天使とアニキ

第1話

「来ないな」


 言葉が溢れた。私の口から自然と、心の声が出てしまった。


 背もたれを倒していた死確者は顔の上に腕時計を持ってくる。寝の体勢は崩さない。「まだ19時40分。1時間以上もある」と答えた。声をかけてきたのだと思ったのだろう。申し訳ないことをしてしまった。

 反面私は、折角だ、と死確者に声をかけることにした。


「だが時間よりも早く行動するのが日本人の特徴だろう」


「せやな」死確者は浅く吸ったタバコの煙をすぐ吐き出した。「確かに日本人の素晴らしいトコやけども、それとこれとは別モンや」


 死確者は天井に目を向けているが、見てはいなかった。この車に長く乗り続けて疲れたからだろう。いや、天井という淡いグレーの殺風景しか見れていないからかもしれない。その両方という可能性も否定はできない。いずれにしろ、全くと言っていいほど焦点は合っていなかった。


「それが、のしきたりなのか?」


「しきたり……」死確者はどこか引っ掛かったようだが面倒に思ったのか、「ま、そんな感じでもええわ」と返した。なんとも雑である。


「にしても、やまへんのぉー」服の上から腕をさすり、死確者はまたタバコを吹かした。


「11月やぁ言うのに、なんでこんな降っとんねん……あっ」


 急に死確者は視線を向けてきた。私へまっすぐと。


「もしかして自分、雨男ちゃうか?」


「なぜ、そう思う」思わず首を曲げる。


「こんな大雨降っとんの、わしのとこ来てからやからちゃうかったか」


 私は記憶を思い返してみる。確かに、私が現世にやってきた途端、待ってましたと言わんばかりに降ってきたような気がする。

 だから、「確かにそうかもしれない」とまず意見を受け入れ、それから「だが、あくまでも偶然の一致であり、私が現世に来る時は晴れの方が断然多いぞ」と今までの経験を総じて極めて簡単にまとめてから、反論した。


「ほんまかいな……」半信半疑な様子。念押しをするため、私は「ほんまだ」真似して返答してみると、死確者は「ま、ええわ」とタバコを深く吸い込んで、窓をまた眺めた。


「この状態やと、まだしばらく止まへんよな」


 死確者からの問いかけに、私はサイドウィンドウから空を覗き、「おそらくな」と答える。雲の切れ間から太陽が、とかであれば、可能性はあるが、今の空模様は雲のみの曇天。まさに、天は曇りのみ。私でも分かる、しばらくは止みそうにないと。


 がたりと唐突に音が聞こえ、思わず振り返る。背を起こした死確者が突然後部座席に手を伸ばしていた。伸ばすにつれて、体にひねりが加わっていく。何かを取ろうとしているようで、死確者の視線は一点に集中していた。

 よぉいっしょっ、という掛け声が車内をこだまする。何かを手にできたらしく、全身の力を緩めてから体勢を戻した。手にしていたのは、傘だった。カバンに収納できるような折りたたみではなく、そのまま傘立てに入れられるタイプのごく普通の。しかも、透けている。見るからに安そうである。


「はぁー……ワシも爺さんやのぉ」


 自分に辟易するかのように、死確者は言葉を漏らした。続けて今度は前傾姿勢となり、口にくわえていたタバコを勢いよく吸い込んで、名残惜しそうに車載の簡易灰皿へ潰して捨てた。


「どうしたんだ?」突飛な行動に私は戸惑い、声をかける。


「ションベンや」


 ションベン……初めて耳にした。

 そんな私の顔を見て、「知らんのかいな……」と呆れる死確者。


「なら、トイレでどうや?」


「あぁーそれなら知ってる」そうか、死確者の世界ではトイレのことをションベンというのだな。成る程、覚えておこう。


「んでな」死確者は内ポケットに手を入れて、何かを取り出した。あの、白いガラケーだ。


「2台持ってたのか?」


「いや、事務所にあったのを適当に持ってきた。いつか使うんやないかって念のためな」


 死確者は小刻みに振り、「なんかあったらこれで知らせて欲しいんやけども、使い方は?」と聞いてきた。


「使い方は分からないが、知らせることはできる」人差し指でやればいい。「メールでもいいか?」


「十分や。ほな、頼むわ」


 死確者は飲み物置きにガラケーを入れると、扉を開けて傘をさした。




 随分と長いトイレである。もう数十分経過したというのに、未だ帰ってこない。その間、やることのない私は引き続きをし続ける。動きはまだない。しかし、断定はできない。全く、これだから雨は嫌なのだ。


 どこもかしこも当たって流れ落ちたり留まったりする水滴たちによって、車内からは外の世界のどれもが屈折した状態で見えてしまっている、歪んでしまっている。そのせいで、普段遠くまで見えるはずなのに今はなんとも見えにくく、外の様子がはっきりと判別つかないのである。一応、ピンクやら水色やら黄緑やらに色が付いているからか、向こうで煌々と輝いているネオンはかろうじて見えていた。

 それに、音も、だ。四方を囲んでいる窓にそれぞれ固有で独特なリズムを鳴らしている。全てが綺麗に、正確無比なタイミングで当たってるわけであれば問題はないのだが、残念ながら逆。それも真逆。

 大きさの異なる雨が故意か否かズレて当たっている。どこでどの雨水がどんな音を奏でているのか分からないため、疲労感と嫌悪感を抱かせる。私たち天使は耳が人間よりもいいが、人間はこの音を聞こえていないのだろうか。それとも、聞こえていながらも我慢しているのだろうか……疑問でしょうがない。


 飽きもせず、雨は天から降り注ぐ。別に恵みの雨でもなんでもない。ずっとこの調子。今にも窓を割り「おいそこのお前っ。覚悟しろよ、びしょびしょになるまで濡らしてやるからなっ!」という激しい勢いなのも変化はない。

 まあ、窓が割れて雨が車に入ってきても私は濡れないのだが。


 私は背もたれに寄りかかり、深いため息をついた。


 死確者の寿命まであと、……時間はもうあまりない。


 それまでに、この豪雨が止むのだろうか。死確者が死者になる前に止んでくれるのだろうか。何より、未練は解決するのだろうか。できるのだろうか。雲だけに運次第ということである——さほど上手くはなかったな。正直なところ、私には何1つ分からないし、予測できない。運を天に任せたいのだが、今見えているのは曇天という不吉な兆しが見え、任せたくないような気もしなくはない。


 突然車が揺れた。小刻みにガタガタと。直後、前方からの空気の轟音が大きくなった。ごおぉ、と深い谷に流れるかのような風の音はたちまち私を不快にする。

 おそらくこれは先ほどの死確者の操作によるものだろう。タバコを吸いたかった死確者は外と空気が入れ換わるようにしたらしい。いや、本人に尋ねてそう返答されたので、らしい、はおかしいか。とにかく、気休め程度でも換気しようとしたらしい。

 しかし、タバコの煙はしばらく漂っていない。もう空気は入れ換わってるはず。帰ってきたら止めたことを知らせて、また付けてもらえばいい。なんなら死確者の姿が見えたら、また付け直せばいいではないか。そうだ、そうしよう——と、自分を説得したが、直後ある事が不意に浮かぶ。新たな問題がまさに、浮上したのだ。

 今まで、車に乗ったことはある。流石にそれぐらいはないとおかしいぐらいに仕事はこなしてきている。運転だってしたことある。だがそれ以外は、詳細にいうと、中央にあるパネルやらスイッチやらつまみやらに関しては操作したことがない。要は、何が何なのか、どれをどうすればこの風と音が止まるのか、さっぱりなのだ。


 ここは日本なのかと疑いたくなるほど、日本語以外の文字がスイッチらしき何かに描かれており、時には絵もある。車であろうというのは伝わるのだが、それがどんな効果をもたらす部分なのか分からなかった。

 かといって、いつまでも手をこまねいていても何も変わりはしない。私は、いつもの如く人差し指をくいっと回す。結果は、失敗。止まるどころか、突如として男の声が車内中に鳴り響き始めたのだ。


 どうしたことか、どうしたことか。どうすればいいか、分からない。


「ど、どうすればいいんだ?」私は慌てふためく。


 落ち着け、落ち着け私……こんなのを見られたら恥ずかしいぞ。


 ふぅぅと大きく深呼吸し、再び手を伸ばす。


「こ、こう……か?」


 もう一度回してみる。だが、別の男の声に変わるだけ。しかも、男の後ろかどこかで陽気な音楽が流れて音が増えてしまった。


 余計なことをしなければよかった……以前聞いた、後悔先に立たず、ということわざを思い出す。今、まさにそれだ。その意味が、私の身と心にじんわりと沁みていた。日本のことわざはなんとも的を得ている。はずれがない。


 とは言っても、やってしまったものは仕方ない。どこかで止まってくれることを信じ、回してみよう……

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