第7話

 ピンポーン


 甲高い呼び鈴が扉を介して聞こえてくる。


「はーい」


 男性の声だ。まあ、当然だ。


 扉が開いたのは突然だった。もう少しかかると思っていた。しかし、死確者のマンションとは異なり、三階までしかなく、また簡素な作りだ。隣の部屋との扉の感覚も狭い。そのことを考えれば、妥当か。


「どなた……」


 遅れて聞こえてくる言葉は、「パパーっ」の一言でかき消された。


 両足を囲むように弓弦君が抱きついた。


「おぉっ……えっ、弓弦!?」驚きと笑みが混じった顔をしている。「ど、どうしてここに……」


「私が連れてきたのよ」


 顔を上げ、ハッとした表情をし、「佳苗……」と一言ボソッと呟いた。


 それもそうだろう。裁判で争っている相手が突然現れれば、としては無理もないだろう。


「弓弦、中に入れていい?」


「ああ」


 小刻みに数回頷く夫。目を合わせてはいない。死確者は目線の高さを弓弦君に合わせると、「お部屋で遊んでてもらえる?」と笑みを浮かべた。


「ママは?」


「すぐ行く。でも、ちょっとだけパパとお話ししたいことがあるの。だから、お願い」


「うん」


 上下に頷くと、弓弦君は奥の部屋へ「パパも来てね」と言いながらかけていった。その姿を顔で追いながら夫は、「テーブルのお菓子、食べていいからな」と叫んだ。


 1つ深く息を吐くと、夫は視線を死確者に戻した。


「元気?」


 ハキハキしてる死確者に対して、「まぁ……」と歯切れ悪い。それに加えて、罪悪感があるのがよく分かるほど、俯いて視線を落としている。


 死確者は奥を覗き込んだ。


「まさかあの女がいるんじゃないでしょうね?」


 離婚原因である夫の不倫に関連したキーワードを死確者は無造作に投げた。なんとも怖い話だが、おそらくわざとである。


「……別れたよ」


「何で?」無表情のまま、追及する手を緩めない死確者。「仲好さそうだったじゃない?」


「なんだよ、わざわざ遠くから嫌味言いに来たのかよ」


 夫はバツが悪そうに、けど非を感じているのか、せめてもの抵抗をしただけで弱々しく眉を寄せた。


「な訳ないでしょ」死確者は少し強い語調で突っぱねた。「あなたに確認しておきたいことがあるの」


「分かってるはずだろ。そういうことは、こっちの弁護士を通して話しをす……」


「弓弦のことよ」


 死確者は遮り、はっきりと話した。息子のことを切り出されたからか、夫は沈黙した。


「玄関、閉めて」


 夫はサンダルを履くと、外へ出た。玄関の扉が閉まる音を聞くと、1つ大きな息を吸った。そのまま顔を下げて、目を閉じる死確者。そのままの体勢で、息をゆっくり吐くと、頭を上げた。強い決意が顔に現れていた。


「弓弦を、幸せにできる?」


「……なんだよ突然?」苦笑する夫。


「いいから。できるの? できないの?」


 ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、夫は真面目な顔になる。


「どんなことがあっても必ず幸せにする。何があっても守ってみせる。それが親の務めだ」


 死確者は、夫の顔を凝視していた。正確には目。何も言葉を発さず、ただじっと見つめ合っていた。時間にすれば、たった数秒だ。しかし、2人の空間にはとても濃く、何より大事で時間が流れているように思えた。


 最初に動いたのは、死確者。数回頷き、笑みを浮かべたのだ。


「その言葉が聞けて安心したわ」


「……は?」


「親権は、あなたに渡すわ」


「えっ……」まさかのことに言葉を失う夫。


「弓弦を、よろしくお願いします」


 死確者は深々と頭を下げる。


「ちょっと待てよっ!」夫は死確者に近づく。「あんなに頑なに拒否してたのに、なんで……」


「色々と事情が変わったのよ」


「変わったってお前、何があっても親権は譲らないってしつこく言ってたじゃないか。そらに、正直圧倒的にお前の方が有利な方向だった。なのに……親権渡すくらいの事情ってなんだよ」


「それは、その……」


 視線を落とす死確者。私が死ぬからとは流石に言えないようである。


「とにかく、あの子を悲しませることだけは絶対にしないで。もし悲しませるようなことがあったら、化けて出てやるんだから」


「化けてって、死ぬんじゃあるまいし」


 下手な冗談を聞いて苦笑いするように、夫は口角を上げた。


「嘘じゃないわよ?」


 だが、死確者の一言で真顔に戻った。


「分かった。約束するよ」


 扉が開いた。二人の視線が移る。


「ママー、いっしょにてれびみよー」


 開けたのは弓弦君だ。待ちきれなくなったのだろうか。表情の明るさから久々の両親の再開に気持ちが高ぶっているのがよく伝わってくる。


「うん。一緒に見たかったんだけどね、ママ、弓弦とちょっとだけバイバイしなきゃいけないの。ごめんね」


 死確者の目は少し潤んでいた。


「バイバイってどれくらい?」


「うーん……」返答に困る死確者。


「分からない。だけど、少しの間だけ。だから、それまでお父さんと一緒に待っててね」


「いいこころ、もってたらいい?」


「えっ?」


 弓弦君の唐突な問いに声を漏らす死確者。


「いいこころもってたら、はやくママにあえる?」


 その言葉に死確者は小刻みに震え出す。


「うん。会える。会えるよ……」


「じゃあボク、いっぱいいいこころもつね! いっぱいいっぱいもってるね!」


 抑えていた感情が溢れ出て、涙が止めどなく出てきた。隠そうと死確者は深く俯いた。


「ママ、どうしたの?」下から覗き込もうとする弓弦君。


「……おいでっ」


 弓弦君を抱きよせる死確者。我慢せず、ただ咽び泣いている。


「なんでないてるの?」


 弓弦君の肩は涙で濡れていた。死確者が抱き寄せてからまだたった数秒しか経っていないのに。


「なんでかなぁ……分かんないやぁ……」


 嗚咽を漏らす死確者。


「ママ、いたい……」


「あぁ……ごめんね。またしちゃったね。でも、もう少しだけさせて。お願い」


 そう言って、死確者はまた涙を溢れさせた。




「じゃあお願いね」


 死確者の目は充血し、周りは腫れぼったくなっていた。鼻をすすり、流れ出そうになる水を必死に止めている。


「あとは俺が……責任持って育てる」


 しっかりと目を見て、強く宣言した。たった1日だけだが、今回の死確者は人前で泣くような人間には見えなかったように思える。強く気を張っていた人であることを考えると、夫は何かを察したのかもしれない。


「よろしくお願いします」


 死確者はまた深々と頭を下げて、顔を上げた。これが夫婦というものなのだろう。とはいえ、天使である私には正直言って分からない。


「それじゃ」


「ああ」


「またね、弓弦」


「うん」


 強く大きく振る弓弦君に、死確者は精一杯応えた。


 私は止めていたエレベーターの扉を開けた。


「待たせたわね」


 扉が閉まってから、死確者は口を開いた。


「いえ」


「よし、早く行かないと……」


 えっ?


「どこにです?」


「裁判所。これから色々としなきゃいけないことがあるの。来る?」


「勿論。仕事ですから」


「……正直ね」


「はい?」


「そこはさ、仕事って言わないで、意気というか、気持ちでついていきますって言ってよ」


「しかし、天使が嘘をついてしまったら、マズいですから」


「まあ……それもそうか」


 笑みを浮かべる死確者。私も表情を緩ませた。心はないが、心から。駄洒落でも嘘でもない。


 エレベーターが一階に着いた。裁判所へ向かうため、弓弦君の将来のため、私と死確者は閉じた空間からゆっくり一歩を伸ばした。大きく強く、踏み出した。

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