第6話

 死確者は再びマンションの廊下を歩いていた。同じく七階。

 時刻は既に23時を過ぎ。日差しが差し込んでいた昼間とは打って変わって今度は、真っ暗な闇夜が唯一の光である廊下の明かりを飲み込もうとしていた。


「本当にいいんですか?」


 こう横を見て尋ねるのも何度目だろう、ここまでくると配慮ではない気もするのだが、私も仕事だ。


「いいの」


 死確者はにこやかに、即答した。少し前屈みになって後ろに手を回しているのは、目を固く閉じ、だが少し口を開けて、寝ている弓弦君が背中にいるからだ。


「疲れてますよね?」私はさらに尋ねる。


「そりゃ疲れてるわ。あんなにかけ回って遊んだんだもの」


「だったら……」


 もう着くというのに、私もしつこい。天使ならではの性分なのか、私個使の問題なのか。


「この子の重さを感じてたい。だから、背負いたいの。体に嫌ってほど染みつかせて、これから先もずっと忘れないようにね」


 そうなのか……私にはその感覚がよく分からない。心、というものがないからだろうか。それさえよく分からない。


「満足できましたか?」


「なわけないでしょ。1日なんかじゃ全然足りない。足りるはずがないじゃない」


「ですよね」愚問であった。


 弓弦君は鼻腔を鳴らしている。ぐっすりだ。何も知らないことは幸せなのかもしれない。そんなことを思ってしまう。


 恵美子さんの部屋を通り過ぎた。あと少しだ。


「ではせめて、玄関くらいはお開けします」


 私は少し前へ駆け足で先に向かった。


「あっ鍵はバッグの手前のポケットに入ってるから取って」


「大丈夫です」


 私は人差し指を立て、手前にクイッと半回転させる。玄関には触れていない。触れなくても、問題ない。勝手にガチャリと音を立てて、独りでに開いてくれるからだ。続けて、人差し指でクイっと回して部屋の電気をつける。一斉に部屋の電気が点いた。急に温かみが出て、幾分活気まで出てきた気がする。あくまで、気がする。


 私の家ではないので、どうぞとまでは口にしなかったが、それでも軽く手で中を誘導するように示した。前まで着くと、死確者は即座に入らず、玄関から煌々と明かりの付いた部屋を少し見つめた。


「不法侵入、し放題ね……」


 ボソリと呟いた。


 その意味に気づいて慌てるのに、2秒程かかった。「そ、そんなことしませんからね!」


「冗談よ冗談。本気にしないでよ」


 笑った死確者は「どうぞ上がって」と一言。許可を得た私は帽子を取りながら中へ入った。


 すぐそばにはキッチンと一体化したリビングがあった。左そばには顔を上げればすぐ小窓があるシンクが、壁際には食器棚、上に電子レンジの置かれた冷蔵庫が、斜め左前に二人がけのテーブルが置かれている。一方、玄関入ってすぐ左手には洗濯機や洗面所やお風呂、斜め前にはトイレと書かれた扉があった。

 少し奥には、恵美子さんの部屋と同じようにすりガラスで仕切られた居間が広がっている。畳が敷かれた上には、低いテーブル、大きめのテレビ、アイロン、木目模様のタンスや書類が多く並べられた本棚が置かれていた。テレビ奥のカーテンレールにはハンガーが幾つもかかっており、洋服が吊るしているのが見えた。殆どが子供服である。


 略歴にもあった通り、“綺麗好きでマメ”な性格が出ている。どこもしっかり片付いていた。


 居間の方へ歩いていくと、その奥の襖を開けようとしていた。私は「やりますよ」と、クイッと横に引っ張って開けた。


「ありがと」


 布団はもう既に敷かれていた。2つ、サイズは異なる。おそらく寝室として利用しているのだろう。

 死確者は布団の上に立った。だが、それから先がなかった。下ろさず、ただじっとその場で立ち尽くしているのだ。


「どうしました?」


 そう声をかけても反応はない。時間が流れる。しばらくして、ようやく死確者は動き出した。ゆっくり膝をつき、ゆっくり弓弦君を下ろした。


「さっきの、満足したかって質問の続きなんだけどさ」


 死確者は布団を肩の下までかけ、シワを伸ばすかのように軽く整えた。


「明日死のうが、50年後死のうが、どっちにしろ足りないんだと思う」


 弓弦君の髪を撫でる。優しくそっと静かに。起こさぬようにもだろうが、それだけではない気がしてならなかった。


「50年も経つと、子供は十分大人、それもかなり高齢になってますけど……」


「年齢の問題じゃないわ。親っていうのは、いつまでも子供のことが心配な生き物なのよ」


「そういうものなんですかね」


「そういうものなの」


 死確者はおもむろに立ち上がると、振り返った。私は襖の前で邪魔になっていた体をどかす。死確者は寝室を出ると、静かに襖を閉めていった。だが閉め切らずに少しだけ、開けたまま、死確者はキッチンへと向かった。開いた隙間をちらりと覗くと、僅かに弓弦君が見えた。


 死確者は脱いだ上着をテーブルの上に半分投げるように無造作に置くと、冷蔵庫を開けた。


「何か飲む?」


「いえ、大丈夫です」


「そう」


 死確者は、冷蔵庫から水を取り出した。いわゆるミネラルウォーターというやつだ。シンクそばの洗い物ケースに逆さにしてあるコップを手に取ると、なみなみ注いだ。その場で口にし、すぐさま一杯飲み干すと、もう一度注いだ。

 今度は飲まずにテーブルに置いた。ミネラルウォーターをしまうと、再びコップを手に取った。死確者と目が合う。


「座らないの?」


「えっ?」


「遠慮してるなら、別にいいから。疲れちゃうから座りなよ」


「ではお言葉に甘えて」


 私はその場に腰掛けた。


 居間にある低いテーブルの上に置くと、次に居間の本棚からファイルを引っ張り出してきた。どんどんどんどんテーブルの上が埋まっていく。結果、全てがテーブルの上に置かれた。どっさりという表現が適した、ものすごい量だ。


 死確者は山積みの資料を一瞥しながら、Yシャツの第一ボタンと袖口のボタンを両腕とも外し、まくった。


「よっし!」


 そう意気込むと、ファイルをめくり出す。中には、法律関係の難しい言葉が羅列されている。何が書かれているのかさっぱりである。


「そういえば、今日はコーヒーは飲まないんですか?」


 ふと思い出した疑問をぶつける。


「うん」視線は資料に落としたまま応えてくれた。「私、コーヒー飲むと眠くなっちゃうのよね」


 これで確定。コーヒーは飲むと眠くなる飲み物である。


「しかし、お疲れなのに寝ないんですか?」


「仕事の引き継ぎをしないと。ほら、残された人が迷惑でしょ? それに、明日から思う存分寝られるし」


 最初、質問した時「邪魔しないで」とか怒られるのではないかと思ったが、「うん。飲むと眠くなるのよ、私」と全く問題なかった。死神から言われていたから戦々恐々としていたが、なんだ、まったく普通の子供を愛する母親ではないか。側面ばかり見ていても、分からないものである。


「何かお手伝いできることがあれば」


 私はテーブルに体を寄せた。


「お言葉に甘えちゃおうかしら」


 詳しい指示を受ける。言った手前、難しいのが来たら断りにくいなと思っていたが、そこは配慮をしてくれたようで、私のような知識が皆無な者にでも出来ることを渡してくれた。


「それじゃあ、お願いします」


「はい」ただ、当然量は多い。


 私は帽子を畳に置き、早速取りかかった。




 ふと時計を見る。短針は3に、長針は11の位置に来ていた。もう4時か……4時……あっ。


「1つよろしいですか?」


「ん?」死確者はファイル類から視線を上げて、いつの間にやら付けていたメガネを外した。「何か分からないことあった?」


 疲れが溜まってきているのだろう、鼻の上部を指先でつまんでいる。


「いえ。お仕事のことではないんです」


 死確者は指を目から離した。


「心は言葉や行動の中にあるんですよね?」


 死確者は一瞬なんのことかと眉を上げたが、すぐに笑みに変わった。


「聞いてたのね」


「まあ」


 遊園地で二人きりになるように距離は離していたが、一応私もそばにはいた。何かあった時のために。




「美味しい?」


 死確者は顔を少し落として近づけた。勿論、弓弦君に、だ。近くのワゴンで買ったハンバーガーセットを頬張っている。


「うんっ!」


 頬にケチャップを付けている顔はなんとも幸せそうだった。


 時刻はもう16時を回ったところ。死確者と弓弦君は遅めの昼食、いや早めの夕食を遊園地の中で取っていた。


「ほらぁ」死確者は紙ナプキンでケチャップを拭った。「そんな急がなくても誰も取ったりしないから、慌てないでちゃんと噛んで食べなさい」


 お腹が空いていたのか、構わず頬張る弓弦君。それをただじっと見つめる死確者。辺りでは風船を持ったおさげの女の子がスキップしていたり、乗り物の順番で喧嘩している兄弟、キャラクターが怖いのか泣き喚いている赤ん坊……子供だけを例にとってもうるさいはずなのに、この二人の空間には邪魔にさえなっていないように見えた。


「弓弦」


 死確者は腕を置いて、少し前のめりに体を動かした。


「なーに?」


「心臓、ってどこにあるか知ってる?」


「んーとね……」ハンバーガーを元あった場所に置くと、「ここ!」と胸を叩いた。ドンという音が聞こえるほど強い力だ。


「そうだね。そこが心臓だね。じゃあ、心はどこかな?」


「んー……ここ?」


 同じ場所を叩く。しかし、自信がないからか、先ほどよりも叩く力は弱かった。


「そう思うよね? だけど実はね、そこだけじゃないの」


 死確者は小さく笑みを浮かべた。


「心っていうのはね、弓弦の話すことやすることの中にあるんだ」


「どういうこと?」


 これでもかと首を傾げる弓弦君。ピンときていない様子だ。


「例えば、誰かに『ありがとう』って言ったりするよね?」


「うん。このまえ、ヒロシくんがダイオウガーレッドのおにんぎょうをひろってくれたとき、いった」


「偉いね。じゃあ、電車でおじいちゃんおばあちゃんに『お席どうぞ』したりは?」


「ううん、まだ……」弓弦君は申し訳なさそうに視線を落とした。


「いいのよ、これからで。慌てないでゆっくりやってみて。とにかくね、色んな言葉もすることも全部心なの。でもそれはね、心は心でも“良い心”っていうの」


「いいこころ?」


「そう。それとは反対に、誰かの悪口を言ったり、誰かにイジわるしたりする“悪ーい心”もあるんだ」


「そーなんだ」


「だから、ママと約束して欲しいんだ。弓弦はこれからずっと善い心を持って欲しいんだ。できるかな?」


「できるっ!」


「指切りは?」死確者は小指を立てて差し出した。


「できる!」弓弦君は同じく小指を出して、固く結んだ。「ゆびきりげんまん」


「嘘ついたら針千本」


「「のーますっ!!」」


 少し高く上げながら、互いに解いた。


「よしっ! じゃあ、次は何乗ろっか?」


「ううんとねえ……あっ、お馬さん!」


 真っ直ぐ指差した先には、くるくる回っているメリーゴーランドがあった。




「はい」


 聞いていたという答えを正直に話した。


 死確者はメガネをそばに置いた。


「私はそう思ってるわ。でも、それがどうかしたの?」


「実は恥ずかしながら、私、勘違いしてまして」


「勘違い?」


「心の位置です」


「どこにあると思ってた?」


「ここです」


 私は死神に教わった心の場所を指差した。しばらく目を丸くして見続けていたが、突然風船が割れるように、吹き出して笑い始める死確者。


「どうしました?」


「そこは太ももっていうの」


 続けて、「笑わせないでよ。心臓ですらないじゃない」と言うが、私は何も笑わせようと思っていなかった。


「あっ、そうだ。聞こうと思って忘れてたんだった」


 私の顔を見てくる死確者。


「あなたよね。道路で車をどかしたり、遊園地で順番待ちを減らしたのって」


「あっ、バレました?」密かにやっていたことなのだが……


「そりゃ、否が応でも気づくわよ。むしろ偶然とか言われた方が怖いわ。選ぶとこ並ぶとこに人や車が避けていくのなんか……ほら、なんだっけ」


 死確者は目を強く瞑り、頭を人差し指で突いた。


「あのー……あっ、そう、もーせ!」


 突然なんだ?


「まるで、海をパカって割ったのを彷彿とさせる光景だったわ」


 ああ。だから、モーセか。


「けど、何もかもがスムーズなら行けたおかげで全部のアトラクションに乗れたわ」


 成る程。今まで誰も指摘してくれなかったから分からなかったが、人間にはそんな奇怪な風に見えていたのだな。ならば、今度からはもう少し上手くやらないといけない。多少力をセーブするということも大事なようだ。

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