第2話

 私は今、ある事務所にいる。

 雨風にさらされ、外壁が損傷している少し寂れたビルの4階だ。


 入口には何も書かれていなかったが、玄関の戸をくぐった瞬間、ここが事務所であると分かった。理由は3つ。

 1つ目。天井に付けられた歪な形で露出した蛍光灯が、部屋の中央で1人掛けソファ2つと3人掛けのソファが黒い横長のテーブルを挟んで置かれているからだ。辺りにテレビなどはなく、人を迎えるためだけに用いられているように見えた。部屋の事務机4つ、入口の真反対にある高そうな茶色い机や背を覆うほどの黒い椅子たちを照らしている。机の上には複数のケータイや青ファイルが散らばっている。

 2つ目。キッチンが然程使われていないからだ。茶のみ茶碗や電気ポッド、ヤカン、皿が数枚とそれを超える数の包丁が整えられているため、使ってはいるのだろう。しかし、料理で用いられている雰囲気は感じ取れず、生活感が見えない。

 3つ目。茶色い机の後方に枯れかけの観葉植物が青いバケツに植えられているのと、その上に妙な模様の描かれた板を掲げているのが目に入ったからだ。達筆なのか下手なのか分からないのだが、とても自慢げで誇りな掲げられ方から見るに、前者の方なのだろう。書いてある文字は……「仁義」だろうか。定かではない。


 前触れなく、外で光が放たれる。数秒後、耳をつんざく轟音が鳴り響く。思わず私は眉をひそめる。

 雷によって妨げられた耳の機能が次第に回復すると、今度は雨音が聞こえてきた。外では、大量の雨が地面に降り注いでいた。それこそまさにバケツをひっくり返したようにという表現がちょうどぴたりと合うほど。そんなひどい状態であるため、11月といえどまだ16時前なのに、外はかなり暗かった。

 私は雨が嫌いだ。好きな陽の光を浴びることができないし、それに、雨の降っている際に担当した死確者にろくな思い出がない。


「ええ加減吐きぃな」


 カチャリ、と頭の後ろでまた鳴った。


「後悔したないやろ」


 今回も、その例外ではない。ろくでもない思い出が早速できた。その上、入ってすぐというのは、史上最速。したくない記録を更新してしまった。


「綺麗にしてる真っ白いの服、で赤く染めることになるで。えぇんか?」


 そう。私は今、チャカという名のを突きつけられている。


 正直なところ、私たち天使にとって拳銃で頭を撃たれても死ぬことはないため、怖くはない。人間で例えるならば、心境的には今、頭に水鉄砲を向けられてる程度だ。いや、銃弾は私に当たることさえもないのだから、ヘルメットか何かして水さえかからないレベルか?——まあとにかく、それほどまでに私たちにとって拳銃などというものは無害の塊だ。それに、拳銃で染めるために必要な赤い血すらも私の体からは出ない。しかし、自身が危険だと認識してるものを向けられるのは、あまり快くはないのは確かだ。


「混乱に乗じて何かし腐れようとしよって……なめとんのか?」


 今回の死確者は花香はなか組という、香り広がる芳香剤のような優しい名前の、組織に所属してる。要するに暴力団、俗に言い換えればヤクザ。


「なめてはいません。汚いので、舐めたりはしません」


「とんち言え、言うてんのとはちゃうねんぞ」拳銃で小突かれる。「はよ喋りい、正直にな」


 私は小さく息を吐く。


「私は天使で、未練解消のために今回……」


「それはええ言うとるやろっ!」しびれを切らし、死確者は私の言葉を遮って叫ぶ。「どこの組のもんか早よ言わんかいっ、コラァ!」


 とっくの前に言っているのだが……はてどうしようか。


「どうしましたっ!?」


 入口から男が飛び込んできた。何事かと思ったのだろう、扉の開け方がひどく雑だった。

 見るに男は、死確者より若い。幼く見えるが、しわなどから考えて、おそらく30代半ば。体格は痩せている。ひょろひょろという表現が適していた。


「な、何やってんです?」若い男は眉をひそめる。当然の反応だ。


 こちらも当然のことながら、まだ気づいていない死確者は「おお、ええとこに来たな、マー坊」と声色を微かに明るくさせ、続けて「奥からなんか縛るもん持ってきてくれ」と頼んだ。


「縛るもんって……何に使うんですか?」


「決まっとるやろ、カチコミ来たこいつを縛るためや」


「えっ!?」きょとんとしてる、若い男ことマー坊。「カ、カチコミですか?」


「突然うちに来てな、ワシに『アンタは死ぬ』なんてほざきよったんや。そんなん吐くっちゅうのは、カチコミ以外ないやろ」


 私は体を90度回し、左目だけを死確者へ向けた。一瞬身構える死確者の手に力が入る。部屋の明かりに照らされて、黒く光っているのが見える。


「アンタと言ったつもりもほざいたつもりもありません。ただ、私が天使だということと、あとで亡くなるため、未練を解消しに来ましたと仕事内容を伝えただけです」


 訂正を加えるも、死確者は「じゃかしいわっ!」と一喝。聞く耳は持ち合わせてはいないようなので、「あと、こそこそしてません」という訂正は諦めた。


「とにかくこいつ縛るから、奥から何か持ってこい」


 死確者は部屋の奥の方へ軽く顔を振って、指し示した。直後、マー坊は小さく口を開けた。


「だ、誰をです?」


 恐る恐る、という表現が適する絞り出すような音量だ。


「お前の目は節穴か。ワシの目の前におるやろ、チャカもドスも持ってない無鉄砲モンが1人」


 マー坊は眉を上げると、目を落とし、泳がせ、そして「あ……」と吃った。


「なんや?」その一連の動作が不自然だったのか、死確者は片眉を上げ、問うた。


「そのー……えっと……誰もいないです」


 マー坊は意を決したように言葉を発した。


「その、ハジキ……いや、チャカ向けてる先には誰もいないんです」


 最初は「何言っとんねん」と冗談だと捉え、死確者は軽い笑みを浮かべていた。が、固くしたまま表情を変えないマー坊を見て、次第に眉が中央に寄り険しくなっていった。


「見え……おれへんのか?」


 マー坊はただコクリと頷いた。気まずそうに唇を内側へ巻いている。


「……マー坊、一旦出といてくれるか」


 そう告げる死確者の目はマー坊には向けられていなかった。ただ俯き加減にキョロキョロと動いていた。


「アニキ……」


 絞るように声を出すマー坊に、「ええから出ぇっ!」とこれ以上なく強い口調を死確者は投げつけた。マー坊は慌てて「失礼します」と頭を下げて、部屋を出た。


 部屋が静寂に包まれた。再び雨の音が耳に届く。暫く続いた沈黙を破ったのは、拳銃が動いた時に出た音だった。同じく、私の頭に当たっていた感触が無くなった。離れたのだ。


「信じていただけたのですか」


 突然のことに私の瞬きが自然と増えた。


「マー坊は嘘つかん。そういうやっちゃ」


 死確者は少し小さめの、私との距離でしか聞こえないぐらいの音量で語り始めた。声も瞳孔も収まり、落ち着きを取り戻していた。


「動いてもよろしいでしょうか」


「ええよ」


「分かりました」


 そう答えて、私は体を動かす。死確者を真正面で見るためだ。姿を見る前に拳銃を突きつけられて脅されたので、ようやくだった。目が合った死確者はスーツの後ろ側をめくり、腰辺りに乱暴に拳銃をしまっていた。


「最近、色々とごたついてての……いや、そんなんは言い訳にしかならな。堪忍してや、この通り」


 死確者は頭を直角に下げた。今まで大勢の人間を見てきたが、ここまで綺麗な謝罪は見たことない。先ほどまでの態度とは大違いだ。


「いえ。いきなり天使と名乗られても困りますもんね」


 意外や意外。聞き分けのいい死確者のようである。


「確認やけど、マー坊には見えんてことでええねんな?」


「はい。彼だけでなく、誰にも見えませんし声も聞こえません。見えたり聞こえたりするのは唯一、木嶋きじまたかしさん、あなただけです」


「そうか……」死確者の目から力が抜ける。素性の知らぬ怪しげな人からまあ多少はぐらいに変わった気がした。


 そういえば、死確者には子分がいる、と資料にあったな。名前は“マー坊”。あの青年がその彼か。


「ええぞ、入って」


 死確者は体を少し動かして声をかけた。私に向けてではないことは明らかだった。


「失礼します」


 再びマー坊が事務所内へ。今度はゆっくりと扉が開く。気のせいだろうか、マー坊から死確者のような訛りをあまり感じない。


「すまんな」


 マー坊はそれ以上、何も聞かなかった。代わりに、「アニキ、やっぱり少し休んだ方が……」と近づく。カチコミだと言いながらも、誰もいないところに拳銃を構えていたのを見れば、心配してそう提案するのは至極当然の反応だ。


 だが死確者は「何?」と眉間にしわを集めた。途端、「休んでられるわけないやろ!」と声を荒げる。腹の奥底から出た怒号だった。


「まんまと逃げられてもうたのに、ただ黙ってろ言っとんのかっ? いつも言うとるやろ。やる時やらな、残んのは……」


「クソの役にも立たん後悔とアホ面した己だけや」


 マー坊が代わりに、後に続く言葉を述べた。


「分かってます、耳にタコ出来るほど聞いてますから。確かに黙って見てるのは嫌ですけど、そもそもアニキだって十分危険な状況だったんですからね? 腹の傷だってまだ治り切ってなかったのに、病院から抜け出したりして。部屋のある5階の窓からカーテンつたって降りるとか、もう無茶苦茶ですよ」


 確かに無茶苦茶だ。そんなのはドラマとか映画の、フィクションの世界の話でしか聞いたことない。


「心配すな。ただのかすり傷や、こんなん」


 死確者は左の脇腹辺りを思いっきり叩いた。良い音が鳴る。だが、その音と反比例するように表情が苦悶に変わった。アタタ、と喉の奥から絞るようなうめき声を出しながらそのまま体を屈ませる。丸みを帯びた背中は、襲われたらひとたまりもないほど、無防備だ。拳銃を持っていた先ほどとは異なり、簡単にあっさりと負けてしまいそうである。


「アニキっ」


 マー坊は慌てて駆け寄り、死確者の双肩を支える。そばにある1人がけソファまでゆっくり誘導し、死確者をそっと座らせる。


「ほんのちょっとでいいんです。少しだけ休んで下さい。これじゃあ、犯人見つける前にアニキが倒れちまいます」


 言い返したくも、遠目からも分かる必死な表情であるマー坊の心配を無下にはできなかったのだろう、死確者は口を真一文字に結んで黙り込んだ。

 しばらく沈黙が続くがついには、「分かった」と折れる死確者。マー坊は顔全体にくしゃった笑みを浮かべた。

 少しして、死確者は体を伸ばす。痛みは引いたみたいだ。


「はぁー怒鳴ったら腹減ったわ」


 死確者はスーツの内側から高そうな黒革の横長財布を出す。中から1万円札を取り出し、「コウヨウで買うてきてくれるか」とマー坊に渡す。


「いつもの、中華丼とメンマ大盛りチャーシューメンですよね。すぐ行ってきます」


 受け取ると、そのまま入ってきた扉に向かい、事務所を出る。くるりと体を回し、「失礼します」と一礼してから扉を閉めた。


「さてと……」


 振り返る死確者。また拳銃を突きつけられるかと思ったが、違った。「悪かったな」と謝られたのだ。


「いえ」


 かけてくれ、と促された私は3人がけのソファに腰掛けた。それを見て、「確かにおかしいな」とフッと微笑んだ。「どうかしました?」と尋ねると「そこ」と顎を動かした。

 そこは私の尻の辺り。実際に見てみる。ああ、そういうことか。


「座ってもへこみません」


 ソファは何も重みを感じず、水平を保った状態だ。

 だが、それを見てどうとは思わなかった。私にとっては普通のことであり、慣れていること。どう返答すればいいか困るが、「まあそれはええわ」と死確者は話題を変え、膝に腕を置いた。


「とりあえず詳しい話を聞かせてくれ」


「構いませんが……」心配になる。「ここでよろしいのですか」


「ん?」死確者は眉を上げ、口をとんがらせた。


「もし会話の最中に帰ってこられたら、気まずくなるのではないでしょうか」


 さっきのような雰囲気になったら、また面倒だと思い、確認する。


「ああ」死確者は背をもたれさせた。「心配せんでええ。誰も来いひんから。狙われてるかもしれんから身ぃ隠せぇて、カシラからお達しが入ってるからの」


「カシラ?」


「何、知らんのか?」


「すいません、勉強不足です……」


「カシラっちゅうのは、若頭……って言っても分からんか。まあ平たく言えば、トップの組長の次、組織のナンバー2っちゅうことや」


 企業でいうところの副社長ポストということか。なら、逆らう者はいな……目の前の死確者も逆らうはずのない者なのだが、まあ事情が事情ということで、今は1人除外しておくとしよ……忘れてた。もう1人いる。


「なら、さっきの彼は? 帰ってきませんか」


「暫くは。マー坊ならメシ屋までの距離と諸々の調理時間考えても、まあすぐには帰ってこおへんやろ。そろそろの時になったら教えるわ」

「承知しました」


「んじゃ早速やけども」話題を切り替える死確者。「ワシんことはどれくらい知っとる?」


 私は脳を絞って記憶を抽出する。


「年齢は42歳。花香組組員で、生まれも育ちもここ……」


「それちゃう、それちゃう」


 死確者は指先を交差させ、親指だけ立てていた。力を込めて押しているのか、まるで指相撲で争っているかのように動かしている。


「そやな……」一瞬虚空を見て視線を戻す。「うちで何が起きたかは知ってるか?」


「はい。一応」


 頷きながら返すと、死確者は「なら、話は早いわ」と手を解き、前屈みになった。


「んで、誰がやった?」


「はい?」


 私は素っ頓狂な返事をしてしまう。聞こえてはいたが、あまりにいきなりな問いかけに追いつけなかった。


「オヤジやったんは、柳瀬やなせ組か?」


 あの雑談好きな死神に聞いていたことが功を奏した。一瞬にして私の脳内で、オヤジやった、を、、に変換することできた。

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