこの無駄なように感じる時間を肯定するようであった。


「兎に角、待ちましょう」


 釣りを始めてもう7時間が経過している。ここに来た時は太陽が地平線から顔を出し始めたばかりだったのに、今ではもうほぼ真上で燦々と輝いている。今回の死確者はなんとも辛抱強い人間であるようだ。


「あっ、待てば海路の日和あり、というのは、辛抱強く待っていれば好機が巡ってくるという意味です。ちなみに、果報は寝て待て、と言う類語があります」


 死確者は忘れていたかのように付け加えてくれた。今までに言葉の質問をよくしてたからか、聞く前に返してくれた。

 ありがたいことである。おかげで知識吸収をしっかり行える濃密な時間を過ごすことができている。

 死確者は教養的なことから雑学的なものまで幅広く、なんでも知っている。流石は、と言うべきか。


 おっと。


 またも吹く風、私は帽子を飛ばされぬよう押さえた。死確者曰く、風の名は木枯らしというらしい。


「突然ですけどね、僕、前にこんな短歌を作ったことがあるんですよ」死確者は唐突に昔話を始める。「“死ぬのなら ぽっくり逝かせて 下さいな 痛みないなら 事故でも可”」


「随分と達観した歌ですね」


 極論、もしや暴論とも捉えかねられない意見に、私は首を曲げた。ただ、口にはしなかった。


「祖父が亡くなった時です。もう十年以上前になります」


 死確者の視線が少し落ちた。


「自分の祖父はね、膵臓ガンだったんです。膵臓って物言わぬ臓器って言われてるんですけど……」


 喋るんですか、ということは、仕事に慣れた私は流石にもう口にしなかった。


「だから、気付いた時にはもう手遅れでした。医者から告げられたのは余命半年。半年ですよ、たったの。祖父は異常なまでに病院嫌いだったんですけど、その代償にしては不公平だって、その時は神様を恨んだものです」


 不思議と水面に小さな波紋が広がた。


「とはいえ、今思うと兆候はありました。背中が痛いって眉ひそめたり、食欲があまりなかったり。だから、凄く後悔しました。もう少し早く気づいていれば、『病院に行って』と強く伝えていたら、今って変わっていたのかなぁなんて、今でも不意打ちのように想像してしまうことがたまに」


 死確者は人差し指で鼻を掻いた。


「宣告受けてからすぐ入院しました。本人には検査入院ということで誤魔化して。ただ死を待つのはしたくなかった。はじめは、本読んだり、相撲中継見たりしてました。時には、ベッドで横になってても暇だから家に帰りたい、と笑いながら言われましたものです。思ったよりもずっと元気な姿を見て、案外大丈夫じゃないかって思ってました」


 死確者は手元を見つめていた。


「でも、そんな反応も最初の一ヶ月だけ。次第にベッドから背を起こす回数も、会話をする機会も減っていきました。明らかに体調を崩していきました。疲弊する姿を見ていくうちに、あぁ本当に罹ってるんだ、進行しちゃってるんだ、って心底辛くなりました。誤魔化している真実もいつかは伝えないといけないかな、と思ってました。まあ、本人は多分気づいていたんでしょうけど、こちらから言うっていうのがなんかね……」


 死確者は小さくため息をついた。


「もしかしたら、信じたくなかったのかもしれません。80歳にしては背筋はぴんと伸びてて、ほんの数年前まで経営していた家業で走り回っていたぐらいに元気な人だったんで」


 死確者の目には力がなくなっていた。


「だから、日に日に弱って身も心もすり減っていく姿見るのが本当に苦しかったです」


「だから、ぽっくり死にたいということてすか」


「まあ、死ぬ時に立ち会って、手を握ってあげることができましたのでね、必ずしもぽっくりが正義だとは言いません。ただ辛いのは嫌だなって。臆病なんでしょうね、僕は」


「なら、死ぬことそのものは怖い?」


 私は口を開く。人の死に触れたことで死に対して恐怖を感じる人も過去にはいたこともある。


「いや、それに関しては、常日頃から考えていたからか、案外大丈夫です」


 常日頃から? 考えたことある人は大勢いるが、常にというのは初めてであった。


「どうしてですか。どうして死ぬことを考えていたんですか」


「その方が時間を大事にするからです」


 死確者は断言し、続ける。


「自分も死ぬんだって思うから、色んなことを経験しようって手や足を延ばす。一秒一秒が素晴らしく大切なものだって思えるようになる。どーでもいいことが気にならなくなる。人に優しくなれる。生きることが全て輝くんです。輝き出すんです。何より、天使さんの言う未練が……いや、後悔が解消されます」


「であれば、ありがたいです」


「でしょう?」


 死確者は片方の口角を上げてにんまり笑う。タイミングを見計らったように、竿の先が揺れ始めた。沈黙を貫いていたウキが上下に動いている。


「おっ」


 死確者は椅子から立ち上がる。その勢いとは異なり、竿の捌き方は至って静かであった。一度リールを巻きながら竿を引き、手元に寄せる。短くなって水面から出た糸を掴み、針の先を凝視している死確者。私もつられて凝視する……釣りだけに。


「またですね」


 先に発したのは私。餌としてつけていたミミズの姿がないことを確認して直ぐに。


「ええ」頷くと、死確者は竿を地面に置いた。


「さっき僅かに揺れた時に食べられたんですかね」


 私の推測に死確者に「だとしたら、ここの魚は知能指数が高いですよ」と、蓋に“蜂蜜入り梅干し”と書かれているパックの蓋を開けながら、応えた。

 息を吹き返したように、中でうじうじと一斉に動き出す。


 き、気持ち悪い……


 思わず眉間にしわが寄り、頬がつる。


「同じ魚とは限りませんか」


 死確者に私は疑問を呈す。


「もう2桁以上食われてますからね。同じのだったらお腹いっぱいになってると思います。というより、なってなきゃ困ります。迷惑千万です」


「迷惑……千万?」


「非常に迷惑するって意味です」


 大きめのミミズを探して手に取り、針先に付ける。死確者は再び水面へ放った。ぽちゃんと小さな音を立てて沈んでいく。死確者も椅子に沈むように腰かけた。


「まあいいです。天使さんが一瞬で物凄い量のミミズを手に入れてくれたので、まだまだ釣れます」


「あれぐらいお安い御用です」それに、信じてもらうのに良い機会だった。「が必要なら、また取ってきますからいつでも言って下さい」


 死確者の要望とはいえ、下の名で呼ぶのはやはり思わず口籠ってしまう。

「ありがとうございます」


 死確者は嬉しそうに頬を緩ませ、「では仲良くなれたところで改めて」と、まるでタイミングを見計らっていたかのように私を見た。


 まさか……またか?


「僕の死因、本当に知らないんですか?」


 やはりだ……


「ええ」


「本当に?」


「本当です」


「……いや、だとしても多分そうです」死確者は折れない。「5年前の検診で余命3年と言われたので。そう考えたら、2年3ヶ月と……確かあと1日ですよね?」


「正確には残り、13時間です」


「なら、2年3ヶ月プラス2週間ほど長生き出来ました」


 前向きである。出会ってから今まで、笑顔しか見せてこない。死確者も聞いてきたんだし、そろそろこちらも尋ねていいか。


「それでは、未練といいますか、これから何をしようとしているのかについてそろそろ」


「ダメですよ」


 早速だ。早速断られた。聞けば聞くほど、返しが早くなっている気がする。今やもう条件反射的に答えられているような気がする。


「まだなんですか?」


「はい」


 はっきり返された。


「冒頭でネタ明かすのは、いくら売れない端くれだとはいえ、ご法度ですから」


「そうですか」


 という人種は、なんとも気の難しい人間だ……


「まあ、ひとつだけ手段はありますけどね」


 何?


「それは一体……」


「あれですよ」死確者は口角をつり上げた。「死因を教えて下さい」


 そう来たか。


「心当たりあるんじゃなかったんですか」


 私がそう尋ねると、「でも、確証が欲しいです」と返された。


「無理です」


「なんでです?」


「だから、知らないんですって」

「本当の本当に?」


「本当の本当に」


 私の顔を見て、ようやく嘘ではないと思ってくれたのか、「……あら、残念」と視線を戻した。


「あっ!」


 突如、死確者が声を上げた。視線の先を見る。ウキが浮き沈みを繰り返していた。明らかに何かが針にかかったと感じさせる動きだ。椅子から勢いよく立ち上がる。倒れようがお構いなしだ。


「来い来い来い来いッ」


 死確者は手に汗握りながら、仁王立ちでリールを回す。激しくも遅くなく、魚の様子を伺うように、適宜速度を変えながら。


 ウキとの距離が近づいていく。縮まれば縮まるほど、鼓動が早くなるのを私は感じる。まあ、私に心臓はないのだが——このセリフ、今までに何度口にしてきたのだろうか……


 おっ!


 魚の姿が見えてきた。随分と大きそうだ。

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