天使と教授
第1話
私は今、とある大学にいる。
正確には、大学の教授棟と学生から呼ばれる20階建てのちょっとしたビルの一室、格式高い10畳程の部屋にいる。
床一面に淡い青色の絨毯が敷かれており、扉すぐそばには木彫りの美術品が堂々と置かれている。左手には壁と一体化した本棚が広がっている。日本語英語の分厚く難しそうな本の他に背表紙が緑、赤、青、黒、白、と色鮮やかなファイルがそれぞれ高さ順、また背表紙に付いたシールの番号順に並べられている。相手が几帳面な性格であることがよく分かる。
中央窓側寄りには黒革の椅子茶色の大きな机があり、その上にホチキス留めされた紙の束と固定電話、そして、正式名称のよく分からない据え置きのパソコンが所狭しと並べられている。そんな本棚と机の間には服をかけるポールハンガーが立っており、高そうなコートがかけられていた。
「これで信じてもらえましたよね?」
私は目の前で構えている男性に声をかけた。この部屋の専属利用権利者、つまりネームプレートに大きく書いてある、
「いや、信じない」
口を寄せて組んでいた手を解くと、再び椅子の腕置きについた。またしても同じ答え。辟易してきた。付け加えよう、この人は几帳面であり、尚且つ頑固である。
「あんなのはな、多少金を掴ませれば、見えぬフリをしてもらえる。簡単なことだ」
共に働く仲間をそこまで疑うのか。信頼関係はどこ吹く風。失礼を承知で言うが、友人は少ないか、もしくはいないであろう。
「いいか君、私には種も仕掛けも目に見えてるんだよ。堪忍したまえ」
参った。同じような問答をもう20分近く繰り返している。堪忍したまえ、という言葉が私の口癖になってしまうのではないかと思うぐらい聞いている。
やろうと思えば、誰もが私が天使と信じてもらえるような、最低でも人ならざる者だと思ってもらえるような事ぐらい、今この場で起こすことなど容易いことだ。
だが今回の仕事が終わって冥界に戻った時、待っているのは上司からのお叱りと何枚もの始末書だ。始末書とコーヒーが何よりも嫌いな私にとっては、代償が大き過ぎる。信じてもらうために何の躊躇なく行う天使もいるが、私はやらない。やらないぞ、と決めている。
こっそりやろうとしても無理な話だ。やれば、その瞬間バレる。上司は名の通り、雲の上から司っている神であるのだから、隠すことなど不可能なのだ。神様は見ているぞ。そんな戒めは私たち天使のための言葉なのではないかと常々思っている。
「では、それは一旦置いておいておきます。心残りはなんですか?」
時間もない。解消する道すがら、また色々と見せていくことに作戦を変更した。
「願いは何でもいい。そうだったよな?」
死確者は腕を起こすと、拳を作った手に顔を乗せた。
声のトーンや姿勢表情から、嫌な予感が脳裏をよぎった。なので、「まあ、できる範囲にはなりますが……」と恐る恐る答えた。願いという表現に変えたことへの予防である。
「じゃあ、長生きさせろ」
見事に的中。
「ですので、できる範囲にと……」
「最初の時に何でもと言っていただろうが」
「そんなこと、私は言ってません」
「言ってなくても、その後に肯定したろ」
「できる範囲でなら、と条件付きでなら肯定はしました」
「長生きという願いをしてほしくないなら、最初からはっきり否定すればいい。なのに、君は曖昧にお茶を濁した」
そんなバカな!?
私はすぐさま死確者との距離を縮める。
「な、なんだ?」
少し後退する死確者。だが、大丈夫。私の目的はあなたではない。机の上に置かれた湯のみである。
中を覗く。緑色のぬるい水面がほんの僅かに揺れている。うん、最初の時と変わらない気がするが……
「……何をしてる?」
「いや、私の言葉によりお茶が濁ったと言うので」
死確者は一瞬瞼を複数回はためかせたが、すぐに呆れた表情に変わった。「君は……そんなことも知らないのか」
「恥ずかしながら、知りませんでした。言葉でお茶は濁るんですね」
「違うっ。お茶を濁すというのは、その場しのぎで誤魔化したり取り繕って、話を逸らすことだ」
「……あっ、四字熟語というやつですか?」
「ことわざだっ!」死確者は語気を強めたが、「私ともあろう者が取り乱してしまった」と咳払いした。
「とにかく、君は肯定をしたんだ。自分の言ったことにはしっかりと責任を持つべきだ。違うか?」
そんな無茶苦茶な……私はため息を漏らす。今回の死確者はおそらく、いや間違いなく怒ってる。だから、こう反発的な高圧的な態度になっているのだ。追い出そうとしているのだ。
「ほら、長生きさせろ」
「ですから、それはできないんですよ」
「なぜだね?」
一歩進んだかと思ったら後ろ向きにしか進んでいない現状に、私は一つため息をつく。
できないものはできないんです。というか、考えれば分かることでしょ?
そう言い切ってしまえば済む話なのだが、信頼や信用を得るためにも、私は丁寧に説明することにした。
「未練を解消するというのは、本人の希望を本人の意志で本人の手によって無くすことなんです。あくまで私たち天使は、未練解消の『お手伝い』しかできません。解消するのに直接的に必要な存在となってはいけないのです。それゆえ、私たちが寿命を延ばしても未練が解消された、ということには実はならないんです。それに、生き長らえさせてしまったら、残りわずかな人の未練を解消するという当初の目的と矛盾してしまうため、我々には寿命を延ばす権利を与えられていないんです」
「回りくどい言い方を」
死確者は再び背もたれに寄りかかった。表情は先ほどの強張ったのとは異なり、少し俯いて暗くなっていた。
「無理だと初めから言えばいいだろう」
いや、初めから無理だと言っても、信じないだろうに。
「では、君が仮に天使だとしよう」
だとしようって、そうなのだけれど……
「そして、本当に私の未練を解消しようとしてる、としよう。だがな、それは不可能なのだ。何故か分かるかね?」
「さぁ……」
ドンッ、と死確者は机を荒く叩くと、立ち上がった。勢いに押される私。
「研究できずに死ぬことこそが私の最大の未練だからだっ!」
……うん。
そう叫ばれても、私には、はあそうですか、としか言いようがない。だがそれを言ったところで怒りを助長させるだけだ。なので、何も言わず黙っておくことにした。
ガチャと、不意に後ろの扉の押し開ける音が聞こえた。見ると、シャープなメガネをつけた女性が顔を覗かせていた。
「きょ、教授……お時間です」
先程の怒号が外にも聞こえたのだろう。女性は戸惑いと恐々とした表情を浮かべている。
「あぁ、すまない。今行く。先に向かっていてくれ」
「はい」女性は扉を閉めた。
死確者は白衣を脱ぎ、近くにかけてある高そうな上着を身につける。そして、足元に置いてあったカバンを手に取り、近づいてきた。隣まで来ると、立ち止まった。
「君の真の目的がなんなのか知らないし興味もないが、帰ってくるまでにこの部屋から去るのなら、警察に連絡をするのはやめてやろう。今回だけは見逃してやる。これは私の優しさだ。だが、最後の優しさだ。もしまだいようものなら……皆まで言わずとも分かるよな?」
余韻を残す含みのある言い方をし、死確者は部屋を去った。
警察を呼んだところで、私をどうにかするのは無理であるのだけれど、まあいい。
今回の死確者はいわゆる『オカルト』の類いを全く信じていない派の人間。つまり、幽霊とか宇宙人とか、UMAとか、今回ならそう天使とか。
さてさて、私が本当に天使であると信じてもらうためには何をどうしたらいいだろうか。うーん……
誰もいなくなった部屋を私はくるくる回る。目も四方八方に向ける。ただついて行っても余計怒らせて突っぱねられるだけだし、部屋には戻ってくるみたいだから、残って手がかりを探した方がいい。
何か良いものは……ん?
机の上の写真立てを手に取る。教授の方に向けられている。
手に取り、見てみる。
これって……そういえば資料にも書いてあったな。うん、これならいけるかもしれない。
「……私は出る前、確かに言った」
扉を開けた途端、帰ってきた死確者はたんを切った。
「その意味が分からなかったのか」
部屋にいる私を見ながら、声を震わす。
「いや、分かってはいました」
「ですが」と私がまだ会話中だというのに聞く耳を持たず、「なら、話は早い。君を警察に突き出す、今すぐにだっ!」と小走りで机へと向かう死確者。
「突き出す前に」私は死確者へ顔を動かしながら声をかける。
「脅しじゃないぞ! 本当に警察呼ぶからなっ!」
死確者は受話器を手に取った。
「話したくないですか?」
時間もないので、勝手に続ける。一方で、こちらには目もくれず聞く耳さえ持たず110番を押し、受話器を耳に当てる。
「あぁ話したくないね。君とはもう十二分にっ……」
「私じゃありません。あなたの母親です」
死確者の動きが止まった。そして、目が合った。
「……何?」
「どこかの誰かではなく息子として、母親と話をしたくないですか?」
「……どこからそのことを?」
「私、天使ですから」
「……できるというのか?」
「はい、天使ですから」
死確者はしばらく私の目を見つめてきた。ここで目を離したらもうダメだ、と思い私も目をそらさずじっと見続けた。
受話器から女性の声で「もしもし? どうしましたか?」と何度も尋ねているのが聞こえる。
だが、今度はそちらに聞く耳持たず。死確者は一言も喋らずに、受話器を元あった場所へと戻した。
やっと信じてくれたようだ。
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