第5話
死確者はベッドに、母親の隣に腰掛けた。バネの弾む音が聞こえる。
「ショックが大きくてな」母親を見つめながら、死確者は口にした。「10年経った今でもあの時のことはよく思い出せるよ」
死確者が隣に座ったことに気づいてないのだろうか。母親はまだまっすぐ前を、焦点の合ってない目で眺めていた。
「その少し前に親父が死んで、お袋は一人になった。会うたびに寂しそうなお袋を見てるのが忍びなくなった。だから少しでも寂しさが和らげばと思って、引き取ることにした。だが、それだけ。研究にのめり込んでいた私は、全て妻に任せていた」
死確者は両手を握る。
「別に追われているわけではなかったんだ。ただ一日でも早く結果を出し、一日でも早く学会で認めてもらうために、研究に没頭し続けた。そのために邪魔になるようなものを何もかも排除した。酒もタバコも、なあなあな人付き合いも、ケータイも……」
握る力が強まった。「そのせいで、お袋が行方不明だと知るのに二日もかかってしまった」
死確者はさらに表情を重くする。
「見つかったのはその翌日、でしたっけ?」
死確者は眉を上げて、私を見てきた。「なんだ、知っていたのか」
「まあ少しだけ」略歴に乗っていた。
「そうか」
膝に置いていた母親の手に、死確者は自身の手を重ねた。
「見つかったのは、隣町の公園。寝まき姿のまま、ベンチに座ってるのを怪しんだ近所の人が通報してくれたんだ。俺はすぐさま病院に行き、精密検査をしてもらった。そこで、初めて知った、お袋が重度のアルツハイマーを患ってることを」
当時のことを思い出したのか、鼻で小さく笑った。
「医者に怒られたよ。『一緒に住んでたのになんで、ここまでになるまで気づかなかったのか? 放ったらかしにでもしてたのか?』とな」
自分への怒りと自身が何もできずしてあげられない歯がゆさと母親への申し訳なさと……数えきれぬ気持ちが複雑に混ざりあっているようだった。
「その晩、妻と口論になった。いや、もはや喧嘩だった。医者から言われたことをそのまま伝えて、なんで見てなかったのか放ったらかしにしていたのか、って怒り任せに言葉を吐き捨てた。そしたら、こう言われたよ。『家で何が起きてたか知ってる?』って。何も言えなかった。知らなかったからだ。こうも言われたよ、『何も分かってないくせに、偉そうな口を聞かないで』とな」
死確者は親指で、母親の手の甲をさする。ゆっくりと優しく。
「当然だが、妻はお袋がおかしくなっていくのを間近で見ていたんだ。手を焼いても煙たがられても疎まれても、妻はお袋のことを看病してくれていたんだ。彼女は我慢していた。ずっと我慢し続けてた。彼女にとっては義母ではあるが、他人だ。私が間に入らなきゃいかんのに、なのに私は自分のことで手いっぱいだからと顧みなかった。顧みようともしなかった。
死確者はまっすぐ前に視線を移して、「後で知ったんだが、私の邪魔をしないよう、そのことは本当に限界になるまで伝えていないようにしていたらしい。そして、いよいよ伝えようとした日、お袋がいなくなったというわけだ」と話した。
「アルツハイマーというのはいきなり発症するもんじゃない。次第に重病化していく病なんだ。つまりだ。私は少なくとも重くなる前にお袋とは会っていたということだ。どう意味だか分かるか? 私はどこかでその兆候を感じ取っていたはずなんだよ。なのに私は……何も分かっていなかったのは、紛れもなく私自身だったんだ」
確か、死確者は妻と離婚したのは診断から1ヶ月もしないうち、だった気がする。死確者に今残っているものは研究だけ、そう考えれば『研究できずに死ぬことが未練』と強い口調で言い放った理由が分かった気がした。
「日に日に私のことを忘れていく。息子から赤の他人に、最後には息子がいたことさえ忘れてしまった。今では、まあ見ての通りだ」
死確者は母親の目を横から見ると、少しだけ俯き、私に顔を向けた。
「嘘だったら承知しないからな?」
私の目を見る。
「信じてください」
私も目を見た。
「天使が嘘ついたらマズいですから」
あれ? 前にもこんなこと言った記憶が……まあいい。
私は母親の前に立つ。頭の上に両手をかざし、目を閉じる。指先に神経を集中させて、念を強く込める。
「……よし」
「ん? 終わったのか??」
「はい、無事終わりました」
「もうか」あまりに早く、あっけなかったことに驚いたのか、死確者の目と眉の間隔が広くなっている。
「天使ですから」
「何ひとりでぶつぶつ言ってんだい、春彦」
背中から聞こえる声に死確者は目を見開き、ゆっくりと振り返った。遠い目をしていた母親は、確かに今、隣にいる死確者の顔を見ている。
「分かるのか?」
死確者は動揺と嬉しさが混じった声で訊ねる。
「当たり前じゃないか。息子を忘れる母親がどこにいるんだい」
そう口にした途端、死確者の肩が小刻みに震え出した。少しして、鼻をすする音が聞こえてくる。
「何泣いてるの」母親は呆れながらもどこか可愛く思っている、そんな表情をしていた。
「……あぁ。ゴメンよ、母ちゃん」
死確者は手のひらで溢れる涙を必死に拭いていた。でも、その表情は暗いものではなく、どこか希望のある笑顔だった。
それから2人は昔話に華を咲かせる。今度は死確者が私のことを忘れているよう。だがそれでいい。それが目的だ。
私は外に出る。今の私がするべきなのは見張りながら、誰もこの部屋に近寄らせないように、二人の“再会”の邪魔をさせないように、ちょっと力を使うだけだ。
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