第9話

ぃ……」


 死確者の言葉と力んでいく手を見て、思い出す。そうだこの声は花香組若頭の棚橋である、と。あの時、盗聴器越しに聞いた若い声と全く同じである。

 力む手の中でガラケーがみしみしと軋む。今にもへし折ってしまうのではないかと心配になる程だ。


『はっ』あざ笑う声が聞こえる。『カシラに向かって呼び捨てかい。幾ら入ったのが先でも歳が上でも、縦社会の規則守らんかい』


「じゃかしいわっ」一蹴する死確者。「インテリかどうか知らんけどの、下におった時から体張らんおどれが気に食わんかったんや。事あるごとにオヤジに取り入って。ガキみたくなよなよしよって。ヘタレか」


『おぉおぉ、言っとくれるのぉー』

 電話越しの喧嘩が始めた死確者。一方の私は、聞こえてくるを指を折って数える。微妙な違いを聞き漏らさないよう、注意して。


「それにの、おどれはもうカシラでもなんでもないわ。オヤジを殺したただのクソや」


『俺は殺してない。他の誰かが、どこかの誰かが殺ったんや』


 薄ら笑いを浮かべているのだろうか、声に軽さが混じった。


「うるさい言うとんのが分からんのか、腐れ外道」


『おい』急に声色が重くなる。『それ以上言うてみぃ。こいつがどうなっても知らんぞ』


『俺のことは構いませんっ! 来たらアニキが殺されてっ』


 マー坊の必死の叫びだ。直後、ドッ、と鈍いが向こうから聞こえると、マー坊の『ぐほっ』と胃液混じりの唾を吐く音や深く荒い咳が何度も響いた。おそらく、マー坊は腹を殴られたのだろう。


『勝手に喋んな』受話器のそばで誰かのカシラとは別の人間の声がした。彼が殴ったのだろう。


 死確者は黙る。だが、ただ黙るのではない。眉間にしわを寄せて睨んでいる。例えるなら、空腹で死にそうな肉食動物が獲物を狩る前の、何が何でも逃さないという表情である。

 見ているのは、前方のフロントガラス。だが、それを見ているのではないと思われた。見ているのは、電話の向こうにいる柳瀬組の者たちを、何より棚橋を捉えているのだろう。


『柳瀬のカシラと美味い飯食おうて時に、単身乗り込んできてのー。真実喋らんかいやらなんやら、怒鳴り散らしおって。ったく、折角の顔合わせが台無しや。お前の教育不足ちゃうか、木嶋。えぇ? どないケジメつけるんや』


「オヤジ殺しといて何がケジメじゃい」


『さっきからしつこいけどのぉ、なんの証拠があってそないなこと言うんや?』


「何を今更。他人の組事務所にいて、シラを切るんか?」


『オヤジがいなくなった今、立て直しを図っとるんかもしれんやろ? 疑うんなら、証拠見せぇや』


 明らかに先ほどとは様子の違う棚橋。証拠がないなら容赦はしない、そんな気迫を感じる。


「見せられへんけどな」死確者はポケットから取り出す。「聴かせられるで」


 そして、レコーダーの再生ボタンを押す。内容は——『んでも、おかげで思ったより簡単にスムーズに行きましたわ』『いやいや。これからも棚橋さんとこと末長く良好な関係築くんにはこれぐらい。いや、これぐらいな事やないんですか。まあ頼みますよ、新組長』『期待に答えられるよう努めさせてもらいますわ』——あの密談である。


「最近の技術もよう進歩してまんな」スマホをレコーダーから遠ざけ、死確者の耳に寄せた。「一言一句逃さず、聞き取れてますわ」


『どうやって……』よほど予想外だったのだろう、あまりに動揺してカシラはぼそりと呟いた。


「随分、驚いとるなぁ。アホ面が目に浮かびますわ」


 チッ、と小さく舌打ちするカシラ。『相変わらず、卑怯なやっちゃのぉ』だが、死確者は「どの口が言うとんねん、ボケェ」と一蹴。


「ええか? この録音データとマー坊を交換でどうや」


『嫌や言うたら?』


「方々にばらまくわ。他の若衆は勿論、イチヨウのおやっさんにもニカゲのオヤジにもな」


 また再生ボタンを押し、中身を垂れ流す死確者。音量を上げたので、向こうにもこれが聞こえていると思われる。


『約束できひんな』


「あぁ?」


『持っとるそれ以外に録音したのがあったら? バックアップ取っとったら取引は無意味や』


「舐められたもんやのぉ」死確者は声色を落とす。「ワシも男や。そんなことせえへん」


『誓うか?』


「いくらでも誓ったる。神にだろうが天使にだろうが、な」


 天使とはまさか、私のことか?


「それにな、オヤジと兄弟盃交わしてるんはぎょうさんいることは、よう分かっとるはずや。このことが漏れたら、うちら以外からも狙われるけど、それでもええんか?」


 棚橋の深いため息が聞こえる。


『一緒に葬っとくんやったわ……』奥から少しばかり高い声の男性の愚痴が耳に入る。すぐに『おいっ!』とまた別の男の罵声が飛んだ。成る程。私は折る指の数をさらに増やした。


「そうか……」死確者の目つきが鋭くなる。真実がようやく分かったという目でもあり、獲物を狩る目でもあるように見えた。


「誰か知らんけど、おおきに。ようやく決心ついたわ」死確者はケータイを持つ手を左にすると、窓に肘を立てた。


「よぅ覚えとき。外歩くん時は、後ろんにも目ん玉付けとけクソボケども」


『ヨコサワ、何やっとんじゃボケっ』罵声が飛んだ直後、か細いうめき声と『すいません』という謝罪の声が聞こえた。さっきの奥から聞こえた若い男のと同じ。感じからして、ヨコサワというのはかなりの下っ端なのだろう。


『分かったわ。取引に応じたる。けど、来るのは1人や』


 1人……


「分かった」顔色変えず、平然と答える死確者。


『場所は大同埠頭近くの7番倉庫。そこで30分後に交換や』


 ん? 大同埠頭って、先ほどまでいたとこではないか?


『こっちも1人で行く』


「裏切んなや」


『当たり前やろ。俺も男や』


 嘘だ。鈍感な私でもそう思う反応だ。


「そうか。最後に、マー坊と変わってくれ」


 数秒の沈黙後、ガサゴソと音が聞こえた。


『も、もしもし』マー坊である。目の前で見ているように伝わる、かなり衰弱していると。


「おう、マー坊。いつこっちに戻ってきたんや?」


『その……』マー坊の声色は、教師に事情を聞かれて、自分のやった悪事を恐る恐る吐露する小学生のようであった。『行ってません』


「行ってない?」眉間にシワができる死確者。


『行ったふりして、ずっとこっちに。で、アニキの後を追ってました。あんなデカい機械用意して、何もない、なんてことないと思ったんで』


 デカい機械……盗聴器のことだろう。


『俺、真実聞いたらいても立っても居られなくなってしまって。でもそのせいで、折角の大事な証拠をこんな形で……すいません……本当にすいませんっ』


「それ以上は、謝らんでええ」小さく笑みを浮かべる死確者。「そもそもワシの嘘が見抜かれてたから起きたことやし。だから謝るな」

 続けて、「はぁーあ、ワシもまだまだやのぉ」と死確者が背もたれに体を寄せると、電話の向こうでマー坊が『アニキッ』と、抱えてきた思いをぶつけるように大声を出した。


「ん?」


『俺のことは、いいです。助けには来ないでください』


「ええねん、それは」


『これは、アニキの命令に従わなかった俺個人の責任です』


「だから、ええって」


『他のには、捕まったとは知らなかった、と言って……』


「ええ、言うとるやろっ」


 死確者は語気を強めて遮った。棚橋の時よりも強い。

 訪れる沈黙。雨が車を弾く。


 大きく息を吸い、「さっきな」と死確者は話し始める。強さは戻っていた。


「麻婆茄子の店がある言うのを聞いたんや。大層美味らしくての。せやから終わったら食い行くで」


『茄子……食えません……』


「あぁ?」死確者は眉間にしわを寄せる。「なんやと?」


『麻婆茄子食えないんです、俺……』


「麻婆なら何でも好きちゃうんかい?」


 そのはずだ。そのはずだから死確者は、マー坊、と名付けたのだから。


『好きなのは豆腐、だけです。麻婆豆腐』


「そうか……」本当に知らなかったのだろう。死確者は口をあんぐりとさせ、目を何度か瞬きさせる。


「なら、あとで探しとく。別にお前が探すんでもええ。行列のできる店でも並んだる。今回だけは待ったる。とにかく、麻婆豆腐の美味い店行くで。アニキの命令は、絶対やからな。忘れんなや」


『……はい』マー坊の声は震えていた。


 ガサゴソという物音が聞こえる。


『この辺で終わりや』再び棚橋。非情なまでに突然だ『じゃ、30分後に大同埠頭で待っと……』


「1つええか?」


 背を起こしながら死確者がそう遮ると、『なんや、まだなんかあんのかい』とカシラは面倒くさそうに反応する。


「そない怒ることないやろ。気ィ張るもんちゃうし、至ってシンプルや」


 死確者は首を左右に曲げ、音を鳴らす。「首、早う洗っといてくれ」


『は?』


 私も同じ、は?、である。


「ワシ着いたら、飛んでまう。せやから、葬式で臭い臭い言われんようによーく洗っとけ」


『タマやろうが何やろうが、やれるもんならやってみ』カシラの声が近くなる。口元に寄せたのだろう。


「お言葉に甘えてやらせていただきますわ」


 死確者も首を傾け、口元に受話器を寄せる。


「ホンモンの極道ごくどう、見せたるさかい。覚悟しときぃ」


 死確者は、これ以上は話すことはないと言わんばかりに、唐突に電話を切った。内ポケットにしまった手で、タバコの箱を取り出す。中を開ける。捜している。傾けても逆さにして振っても、何も出てこなかった。


「切れた……」


 クシャリと潰すと足元に捨て、そのまま助手席の前にある小物入れをおもむろに開けた。新しいものでも入っているのかと思った。だが、違った。取り出したのは、あの拳銃。慣れた手つきで中の弾倉を取り出し、まじまじと見てから「残りは……9発か」と呟く。


「罠に決まってるぞ」たまらず声をかける。


「分かっとるわ」死確者は拳銃を握った手を膝の上に置いた。「オヤジ殺したような奴の言う『俺も男や』ほど信じられることはあらへん」


「なら、何故?」


「人間、やる時やらなあかんのや。残んのはクソの役にも立たん後悔とアホ面した己だけや」


 ふと思い出す。出会った時も似たようなこと言ってたという記憶が浮いてきたのだ。


「他の組員たちはどうする? 組長が死に若頭が犯人。年齢的なことを考えれば次の組長は」


「ワシはそんな器やない」死確者はそれ以上言うなというかのように、遮る。「それにの、諸々のことはもう話つけとる」


「つけてるって、いつ?」


 これまで電話をしている時は何度もあった。だが、そのような話をしてる風には聞こえなかった。


「さっき、トイレ行っとる時についでにの。せやから、後のことは心配ない。大丈夫や」


「そうか……」なんだろうか、このモヤモヤとした気持ちは。


「なんや? もしかして、寂しいんか??」


「なんでそう思う?」


「そういう顔しとる」


 私は斜め上にある鏡を見る。後ろに下がるときなどに使う、中央に下がっている鏡だ。名前は知らない。おもむろに動かし、見せてきた。


 正直、そうなのか私にはよく分からない。顔に触れて確認するも、結果同じ。


 ただ死確者が良い終わりを迎えられれば、それで良い。そう思っていたし、今も思っていると思いたい。だが、私には分からない。今このモヤモヤが寂しいという感情なのか。私には判断できないのだ。


「電話してきたんは、そこからか?」死確者は不意にそう言うと、電気が灯っている事務所を指差した。


「おそらく」天井や窓に映った影の動きと声の響き具合からして、その可能性は高い。


「そうか」スーツの中に拳銃をしまう。


「ここからはワシだけにしてくれるか」死確者は不意にそう言った。あまりに唐突であったため、私は思わず死確者を見た。


「私は例外なく誰にも見えないから……」


「そういう問題ちゃうねん」バッサリと切り捨てる死確者。「ズルイやろ、1人で来い言われて2人で行くんは。せやから……な」


 これも死確者の、しかも最後に近い要望だ。だから、私は「分かった。じゃあ、部屋の直前まで」と譲歩するも、「いや、それも」と断られてしまった。「なら、階段まで」という提案も「堪忍してな」の一言。


「どこまでだったらいい?」


 死確者は何も言わなかった。ただ人差し指を下に向けただけ。


 もしかして……「車の中か?」


「頼むわ」


 頼むわと言われても……それにそもそも。「集合場所はここじゃないだろう?」


「あっちは真実を話してきた。てことは、もうワシを生かしとく気は更々ないっちゅうことや。つまり、武装したのをごっそり連れてくるやろ。んなのと、ただ戦ったら無駄死にするだけ。時間もない中、マー坊だけでも救うには、あとは奇襲するしか策はない。幸か不幸か、奴らは気を抜いて目の前にいるわけやしな」


「そうか」この意固地な死確者にこれ以上言ってもダメだろう。曲げることはない。私が折れるしかない。だから、「ならば、12人だ」と先に伝えた。


「あ?」


「事務所には12人いる」


 あっけらかんとしている死確者。「……分かんのか?」


「まあ天使だからな。電話の向こうで息が、呼吸している音が聞こえたんだ。その人数を数えた。マー坊を除いた結果、12人だった」


「12か……」死確者は片眉を上げた。「ちょい多いけど、ま、何とか……いや、どうにやするしかない、か。にしてもその機能、ワシにも欲しいのぉ」


 死確者は羨ましがるが、機能ではない。だが、些細なことだ。この際気にしない。というか、どうでもよくなった。


「ならついでに、もう1つ教えてくれるか」


「なんだ?」


 死確者は頬を軽く膨らませ、溜めた息を吐いた。「そのな」神妙な面持ちだ。「マー坊は……その……助かるんか?」


 私は閉口する。「すまない……分からない」

 何かしらの形で偶然知ったとしても、誰が死ぬのかどうなるのかは、言ってはいけない決まりである。が、今回はそうではなく単純に、本当に知らない。隠しているわけではないのだ。


「そうか」死確者は口を尖がらせ、不器用に動かしている。「ま、あいつは……マー坊は助かる」


 まっすぐ前を見て力強く、自信を持ってそう呟いた。


「根拠は?」


「決まっとるやろ」死確者は私を見た。「ワシが助けるからや」


 強い決意の込められた言葉だった。だから私は正直な気持ちを、「応援してる」という気持ちを伝えた。


 死確者は顔を崩すと、「つくづくおもろいやっちゃのー」と反応。眉は緩み、口角は上がっていた。


 素直に言っただけなのだが、まあ喜んでくれたのなら何よりだ。


「ん」言葉半分に手を出してきた死確者。この行為、私には見覚えがある。


「……握手か?」


「見りゃ分かるやろ」


 そう受け答えする死確者に私は手を出し、そして握手。普段は物に触れられないが、私は天使だ。それぐらいちょっと工夫すれば可能である。

 手を出す。死確者はさらに近づけ、私の手を握った。


「冷めったいな」顔が強張った。「ったく……ワシがまで、エンジンにでも手ェ突っ込んであっためとけ」


 今日死ぬ、ということはもう話してある。時間的にももうあまりないことも。だから、分かった。


「あぁ、肌にしておくよ」


 私の返しに、死確者は一瞬キョトンとするも、すぐに小さく口角を上げた。


「やればできるやないか」


 死確者は傘も持たずに車を降り、扉をしっかり閉めた。車と背を向け、距離を離していく。

 私に背を向けているため、顔は見えない。更に結局止まなかった雨のせいで、遠ざかるほどそんな後ろ姿さえ見えづらくなっていく。だが、全身に水を浴びながらも走ることはない死確者の、ただ柳瀬組の事務所へと一歩一歩着実に確実に歩む死確者の勇ましさだけは、どれほど距離が離れても、はっきりと見えていた。伝わってきた。

 建物までもうすぐそば。私は前にあるデジタル時計をちらりと見た。時刻は20時30分少し過ぎた。視線を戻す。もう残り時間は僅かだ。


「頑張れ、


 死確者は何の反応もなく、コンクリートの階段を上っていく。声は届かない。


 やはり、私は雨が嫌いだ。大嫌いだ。

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